1996/12/29礼拝説教「当てて人生建て直し」 使徒8.26-40


 「クリスマス・第九・宝くじ」。これを私は、日本の年末の3大行事である、と勝
手に選んでみました。

 今年の年末ジャンボ宝くじの広告をご覧になったことがあるでしょうか。私が初め
て広告に接したのは、電車のつり広告でした。そのキャッチコピーが、今日の説教の
タイトルなんです。「当てて人生建て直し」とはずいぶん射幸心をあおるようなコピ
ーのような気がして、あまりいい気持ちはしませんでした。この広告をみる人の思い
はどのようなものでしょうか。世間的にみて人生に失敗した、といわれるような人は
「夢よもう一度」といわんばかりに、宝くじにささやかな夢をたくすでしょう。いっ
ぽう、成功した人生、と周りから思われている人であっても、必ずしも満足している
とはいえないかもしれません。たしかに世間的な成功は得た。お金もたくさんある。
しかし、何かがもの足らない。何かが自分の人生には欠けている。そんな思いで、「
もう一度人生をやり直すことができたら」と想う人もいるのではないでしょうか。

 私はふと考えました。この「当てて人生建て直し」という言葉は、お金に限らず、
あらゆる人間の希望を表しているのではないか、と。何かが足らない。何かが。それ
を探し求め当てることができるならば、自分の人生はうまく行くのではないか。そん
な思いに囚われているのが人間ではないでしょうか。

  私達ひとりひとりに、宝くじが与えられています。どんなくじでしょうか? ク
リスマスに送られてきた、イエスさまというくじです。このくじは、ありがたいこと
ぶに空クジがないんです。つまり、全部当たりなんですね。このくじがあれば、まさ
に「人生の建て直し」ができるんです。

 「みんな当たるくじなんて、もっていてもいなくても同じだ」という声が聞こえて
きそうですね。なるほど、そうかもしれません。しかし、もっていることに気がつい
ていないのだとしたら?  くじには普通「引き換え期間」というのがあります。た
とえ1億円が当たっているくじであろうと、その期間中に引き換えなければ、それは
タダの紙切れにすぎません。もしそれが当たりくじであることを知っていたら、喜び
勇んで引き換えに行くことでしょう。 でも、新聞の広告によく出ています。1等で
さえ、引き換えられていないものがたくさんある、と。どんなに素晴らしいことへの
招きであっても、それを読み、理解することができなければ、それは無意味な紙切れ
にすぎません。

 聖書は、宝くじです。よく見ると、ページの紙も似ているような気がしますね。紙
に文字が書いてある、という点ではまったくくじと同じでしょう。ただ、そこに書い
てある事の意味がわからなければ、1億円の当たりくじも、聖書も同じ紙切れに過ぎ
ないのです。今日読んだ聖書に記されていたエチオピアの宦官も、同じような状態に
ありました。彼はイザヤ書を読んでいましたが、ピリポの問いかけに対して「手引き
がなければどうしてわかりましょう」と答えています。彼には聖書の持つ意味がわか
りませんでした。しかし、ピリポによって助けられ、イエスさまの福音を理解するこ
とができたのです。 39節、洗礼を受けるとピリポの姿は見えなくなりました。しか
し、宦官は「喜びにあふれて旅を続けた」のです。この宦官は、確かにくじを当て、
その代価を手に入れたのです。この宦官の人生の「建て直し」がそこから始まったの
です。

 では、聖書という宝くじの引き換え期間はいつでしょうか? これも聖書自身が語
っています。「今がその時」であると。(2コリ6.2) くじの引き換え期限は長い
ので、つい、ほっておいてしまいがちです。そして次に気がついたらもう期限は過ぎ
ていた。日常的なことで、よく経験することですね。それがタオルや石鹸やたわしで
あるなら、自分で買うこともできましょう、でも人生は。自分で買いなおすことはで
きないのです。自分に与えられている宝に気がついたら、すぐに引き換えなければな
りません。そして引き換えたときから、他のどんなくじでも得ることのできない、豊
かな人生が始まるのです。
 
 聖書はよく「宝の山」と形容されます。2000年の間研究が積み重ねられても、まだ
つきることがありません。今年1年聖書を読み、いろいろな宝を見出しできました。
迎える年には、また新たな鉱脈をみつけ、さらに多くの宝を聖書の中から見つけ出し
て行きましょう。