1997/08/24 礼拝説教「熱情の神」 申命記 5:6-10


 よく旧約聖書と新約聖書を対比して、「旧約の神は裁きの神あるいは怒りの神、新
約の神は愛の神」ということが言われます。確かに旧約聖書に出てくる神は非常に力
強い支配者として描かれています。翻って新約ではイエス様に表れたような隣人愛の
中にいる、「私達と共にいる」神として描かれているといえるでしょう。古代には、
このような二つの神の像は矛盾しているとして、旧約聖書を破棄してしまった人もお
りました。しかし主な人々は旧約と新約を一つのものとみなして、神様を考えてきま
した。

 さきほど共に聞きました御言葉は、よくご存じの十戒のなかの一節です。「あなた
はわたしのほかに神があってはならない」と、創造者なる神の唯一性を語っています
。ところで、この中の一節に奇妙ともいえる表現が含まれています。それは今週の聖
句でもある9節の中間です。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
」 この部分、口語訳聖書ではどのように書かれていたか覚えていらっしゃるでしょ
うか。ここは、「妬む神」と訳されていたのです。文語訳では、「嫉妬神」と書いて
「ねたむかみ」とルビが振ってありました。ある注解者は、「妬む神」という日本語
での語感を気にしたので訳語を変えたのであろう、と言っています。しかし、わたし
は「妬む」という言葉のままで良かったのでは、と思っています。

 この「妬む」という言葉、原語のヘブライ語ではパナーという言葉ですが、辞書を
引いて見ますと、馴染みのある言葉が出てきます。基本の意味は、「ジェラシーを感
じること」。つまり「嫉妬を感じること」です。その対象として、「妻、敵」という
例が挙げられています。つまり「やきもち焼きの妻」とか「敵に対する妬み」といっ
たものです。これは敵に自分のものを奪われることに対する危機感、その意味での「
妬み」をあらわしている言葉なのです。

 この言葉「妬み」は、非常に「人間的」な言葉といえるのではないでしょうか。妬
みやそねみは、自らのもので満足することなく、他人のものにすぐ目がいってしまう
ことからおこります。「隣の芝生は青く見える」とは全く人間というものの真理をつ
いた言葉です。自分にとっては十分なものを与えられているはずなのに、人と比較を
して自分の不足を嘆く。お子さんをお持ちの方はよくご存じでしょう。子供はいいま
す。「○○ちゃんも持っているから」「みんな持っているから」。これは子供の殺し
文句かもしれません。子供のときから既にそのような比較の考え方を持ってしまって
いるのです。現在の社会はまさに比較によって成り立っているのです。

 このような観点からみると、神様がやはり「妬む」といっても「やっぱりそうか」
と思うかもしれません。ましてや「神は人間をご自分の形に似せてつくった」という
のですから、嫉妬も神様から与えられたものといえるかもしれません。

 しかし、聖書が語る「神の妬み」は人間の妬みとは異なります。では神は何を妬む
のか? 今日の聖書の文脈がそれを教えてくれます。この言葉は、十戒の第2戒であ
る「あなたは私のほかに神があってはならない」に始まり、いかなる像もつくるな、
とこまごまと命じられた直後に置かれています。このような細かい支持は、当時偶像
をつくって礼拝することが盛んに行われていたことを暗示しています。そのような人
々に対して、神は語ります、「わたしは妬みの神である」と。神は、人々が他の神に
なびいているのを、何とも思わないわけではないのです。それどころか、情熱をもっ
て「わたしから離れるな」と声をかけ続けているのです。ここに、他の神との違いが
あります。他の木や土や金でつくられた神々は、呼び掛けはしません。人はその元に
行き、自分の好きなように礼拝するのです。

 しかし聖書の神は違います。それは私達に情熱をもって呼び掛けるのです。それは
人間に対する深い愛のゆえにです。このことは続く言葉からも伺えます。「わたしを
否むものには…私を愛するものには…」。罪のほうは3、4代とあるのに、恵みのほ
うは幾千代続くというのです。神の、人間にかける愛の大きさがうかがい知れます。

 そしてそれは、新約聖書に描かれたイエス様の歩みにも重なってくるものです。イ
エス様はその生涯において、人々を愛して愛しぬきました。虐げられた人々に手を差
し伸べ、共にあることの喜びをわかちあいました。時には厳しい言葉も発しましたが
、それは神を否むもの達に対してでした。ご自分を受け入れた人々にははかり知れな
い恵みと奇跡をお与えになりました。このイエス様と、「妬む神」とはどれほど似て
いることでしょう。

 一方で人間の愛はどうですか。自分の興味がなくなったから、相手が私に関心を持
っていないからと、すぐに愛さなくなってしまいます。子供はある年齢になるとペッ
トを欲しがりますが、直に飽きてしまいます。そして世話をするのは親ばかり、と。
わたしにも経験があります。大人であっても、対象こそ違えど同じことをしていない
でしょうか。しかし、神様は違いました。嫉妬をする、というのは、相手に強い関心
があるときです。どうでもいい人に対しては嫉妬はしません。神様はいくら呼び掛け
ても振り向きもしない、そんな私たちを愛し続け、ついにはイエス様を十字架にかけ
るまでに愛して下さったのです。『神はその独り子をたまわったほどにこの世を愛さ
れた。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を受けるためであ
る』。この御言葉の「この世」とは何ですか。それは、神様が創られた私たち一人ひ
とりのことです。『神はその独り子をたまわったほどに、この私を愛された』のです


 神様は、そっぽを向いている私たちを、嫉妬するほどに愛しています。その愛に私
たちが気付き、そしてそれを素直に受け入れること、それだけでいいのです。一人一
人の心の中にいてくださるイエス様が、私たちをいつのまにか変えていってくれるん
です。キリストを受け入れるというのは、自分で変ることではなく、イエス様に変え
ていただくこと。だから、いまのまま、そのままでよいのです。ただ、神様の愛に飛
び込みさえすれば。

 この「妬む神」こそが「愛の神」なのです。