1996/7/28 礼拝説教 「『神の国』行き『教会』号」

聖書 マタイ23:25-28


 「『教会』号の切符の前売りはありませんか」 先週、こうお尋ねになった方がいらっしゃいました。私はその時、残念ながら当日券しかありません、とお答えしました。これは当日の説教をお聞きください、ということでありました。でも、後でふと考えました。「教会」号の切符はどこにあるのでしょう。礼拝の受け付けで売っている? 教会役員が持っている? あるいは牧師が密かに隠し持っている?

 本日の礼拝後には、会堂建築に向けた教会セミナーがもたれます。目的は「教会形成について」となっています。もちろんここで扱うのは、「入れ物」としての教会ではなく、人と人とのつながりである「目に見えない」教会です。会堂をたてようというのに、教会がいかにあるべきかという理念を論議するのは、回り道に見えます。建てていきながら考えればいいじゃないか、と思えます。現実に、建物が先で中身はあと、ということはしょっちゅうあります。教会の建築とはいったいどのようなことでしょうか。

 教会とはなにか。クリスチャン以外の観点に立って考えてみましょう。ヨーロッパを旅行する観光客は、必ずといっていいほどどこかの教会に立ち寄ります。キリスト教をはぐぐんだ西欧の教会はそれぞれ歴史もあり、文化財としても貴重なものです。ローマのサン・ピエトロ、パリのノートルダム、ケルンの大聖堂。それぞれに歴史を刻んできた教会たちです。その存在そのものが文化と言って良いでしょう。 しかし、多くの観光客はこれらの教会を「文化遺産」として見ています。「遺産」、すなわち「前代の人が残した業績」です。いわば「ハコ」でしょう。日本人にとってはキリスト教文化は異質なものであり、また学校で教えられた中世のキリスト教に対するイメージは良くないものであるがゆえに、それらの会堂を「過去のもの」とみなしています。だからこそ、ミサをまるで展示物のように、アトラクションを見るようにみているのです。

 華やかな教会は、ヨーロッパにも日本にも数多くあります。建築に関する賞をもらっているところも少なくありません。しかし、その陰には捨てられた教会もあるのです。ヨーロッパの片田舎にある小さな教会。司祭が一人でミサを守っている。村人はたまにしか訪れないか、村人そのものがほとんどいない。カトリック教会という一つのシステムの中で支援体制ができているからこそ、存続できているのでしょう。 日本も例外ではありません。北海道の教会は開拓伝道を通し、そのような苦労を担ってきました。外国からの援助は5年で打ち切られる。それまでに教会を形成しなくてはならない。成功した教会もあれば、失敗した教会もありました。また産業形態の変化によっておこった人口移動により、地域の住民はほとんど移転してしまった。その中での教会はどうなったか。会堂は朽ち果て、屋根の上の十字架は横棒が落ち、直立する一本の棒になってしまった。そんな教会が現実にあるのです。

 では、町中の教会は大丈夫なのか。そんなことはありません。昨年、交換講壇での田辺地の塩教会の山田牧師のお話にありました。立派な会堂はできた。100人以上が入れる、大きな美しい教会。でも日曜の礼拝では何人がいたのか。たった数人だったというではありませんか。その教会はその後いったいどうなったのでしょうか。

 路線バスの車掌さんをみかけなくなったのはいつの頃からでしょうか。私が子供の頃にはまだ時々乗っていたものです。交通機関の自動化は急速に進みました。運転手だけのワンマンカーはもちろん、コンピューターで遠隔操作された運転手さえもいない自動運転の電車もあります。ジャンボジェットやタンカーも今では2、3人で操縦できるようになりました。
 
 ところで、今回話題の「教会」号。乗務員は誰でしょうか。お客は誰でしょうか。もちろん、神様がコントロールセンターであり、「神の国」が目的地であることはもちろんです。でも、「教会」号は全自動運転でしょうか。それとも誰かが「運転」していくものでしょうか。 教会のもっとも上に立つのはもちろんイエスさまですが、この世に存在する教会には、この世における指導者も必要になってきます。それが牧師であり、教会役員です。ではこの人達が運転手ですか? 

 もちろん牧師の働きは重要です。良くも悪くも、牧師との相性で教会へくるか否かが決まってしまうことは否定できません。その意味で、教職には大きな責任があります。ですが、教会とは牧師のものなのでしょうか。牧師はそんなに立場の高い人なのでしょうか。日本人は権威に弱いのか、「先生」と呼ばれる人に対してへりくだり「すぎる」ようです。そのゆえにか、ワンマンと呼ばれるような牧師も存在しているようです。 でも、牧師もやはりその教会に連なる「信徒」の一人なのです。たまたま神の言葉を語るという職をを与えられたにすぎないのです。現在の日本キリスト教団の規定では教職は教会の信徒籍はもたない、となっていますが、そのような区別は牧師と信徒の違いを強調しこそすれ、両者の協同を促すものとはいえません。 信徒同士がお互いに信仰を励ましあうのと同じく、牧師と信徒との間でも励ましあいは必要です。そのような観点に立ってこそ、教会全体としてのまとまりができてくるのです。

 教会に必要なものはなにか。それは建物ではありません。いっそ、建物がないほうがよいのかもしれません。パウロは語ります、「見えるものではなく、見えないものに目を注げ」。信徒、また来会者、さらに牧師まで含めた、「イエスのもとに人々が集う場所」それが教会です。その中で教会のもっとも中心となるのは信徒一人一人です。この宇治教会はもう50年の歴史を持っています。最初は会堂を持たない教会であったことを考えて下さい。その中で信仰の交わりをもってきた、信仰の先輩たちに比べて、今の環境は恵まれています。しかし、そのゆえにこそ中身が問われているのです。

 今日の聖書の箇所で、イエスは、パリサイ派や律法学者たちに対して激しい非難を浴びせています。外と内との矛盾。外側ばかりを気にし、内面を省みない、というのです。これは現代の教会にもまったくその通りに当てはまる言葉です。美しい会堂、大きな会堂、開かれた会堂、社会に参加する会堂…いくらいい「ハコ」があっても、その中身によって意味はおおきく代わってきます。「目に見える面」ではなく、信仰者の群としての教会をおもえ、と。しかも26節は語ります、内側のことを思えば外側は自然についてくる、と。 内なるエネルギーに満ちた教会の建築の成功例は今までにも見てきたところですね。

 「教会」号の切符は、どこに売っているものでもありません。「切符を買う」ということは、誰か他の人が造った教会といういう乗り物にのっていく、ということです。それは完全な受け身の姿勢です。ですが、「教会」号そのものは、私たちみんながつくり、みんなで協力して運転していくものです。すなわち、私たち一人ひとりそのもの、私自身が切符なのです。 しかも、最新の機械がたったひとつ部品が欠けただけでまったく動かなくなるように、この教会に集うたった一人が欠けてもそれは不完全なものとなってしまいます。

 この教会がなすべきわざはなにか、真摯に神に祈りもとめることを第一に、そこで示されていくものの実現につとめていきましょう。