説教「脳とイエス」(Jn. 10:22-39)
(要約)
私たちは信仰を頭で理解しようとしがちである。しかしそれではいつまで立っても
信仰に到達することはできない。人間の理解力には限界があるからである。理解・知
識の過多に関わらず、招かれたときに「飛び込む」こと。招きに対して「イエス」と
答えること。その能動的な動きが信仰への第一歩である。
最初にお断りとお詫びをしなくてはなりません。今回の説教題の「のうといえす」
ですが、「脳」の部分はひらがなで書くべきところでした。漢字で書いてしまっては
すでに種明かしをしてしまったようなものです。さらにもう一つの意味を「のう」に
掛けているので、これは重大な誤りなのです。 この世界に関する様々な科学的
な知識はこの100年の間に急速に進歩しました。30年前には夢物語と思われてい
たことの多くが現実のものとなっています。それだけ人間の持つ知識、活用できる技
術は増えたわけです。その果実によって、現在の日本のような生活を営むことができ
るようになりました。 キリスト教の世界も技術の発展と無縁ではありません。アメ
リカではテレビ伝道が盛んですし、インターネット等のマルチメディアを活用した宣
教も模索されています。日本では同志社大学が割と盛んでして、私も幾許かお手伝い
をさせてもらっていますし、また私個人でもメッセージをインターネット上で公開し
ております。時折、反応のお頼りを頂いたりもします。これらの技術はキリスト教に
とっても大きな可能性を秘めているといえるでしょう。
このような、現代の科学で最先端の分野の一つに、人間の脳に関する研究が挙げら
れます。もっとも私達にもわかりやすい例では、「人間はなぜものを考えることがで
きるのか」「なぜ記憶することができるのか」、また「心とはなにか」といったよう
なことが挙げられるでしょう。しかし、残念ながらまだまだ解決には程遠い状態です。
技術が相当進歩したとはいえ、特に人間を含む「生き物」の分野においては未知の部
分がたくさん残されています。
私たちは、「イエスの福音」を脳で理解しています。それは二つの意味に分けるこ
とができます。 まず、「キリストのメッセージ」を受け取ることから始まっていま
す。必ずしも文字とは限りません。絵や身振りも含まれます。しかし、絵や身振りで
あっても、それを「見る」ためにもやはり脳の働きが必要です。これは「直感」を排
除するものではないことを申し添えておきます。 第2に、そのようにして得られた
メッセージが福音である、ということを知ることが必要です。「神」「罪」「救い」
ということを理解するためにはそれなりの知恵が必要なことは言うまでもありません。
しかも比較的高度な知恵が必要になってきます。 今挙げた「脳」の2つの意味、第
一のものは必要不可欠なものであることはいうまでもありません。第一歩と言ってよ
いでしょう。それだけでも十分なのですが、第2のものによって福音をより深く知る
ことができ、人間の知識欲をも満たすことができるのです。
ところが。
2番目の「脳」は、福音の邪魔をすることもあるのです。さきほど、「人間の知識
欲」と言いました。この欲によって多くの技術が発見され、生活が豊かになったので
すが、この欲は同時に精神的なものに対しても向けられました。即ち、「人間とはな
にか」「神とは何か」について、議論が重ねられるようになったのです。議論するこ
と自体は有益なことです。しかし、それが現実から離れ、議論のための議論、煩瑣な
議論になるに及んで、その弊害がおおきくなりました。確かに、人間や神についてよ
り正しく言えるようになったかもしれません。ですが、それは信仰の持ち主であるは
ずの民衆からは遠く離れてしまったのです。それはイエスの時代のユダヤ教のありさ
までした。
しかし、信仰は知識によって得られるものではありません。もしそうであれば、人
間が神を信仰することは不可能でしょう。2000年もの間の山のような研究が重ね
られても、まだ聖書は尽きることなくメッセージを語り続けているのです。信ずるこ
とは知識のみによるのではありません。使徒4:13で、ユダヤ人達はペテロとヨハ
ネの「大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚」いたと
あります。「無学な人」と言う言葉の元の意味は普通「字の読めない人」ということ
ですが、新約聖書のギリシア語では4:5に出てくる「律法学者」「ではない人」と
いう意味にも取ることができます。「律法学者」と言えば、神について知らないこと
はない、といった当時の神学の専門家です。その「律法学者」ではない人が力強く神
の言葉を語っていたのであった、とはなんと皮肉な言葉でしょうか。
今日読んだ聖書においても、ユダヤ人達がイエスを拒否する様子が描かれています。
24節、ユダヤ人達はイエスに、「メシアであるならはっきり言いなさい」と急き立
てています。彼らは聖書をよく読み、メシアについてもよく知っていたことでしょう。
しかし、だからこそ信じることができなかった。だから、「はっきり言ってくれ、そ
うしたら信じよう」という「知識」に頼る姿が描かれているのです。 しかし、イエ
スは答えます。「私は言ったが、あなたたちは信じない。」 知識に頼る者は、その
知識の範囲内でしか物事を考えることができなくなってしまいます。そういう先入観
に囚われていたために、ユダヤ人達はイエスを理解できなかったのです。 また、こ
のユダヤ人の「はっきり言ってくれ」と言う要求は、他人任せの発言です。彼らこそ
一番よく聖書を知っている、と自他共に認めていたはずです。その彼らが、本当にメ
シアなのか教えてくれ、という。知識、すなわちいままで語り継がれ教えられてきた
ことに忠実なあまり、自分で判断することができなくなってしまっていたのです。
さらにイエスは38節で、彼らに譲歩さえしています。「私を信じなくても、その業
を信じなさい」と。私という存在を信じることができないなら、せめて奇跡だけでも
信じてほしい。イエスの切実な願いといえましょう。しかし、彼らは信じることがで
きなかったのです。
このユダヤ人達の姿は、私達にも重なってきます。私たちは自分の「わかる」範囲
内で物事を考えがちです。しかし、最初の科学の例にもあるように、私達にわかって
いることは、この世界のほんの僅かなことのみなのです。私たちの「脳」は、イエス
の福音に対して「のう、すなわち いいえ」と拒否するかもしれません。しかし、そ
れを超えたところにこそ福音、新しい世界があるのです。「教えてくれ、わかったら
信じよう」とはよく聞く言葉。しかしこれこそ人間のおごりの言葉です。信じてみよ
うという決断が、あなたの全てを新しくするのです。
「脳」から「イエス」へ。「いいえ」から「はい」へ、飛び込んでみませんか。