1996/9/29 礼拝説教 「教会は一日にして成らず」 使徒2:43-47
今日の午後には、今年度2回目の教会セミナーがもたれます。7月に第一回を持っ
たばかりで、「またか」という思いをもたれる方もいらっしゃるのではないでしょう
か。ほかでもない私も、そう感じました。理屈ではセミナーが大事なことはわかって
いても、何度も大変だ、という感を免れ得ない方もあると思います。
教会は最初はどんな姿だったのでしょうか。そもそも教会とはどのようなものなの
でしょうか。
今日読んだ御言葉の中には、できたばかりの教会の姿が描かれています。共に神殿
に集い、共にパンを裂き、共に讃美しています。この部分で注目したいのは「1つ」
という言葉です。「一つになって」という言葉が3回出てきます。「一緒に」という
言葉をも加えるなら、4つになります。この文章を書いたルカは、人々が心を一つに
あわせていた、ということを強調しています。
イエスさまは、「二人又は三人がわたしの名によって集まるところには私も共にい
る」(MK.18:20)とおっしゃいました。これこそまさに教会の原型といえましょう。
教会とは、建物ではない。ただ集まっているだけでもない。それがイエスさまの名に
よるものであること、それによって教会が教会となるのです。
また、聖書に描かれている最初の教会の「建物」はどうだったのでしょうか。これ
も今日のみ言葉に端的に出てきます。すなわち46節「神殿に参り、家ごとに集まっ
て」とあります。神殿とはユダヤ教の神殿、エルサレム神殿のことです。家とは各個
人の家のことです。つまり、独自の会堂など持っていなかったのです。根拠地となる
ところを持っていない、という事になるでしょう。しかし、だからといって彼らの活
動が停滞していたわけではありません。逆に、47節「民衆全体から好意を寄せられ
た」ほどに熱心だったのです。だからこそ、「主は救われる人々を日々仲間に加え」
られたのでしょう。
おもえば、福音書には家に集う場面が多く描かれています。イエスさまは家に入っ
て共に語り、共に食事をされました。それは教会の原点といえましょう。「家」とい
う個人の空間から始まったものと考えることができます。個人の空間であれば、そこ
に集う人々が何事かに関わらないではいられません。各々、自分ができることを分担
してやっていくのです。それも強制的にではなく、自発的に。放っておいても、自分
がしなくても、誰かがやってくれる、そんな公共的な空間ではなく、私的な、一人一
人が関りを持っていく空間。それが教会の姿です。
草木は枝や根を張ります。その長さは決して適当ではありません。根は体全体に必
要な水分や栄養分を不足なく取れる長さに、また枝は無駄に栄養を消費しないように、
実に精密な長さで造られています。ところでイエスさまは私たちのことをなんとおっ
しゃいましたか。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である」(Jn.15.5) と
いうのです。私たちが木の枝であるなら、その一本たりとも無駄には造られていませ
ん。教会に集う人々はすべて、一人たりとも欠けてはならないものなのです。
私は時々プレゼントとして花束をつくることがありますが、そのときには玄人ぶっ
ていろいろ注文をつけます。花は何本にするか、取り合わせは何にするか。さらに、
どのくらいまで葉や花をつけておくかがポイントになります。その時には、たった一
枚の葉でさえその有無が気になり、店員を困らせたりします。たった一枚の葉が、全
体のバランスを高めたり、逆に崩したりするように思えるのです。何の変哲もない一
枚の葉っぱが、花束全体の美しさを左右する。教会という共同体も同じです。一人一
人は小さなもの、一人で何かをしようとしてもその力は限られています。しかしまと
まりの中に入って共に協力しあえば、一人が二人三人、いやそれ以上の働きができる
のです。
「私一人なんていてもいなくてもおんなじ。」本当ですか。誰がそれを決めたので
すか。自分自身ではないのですか。その自分とは?鏡という道具を使わなければ、自
分の姿を見ることさえできない自分に、自分の全てがわかっているというのですか。
私のことを、その全てを知っているのは神様だけです。まずその神様に、「今わたし
ができることを教えて下さい」と祈ること。それが私たちがまずなすべきことです。