説教「かたつむりとやどかり」

 
<要約>
 ヤドカリは自らが成長するとともに
住む貝を取り替えていく。しかしカタ
ツムリは同じ殻を背負い、しかも成長
するとともに殻は大きくなっていく。
 信仰者もこれと同じである。自分に
あわなくなった、自分の利益にかなわ
なくなった神は捨て、別の神のもとへ
走るようなことをいくら繰り返しても
永遠に満足を得ることはない。人間の
つくったような神は、なんの救いも与
えてくれないからである。自らが頼る
べきものを自分で選ぶことは愚かなこ
とである。逆に一つの神に留まり、と
もに成長していくことはカタツムリに
似ている。それは頑固で愚鈍な歩みの
ようであるが、その時その時の自分に
あった神理解が与えられ、神と共に歩
むという生き方である。神は我々のそ
の時々に応じた道を示してくださる。
 また、ヤドカリのような生き方は、
何者にも縛られていないようでいて、
実は不自由や不満を強く感じることに
なってしまう。逆に一見拘束の多いよ
うなカタツムリ的生活は、自由と喜び
を与えてくれるのである。そこには神
の与えたもう何者にも左右されない永
遠の安らぎがある。


<本文>

 雨上がりにみるかたつむり。磯で見かけるヤドカリ。ヤドカリは春の、かたつむりは夏の季語です。その姿を想像することで涼感を得ることができるでしょうか。

 かたつむりとヤドカリ。この両者の共通点はなんでしょうか。それは、どちらも「家」を背負っていることです。でもそれぞれの家はちょっと違っています。ヤドカリは成長するにつれて、家となる貝を取り替えていきます。小さい家は小さい貝に、大きくなれば大きな貝に。離れないようにするために、摩擦でしがみついています。が、かたつむりの殻は体の一部分ですから、同じ殻を背負って一生をおくるのです。しかし、その殻は成長につれてだんだん大きくなっていきます。小さいときには小さな殻を、大きく育てば大きな殻を背負うようになります。

 この二つの小動物の姿に、人間の姿が重なってきます。ヤドカリのような人とはどんな人でしょうか。自分の必要に応じてその頼るものを変える人。お金でしょうか、地位でしょうか。その時々に頼れそうなものに寄り掛かり、しがみついていきます。宗教においても同じでしょう。自分の都合にあわせて神様を変えていく。寄るべきものを、自分の目的に合わせて選んでいく。そして自分の体に、自分の都合に合わなくなればその神様を捨てて、別の神様のもとへむかっていく。この繰り返しでしょう。そこには自分の都合しかありません。神様を自分の体に合わせて選んでいるのです。

 しかし、頼るべきものを自分で選ぶとは、いかに愚かなことでしょうか。最近のヤドカリは、水辺のごみを家とすることもあるそうです。小さな空き缶をすみかとするヤドカリもいることでしょう。それははたからみると愚かなことに思えます。しかし本人は気づいていません。もともとの意義を忘れ、形にこだわって頼るものを探した結果は、愚かなことに終わってしまうものです。

 では、かたつむりのような人とはどんな人でしょうか。その人は愚鈍なまでに一つのものにこだわります。頼るものを変えることができず、ただひたすら一つのものに従っていくのです。これもやはり、はた目からは愚かに見えることでしょう。

 でも、もう少しよくみてみましょう。かたつむりの殻は、その体よりも大きすぎることはありません。小さすぎることもありません。ちょうどその体にあった殻をいつも背負っているのです。殻は体に合わせて成長していくのです。これを神との関係に置き換えてみるとどうでしょうか。小さいときには小さいなりの神様の理解があります。それは素朴な理解でありましょう。大きくなれば、その年に応じた理解ができるようになります。少しずつ、神様に関しての理解が深まっていくことでしょう。それはその時々の自分の背の丈に見合った理解といえます。ひとりの神様を、少しずつ理解しながら成長していくのです。しかも無理のないように。

 私たちは神様のすべてを理解することはできません。もしできるのであれば、それは作りものの神でしょう。しかしすべてを理解できなくても、神様はその時々に必要なことを教えて下さいます。苦しいとき、嬉しいとき。悩みの時、楽しみの時。それぞれに神様から与えられるのです。時に応じた、神との交わり。これが「神とともに歩む」ことなのです。

 また、ヤドカリのような人は「軽やか」といえるかもしれません。一つのところに拘束されることなく、自由に自分の場所を変えることができるのですから。

 新聞にこんな投書がありました。娘は携帯電話を持っている。たまたま、娘のところに遊びに立ち寄ったら、夜といわず朝といわず、しょっちゅうどこかにかけている。それも話をする、というよりも「合図」をおくる、という感じで。投書したお母さんは、そこまでしないと友達が保てないのか、と書いていました。いつでも連絡がとれる、となると、今度は逆にいつも連絡をとっていないと不安になる、というのです。家だけに電話があったときよりも自由になるはずが、かえって不自由さ・不安を増しているのです。

 ヤドカリのような人は、落ち着きのない状態におかれてしまいます。いつでもほかのところに移れる、ということは、逆に不安定感を増すばかり。「うまくいかなければ他がある」と考えることで、かえって自分の居場所をなくしてしまうのです。
 
 宗教においても、それが今の人々がおかれている状態ではないでしょうか。日本に神様はたくさんいます。伝統宗教から、新宗教、新新宗教。「宗教ブーム」といわれた一種の流行まであります。しかし人々はどうですか。満足していますか。いいえ。相変わらず、この神がだめならあの神だ、といってどんどん宗旨替えをしていくのです。それは終わることのない、永遠の探求になるでしょう。どこまでいっても、落ち着く場所が見つからないのです。その間に、人々の心はどうなってしまうのでしょうか。

 カタツムリのような人はどうか。頑固にも一つのところにこだわる。世間の評価ではよくいえば「筋が通っている」、悪くいえば「融通がきかない」。キリスト教に対してもこういう評価がありますよね。「酒飲むな、たばこ飲むなのご宗旨は、ああ面倒な宗旨なりけり」という川柳があるくらいで、どうも誤解が多いようです。しかし、「面倒な宗旨」のはずですが、それを信じている人と信じていない人とではどちらがより豊かでしょうか。不自由なようにみえて、愚鈍なもののようにみえても、実はその人は豊かな財産を持っているのです。これもまた、不思議なことですね。

 今日ともに読んだ御言葉では、主は他の神に向かうことを戒め、ただひとりの神に従うことを命じています。多くの神に向かうことは、結局はやすらぎを得ることができません。神を取り替えることにきりはないからです。ここだけではなく、旧約聖書全体、いや新約聖書も含めた全聖書は、「唯一なる神に立ち返る」ことを勧めています。ただ、唯一の神に、愚鈍なまでに従うこと。それが永遠なるやすらぎをもたらすのです。

 かたつむりとヤドカリ。どちらの生き方をあなたは選びますか。