1997/7/27 礼拝説教 「ラビよ」 マタイ福音書26:47-50
私が宇治教会に来るようになってからもう2年以上になります。伝道師になって1年以上になりますが、覚えがあるでしょうか、私が「『先生』はやめてください。」と何度も言ったことがあるのを。「先生」と初めて呼ばれたのは大学4年のとき、塾で教え始めたときです。塾や教会学校のように、自分より年下の人に「先生」と呼ばれるのには違和感がないのですが、自分より上の人に呼ばれるのにはどうも馴染めません。
日本語の「先生」という言葉にはなんと多くの意味があることでしょうか。「広辞苑」を紐解いて見ますと、最新のものでは5つの項目に分けてあります。いわく、先に生まれた人。学徳の優れた人。学校の教師。指導的立場にある人への敬称。そして、他人を親しみ又はからかって呼ぶ称、だそうです。私なぞはどれにあてはまるのか、といぶかしむところです。特に最後のものなどは、カタカナで「センセイ」と表現されるものでしょう。学生は「センセ」と親しみを込めて呼び、裏取引では「センセイ、よろしくお願いしますよ」といった形で使われるのでしょうか。
聖書にも「先生」という言葉が何回も出てきます。もちろん、イエスを指して言うことがほとんどです。ところで、この「先生」に当たるイエスを指す言葉には2種類ある事にお気付きでしょうか。一つは漢字での「先生」、そしてもう一つは今日の説教題にある「ラビ」です。これは原語では「先生」がギリシア語の「ディダスカレー」、「ラビ」はヘブライ語起源なのでそのまま「ラビ」です。「ラビ」というのはユダヤ教の指導者を指す称号でした。
このような2種類があることを知った上で、聖書を読み直してみると、おもしろいことに気付きます。たとえば、「先生」はマタイやマルコ、ルカにはよくでてきますが、「ラビ」はヨハネによく出てくる、また逆に「ラビ」という名称はマタイなどにはあまり出てこないのです。 マタイの中で見てみましょう。「先生」という言葉はだれが用いるでしょうか。そう、律法学者と言われる人達がイエスに呼び掛けるときに使っているのです。またいわゆるユダヤ人という人達も、イエスに対して「先生」と呼び掛けています。じつは、マタイでのイエスの弟子達は「先生(ディダスカレー)」とは言わないのです。それはおそらく、ユダヤ教の人達と同じ次元の人ではない、という意識の現れといえるでしょう。
しかし、今日の聖書。大事な場面で、弟子の一人であるユダは「先生」と呼び掛けました。新共同訳では同じ「先生」ですが、原語は「ディダスカレー」ではなく、「ラビ」なのです。イエスの弟子達がこれまで使わなかった「ラビ」という言葉を、ここで弟子たるユダが用いている。この言葉で、ユダが仲間から外れてしまっていること、ユダヤ人達の側に付いてしまったことが示されているのです。
ここでの「ラビ」という言葉は、なんと皮肉な響きのあることでしょう。本来「ラビ」という語は非常に尊敬すべき人に使うべき言葉でありました。しかしここでユダはイエスを尊敬するために使っているのでしょうか? そうではないでしょう。なぜユダがイエスを裏切ったかは様々に解釈されていますが、その中にイエスに対する失望という説があります。政治的指導者として活動しないイエスに失望していた、というのです。そのようであるならば、皮肉を込めて「ラビ」といったとしても頷けるところです。ユダはいいました。「先生、こんばんは。」何の変哲もない挨拶の言葉でしょう。しかし、この言葉がまさにイエスの受難の始まりを告げるのです。
私達は気軽に「先生」という呼称を用います。不思議なことに「誉められて悪い気はしないだろう」という考え方が広がっていて、取り敢えず「先生」と呼んでおけばなんとかなる、というくらいのつもりで使われているのでしょう。ところが皮肉の「先生」では、「あんたは私とは違う」といった意味合いで使われることもしばしばです。「先生」はわれわれからは一つ越えた世界の人である。更にいえば、祭り上げておく人である、ということになるでしょうか。まるで本質的に違った人であるかのような扱いをしてはいないでしょうか。相手を「先生」と呼ぶことは相手を持ち上げることですが、同時に自分との間に境界線を引いている行為なのです。なぜか? そうすることが安心だからです。たとえ優れたものであっても、自分とは違うものである。だから距離をおくことで、自分とのかかわりを薄くしておく。これも一つの自己保全といえるでしょう。違うものを恐れる意識は、低いほうだけではなく高いほうにもむいています。
ユダの発した「ラビ」も、やはり同じでした。「あんたは私が期待したようなメシアではなかった、ただの人だ、弟子として今まで従ってきたが、もうあんたとは関係ないよ」。ユダは自分からイエスとのつながりを断ち切り、溝をつくったのです。 私達の回りには溝はないでしょうか。同じ人間だから、と同じ高さには立っている。しかし、二人の間には広く深い溝があり、行き来はできない。そんな風になっていませんか。
私達はユダのような挨拶をしていないか。祈りをもって考えて見たいと思います。