1996/4/28 礼拝説教 「過去は今にあらず」 (2Cor. 5:17-19)


「過去は今にあらず。我過去に戻ることあたわねど、そは我が望みならず。我かつて過去
を愛したれども、いまよりのち再び過去を愛さじ。我は今この時を愛す。」  バーンス
タインという作曲家をご存じでしょうか。ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」
の作曲者として、またオーケストラの指揮者として、音楽界における今世紀最大の人物の
一人に数えられています。そのバーンスタインの作品の一つに、「キャンディード」とい
うミュージカルがあります。実は、この曲の関西初演がこの4月12日に大阪でありまし
て、私も合唱団の一員として参加させていただきました。日本語訳で演奏したわけですが、
そのクライマックスにでてくる台詞の一節が冒頭に紹介した言葉です。 この「キャン
ディード」、原作はヴォルテールという、18世紀のフランスの思想家です。啓蒙思想家
として当時の社会を批判し、新しい近代的な価値観の創造に努力した人です。物語の中に
は、拝金思想への批判、中世的教会への皮肉、王政への嘲笑などがあちこちに盛り込まれ
ています。 物語そのものは荒唐無稽なもの。楽天主義者の主人公キャンディード、王子
ですが、贅沢にあき足らず、世界に旅に出ます。そこでいろいろな世のありさまを見、ま
た自分の愛した女性の堕落をも見てしまいます。「善とはなにか、悪とは何か」。キャン
ディードは悩んだすえに、冒頭の言葉を述べ、堕落したかつての恋人を受け入れるのです。

 原作者のヴォルテールは教会を批判し、また作曲者のバーンスタインはユダヤ人でした。
その意味で、ここにはキリスト教会に対する批判が基調となっているのは当然ともいえる
でしょう。しかし、冒頭に紹介した言葉、これは私の心を強く引くものでした。そこに聖
書の言葉が重なってくるのです。それが今日お読みした御言葉です。悔い改め、新たな人
生を歩むときに与えられることの多い御言葉です。私自身、初めて祈りをしたときにある
牧師から与えられた言葉でした。「だれでも・・・。」 神は私たちを受け入れるときに、
過去を問いません。もし過去についてとわれるのであれば、だれが神の御前に立ち得ましょ
うか。ユダヤ教の教えは、過去を重んずるものとなっていました。先祖からの言い伝え。
規則。禁令。もちろんそれ自体が必ずしも悪いわけではないでしょう。しかし、それを用
いる人々はいつのまにか「法」が人間よりも上に置いてしまっていたのです。法が人を縛
る状態。過去の経歴を問われ、とがめられる。福音書にもあります。ある盲人に対して、
弟子たちが問いかけます。「先生、この人の目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。
本人ですか、両親ですか。」 法という目にみえる形での悪がなかったとしても、内面的
な悪がない人がいるでしょうか。怒り・妬み・そしり。人の心は汚い思いで一杯です。
「何と私はみにくい人間なんだろうか」、そう悩むことはなかったでしょうか。そこで自
分を否定してしまうようなことも起こってくるのです。 こんな私を誰が受け入れてくれ
ようか。そう言って思い悩む人の何と多いことか。
  ですが、ここに一つの答えがあります。神はあなたを受け入れる、という答えが。聖
書には何と書いてありますか。キリストを受け入れるものは「だれでも新しく創造された
もの」であるというのです。創造とは、過去にあるものを利用して造ることではありませ
ん。最近さかんな「リサイクル」ではないのです。いちから作り出すこと、それが創造な
のです。「古いものは過ぎ去った」のです。そこには過去の影はありません。私たちの過
去の、きれいなものも汚いものもすべてひっくるめて、神は私たちを受け入れてくださる
と言うのです。イエスキリストにおいて与えられた、新しい命がそこにあるのです。

 もう一つのことを、冒頭の言葉から読み取ることができます。すなわち、「いまより後、
再び過去を愛さじ。」 確かにキリストを信ずる私たち一人一人は新しくつくられました。
しかし、つくられたものはその瞬間にすでに古くなってしまうのです。私たちは過去を愛
してはいないでしょうか。習慣の中に埋没していませんか。もう長い間、いつもおこなっ
ているある行為を、なぜそれをするのか考えてみたことがありますか。私たちは自分の周
りが大きく変わることを恐れます。いや、ほんの僅かなことに対してであっても、強い抵
抗を感じます。いつも右においてあるものが、今日は左にある、ただそれだけでも拒否反
応を示してしまうのです。 それは、過去を愛し、過去に執着してしまっているのではな
いでしょうか。 私たちは本能的に安定を求めます。しかしそれはすぐに「怠惰」にかわっ
てしまいます。なにかと理由をつけて言い逃れをし、おなじ状態を続けるのです。 しか
しそれは望ましいことでしょうか。神が「踏み出せ」といっているのに、なぜ躊躇してし
まうのですか。「神はわが力」と歌いながら、なぜ一歩が踏み出せないのですか。「私は
世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」というあのイエスさまの言葉はどこにいっ
たのですか。確かに、何かを変えていこうというときには大変なエネルギーが必要です。
人間の思いでは到底できそうに思えません。しかし、本当に必要なことであれば、神様は
必ず力を与えてくださいます。イエスさまが共にいてくださるというあの約束があればこ
そ、私たちは歩みだすことができるのです。
   過去を愛し安住するのではなく、日々新たに今を見つめ、そしてキリストに向かっ
て歩んでいこうではありませんか。