1996/10/20礼拝説教「立ち尽くすポスト」 ローマ11:33-36
ポストは手紙を取りにこちらに来たりはしない。こちらから入れに行くまで、じっと立って待っているのである。人間には神からの招きがある。それはイエスにおいて示された。神からの手紙は聖書という形で配達されているのである。私たちはそこで何をすべきなのか。神はポストである。メッセージを送ってはくるが、返信を強要はしない。ただ、信仰を持つものの応答をじっと待っているのである。それはまるで雨の日も風の日もじっと立ち尽くすポストのように、辛抱強く私たちの返事がいれられるのを待っているのである。
また私たちの家にはポストがあり、来信をいつでも待っている。そのように、いつも神様からのメッセージを受け入れる準備ができているか。
今日の説教のタイトルにある「ポスト」。今日は選挙の日ですが、「地位」とか「役職」という意味の方ではありません。あの町角で見かける、「口が一つで一本足、四角くて赤いからだ」のポストのことです。それから、各家庭にも一つづつありますね。玄関口にあって、もう一つの「家の顔」といえるかもしれません。
私たちの家にあるポストを思い浮かべてみましょう。一人暮らしをしていて最も嬉しいのが手紙と電話が来る時、というのは共通の思いのようです。だからといって、じーっと一日中ポストの前で、待ち構えているわけにもいきません。郵便なら大体くる時間が決まっているものですが、電話だとそうもいきませんね。考えてみれば、ポストとは便利なものです。手紙がくれば、かならずそこに入れてある。まさか牛乳受けに手紙をいれる配達員もいないでしょう。私たちは当然のように、毎日ポストを覗くのです。ポストはいつもその場所にあって、手紙がくるのを待っています。それも24時間、休むことなく。
私たちの心には、毎日のように手紙が届いています。どこから? 天の国から。だれから? 神様から。誰が配達しているの? 聖霊が。私たちの心には「神様からの手紙」がいつも届けられているのです。でも、待てよ。手紙が届けられるのはポストに。 「あれ、ポストがないよ?」という聖霊の声が聞こえてきそうです。毎日毎日、あふれんばかりの手紙が神様から届いています。でも、ポストがなければ、私たちはそこに手紙が来たことに気がつきません。ちょうど、配達員が今日だけは別のところに手紙を置いておいた時のように。あるいは配達員の手元に残っているのかも。 こんな声も聞こえてきます。「ポストはあったけど、入れるための口が無いよ?」。口がなくては手紙は入りませんね。心の入り口を閉ざしてしまっていないでしょうか。 大事なことがもう一つ。ポストがあって、手紙が入っている。でも、ポストを開けてそれを取り出さなくてはなりません。あふれる豊かさをもった手紙も、それがポストから出され、読まれなければ力を発揮することができないのです。手紙は今も届いています。私たちがそれを知り、手紙を取り出して読むこと。それが豊かな人生への第一歩なのです。その手紙のひとつが、この聖書です。目にみえる形で神様から与えられた手紙です。聖書は誰のために書かれたの? いまここにいるあなたのため、そして私のために。この手紙を開くことがすべての始まりです。
手紙が届いたら、返事を書きましょう。普通の意味での手紙です。手紙を書いたらどうしますか? そう、ポストに投函しますね。それも自分の家のポストではだめです。町角にあるポストに入れておくと、定期的に回収に来てくれて、配達してもらえます。そう、私たちがポストのある所まで行って、そして投函します。手紙があるからといって、ポストが「手紙ありませんか〜」といって取りに来てくれるわけではないのです。彼はー彼女かもしれませんがーひたすら手紙が来るのを待ち続けます。雨の日も、風の日も。雪の日も、嵐の日も。いつ入れられるのか、まったくわからない手紙をただ待ち続けているのです。決して「手紙出せー」「返事だせー」といって要求してまわる、ということはありません。強制ではないんです。そんなポストの姿に、神様の姿が重なってみえてきます。手紙はすでに届けられている。そして、返事はいまかいまか、と待っている。それこそ、私たちの心の中が雨の日も風の日も。いつでも返事をすることができるように、と待ち続けています。でも決して返事をすることを押し付けはしないのです。待って、待って、待ち続けて。いついつに返事がくる、という保証はありません。もしかしたら一通も返事が来ないかもしれない。実際、イエスさまがこの地上に来られてからもう二千年。二千年の時を超えてただじっと待ち続けているのです。私たち人間はどれだけの時を待つことができるでしょうか。自分のことを思い出してみましょう、あの時もう少し待っていれば。あの時もう少し我慢していたら。待つことの難しさを知ることが人生なのかもしれません。しかし神様は待って下さっている。このわたしが、再び神様の前に立つことを。
私たちは、手紙を「出しに」行かなければならない。自分から動くことが必要なのです。神様からの手紙に返事をする、といっても、じっとしているだけでは何も変りません。手紙を読み、何かを感じて動くこと。決して、肉体的に体を動かすことに限りません。心を神様にの方にむける、それでもいいでしょう。それは人によっても違うでしょう。ともあれ、自分から神様の呼び掛けに「答える」という反応が必要なのです。そして、答えたその時から、自分が変えられていく。神に創られたものとして、ふさわしい生き方、本当の人生の意味を知ることになるのです。誠に、「全てのものは神から出て、神によってたもたれ、神に向かっている」のです。アーメン。
町角でポストをみるたびに、「待っている神」の姿を思い起こしたいものです。