「あなたは『自由』ですか」  Jn. 8.31-38


 「真理はあなたを自由にする」という言葉は、それが聖書の言葉であることから離れて用いられるほど有名な言葉になっています。「真の知識を持つものが本当に自由なものである」という意味です。これはラテン語の形で同志社大学の校章にもかかれています。
 キリスト者もこの「自由」という言葉を好んで使います。パウロがよく使う用法で、「罪からの自由」という例があります。これに則って、イエスキリストを信じることで罪から解放され、本当に自由になった、という言い方で用いています。これは真実です。

 今日はこの言葉を本来の文脈の中で考えたいと思います。イエスさまが語った言葉です。誰に語っていますか。「自分を信じたユダヤ人たち」に対してです。ここでひとつの驚きがあります。私達が「自由になった」というとき、信仰に入る段階について語ることがほとんどでしょう。いわく、「世の中の束縛から解放された」など。ところが、この言葉はもともと、すでに信仰に入っているユダヤ人達に対して語られた言葉なのです。「わたしに留まるなら、本当に私の弟子である」。おそらく、彼らはまだ完全な信仰に達していなかったのでしょう。また、改宗したユダヤ人として、従来のユダヤ人達からも迫害されていたのかもしれません。あるいは、この言葉はヨハネの教会から脱落していった人々に対する呼び掛けと考えることもできます。
 このような人達に対して、「真理は自由にする」という言葉はどのような意味を持つのでしょうか。この場合、真理とは神を知ることであり、イエスをキリストと信じることです。自由になるとは、律法からの自由、罪からの自由、死から、この世からの自由を意味しています。すでに彼らが知っているはずのメッセージです。福音です。
 読み込んでみたいのは、「あなたたちは本当に私の弟子である」という言葉です。この言葉の裏には、「本当でない弟子」がいたことを感じさせます。イエスの弟子といいながらそれにふさわしくない人々がいた、と思われます。「真理は自由にする」という言葉は、これらの人々への呼び掛けの言葉であり、挑戦の言葉です。おまえたちはわたしの弟子だというが、本当の弟子であれば、本当に自由であるはずだ。そうおまえたちはいいきれるか、と。

 翻って考えてみて、今に生きる私たちはどうでしょうか。なるほど、イエスを救い主と信じ、教会に通っています。しかし、気がつかない内に自由を失っていませんか。

 教会と言うのは、ある意味で閉鎖的な社会と言えます。独自のしきたりがたくさんあります。いつのまにか、外の人には触れがたいものになっていないでしょうか。これは中にいる者にはまずわかりません。外からの目は教会にも欠かせないのです。また、「教会とはかくあるべき」といった姿をみなさん御持ちでしょう。その実現を目指すことは素晴らしいことです。しかし、熱心のあまり、自分の思い描く教会が正しいもので、これのみが目指すべき姿だ、と思い込んでいないでしょうか。これをしなければ教会ではない、これをなぜしないのか、といっていつか押し付けをしている。これは教会でよくみる対立の姿です。

 また、同じようにみなさんは「キリスト者はかくあるべき」という理想も御持ちでしょう。理想を持つことは大切です。しかし、それを人に押し付けることはできません。理想の形はひとによって違うのですから。信徒はかくあるべし、役員はかくあるべし、牧師はかくあるべし。教会外からの声よりも、教会内部からの声のほうが、思い入れが強いだけに、強力な圧力となります。そう、「圧力」です。あなたは他の人に「圧力」をかけていませんか。たとえ好意のつもりであっても、相手には苦痛かもしれません。たとえば教会には仕事がたくさんあります。誰かがやらねばならないことですが、いつのまにかあの人に決まったこと「になっている」。「教会の仕事をするのは義務である」。ここまではいいでしょう。問題は、「やらないことが重荷になってくる」という状況です。「なんでしないのですか」という無言の圧力がいつのまにかかかってくる。すべて、理想の膨張から来ているものです。

 「かくあるべし」が、いつか「かくあらねばならない」になり、さらに「なぜこうではないのか」となる。個人の理想であった者が、いつのまにか世界の普遍的な法則に思えてくる。人間の自己中心的な考え方とは恐ろしいものです。それは、教会のような一種均一化された社会でこそより強く現れるものと言うことができます。「キリスト者であるわたしがすることはキリスト者皆がすべきことであり、だからあなたもすべきだ」という論法がまかり通ってしまう世界なのです。これが高じれば、宗教戦争にもなってしまうのです。

 これはとても「自由にされた」すがたとは思えません。それどころか、自分そのものに支配されてしまっている状態です。教会がどうあるべきか、キリスト者がどうあるべきかは神様が決めることであり、私達が勝手に決めるのは越権行為です。「わたしに留まる者がわたしの真の弟子である」とイエスは言いました。先の姿は、イエスに留まっている姿といえるでしょうか。

 キリストの十字架によって確かに一度自由になった身ではありますが、やはり私たちはこの世の中に生き、誘惑に陥る弱い存在なのです。そのことを常に思い起こし、自らを省みる必要があります。イエスさまは問いかけます。「真理はあなたを自由にする。あなたは本当に自由であるか。」と。