1997/9/7 礼拝説教「このようではない」 ルカ 18:9-14


 今日共に聞いた聖句では、2人の人物が出てきます。ひとりはパリサイ人、もう一人は徴税人です。ご存じのように、パリサイ人は律法を厳格に守る人達でした。特に彼らには「選ばれた人である」という意識が強かったようです。今日の聖句に似た例として、ラビの祈りが知られています。曰、「わが神、わが父祖の神よ、わたしはあなたがわたしに律法の教えの言えと集会堂に座す人々に連なるものとさせてくださったこと、わたしを劇場とか演技場に連なるものとなさらなかったことを感謝します。わたしは努力し、彼らも努力します。渡りは熱心で彼らも熱心です。しかし私は楽園を得るのに努力しますが、彼らは墓の泉のために努力します。」と。このような比較をする祈りの仕方はパリサイ人にとっては当時一般的であったようです。

 時代を問わず、人間には自分をかわいがる心があります。例えば、町でちょっとした不正をみかけたとします。その時、私達は思わないでしょうか。「ああ、あのようなことをわたしはしなかった。良かったなあ。」と。あるいは新聞でいやな事件の記事を読みます。その時わたしたちは思わないでしょうか。「ああ、わたしはこんなことをしなかった。良かったなあ」と。このように思うとき、私達はあのパリサイ人の祈りとどれだけ違うものだといえるでしょうか。

 ある精神科医がこんなことを書いています。その人はアルコール依存症の治療に携わっています。で、患者を診察するのですが、自分で「依存症である」と認める人はほとんどいないそうです。曰、「私はあれほどの量は飲んでいない」「酔ってもあのようなことはしないから依存症ではない」などと。しかし他の人からみれば、明らかに依存しているのです。仮に依存症の症状が10あったとして、9つまでそれにあてはまるとしても、もしそのうちで一つでも自分にあてはまらないものがあれば、「自分は依存症ではない」と言い張るのだそうです。今自分が最低の状態にあるのだ、ということを本人に正しく認識させて初めて、依存症の治療が始まるそうです。

 思えば、いわゆる依存症ではない、健康といわれる人でも同じことがいえるのではないでしょうか。この世界で「悪いこと」と呼ばれるものが10あったとします。そのうちの9まであてはまっても、1つは当てはまらないから、「わたしは悪くない」と思わないでしょうか。さらに10のうち1つしか当てはまらなかったとしても、やはり「悪くはない」とは思わないでしょうか。「あの人は6つも7つも当てはまる。しかしわたしには1つしか当てはまらない。だからわたしは悪くない。」このような論理は存外耳にするものではないでしょうか。あるいは他人を批判する時。いくらたくさんのよいことをしていても、ささいなことを捉えて「あの人はだめだ」と判断してしまいます。このパリサイ人も、横にいる徴税人を批判しているかのようです。

 聖書の神は「義の神」です。不正を、悪を根本的に嫌う方です。その方にとって、たとえ悪が10であろうが1であろうが、どのような違いがあるのでしょうか。たったひとつでも、悪は悪です。たとえ70年80年の生涯においてたった一度であったとしても、それは悪には違いないのです。わたしにも経験があります。もう15年以上前のことですが、実は過去に一度だけ、万引きをしたことがあります。そのときにはちょっとしたスリル感覚でしたが、今でも後悔していることの一つです。それをするときには、かえって気にしないものですが、後々になって心に重い影を落としてくるものです。そして、一生忘れることのできない重荷となるのです。

 思えば、人間とはいかに罪深い存在でしょうか。罪を重ねずには生きていくことができないような、そんなものではないでしょうか。今日の聖句にでてくるもうひとりの人物、徴税人は、ユダヤ人の間では「民族の裏切り者」として憎まれていた存在でした。その職にある限り、憎まれ続けなければならないのです。私達も神の目からみれば、そのように裏切り者として憎まれ続けねばならない存在ではないでしょうか。そのことを思えば、生きていく価値すら感じられなくなってしまいます。

 しかし、ここにも光が届いています。このような罪のある存在をも許してくださるというメッセージが届けられているのです。それが書かれているのが「聖書」というものです。聖書は語ります、「そのままでいいんだよ」と。何かあれをしなくてはならない、これをしなくてはならないとはいいません。ただ、信じ受け入れること。このことによって私達が内側から変えられていのです。

 亡くなりました画家の岡本太郎さんはこんなことをいっています。「大人の児童画」の展覧会を見ての感想ですが、「大人は上手に書こうとするからいけない。さんざん下手に書いているうちに自分を表現できるようになる。そこにおいて、「自分」を奪回できるようになる。」と。信仰も同じことではないかと思います。キリスト教に入ったから「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」とてんてこ舞いになってもかえって自分を苦しめるだけ、ついには神を呪うようにもなりかねません。別に教会にきているからといってお上品に振る舞うことはない。背伸びをする必要はないのです。「さんざん下手に振る舞って」いくことで、自分なりの信仰のスタイルが形成されて行きます。そしてそれこそが「神のわざの現れ」なのです。さまざまなひとの「尊敬すべき信仰の姿」を知るのは大切なことですが、だからといってその人の「まね」をする必要はありません。自分なりの、自然体の信仰、これが私たちの求めるべき姿です。

 もう一度、あのパリサイ人の姿を見てみましょう。「〜でなく」という言葉がいかに多いことか。わたしも研究者の端くれとして学会に参加しますが、駆け出しの研究者にみられる発表に、このような「否定の論理」によるものが時折あります。つまりあの研究者の言うことはここが違う、この研究者の言うことはここが違う。よってこのような学説は成立しない、と。ところが、ここにはその発表者の意見がないのです。先日参加した学会でもわたしの友人がそのような発表をして、批判を浴びていました。「〜でない」というのは、相対的な決め方です。他のものがないと成立しない論理です。他のものに依存して、自分の立場を決めているのです。あのパリサイ人の祈りも同じでしょう。「ああではない、こうではない」といって感謝していますが、では自分はどうであるというのでしょうか。そこには自分の姿が見えてきません。しかもこの祈りは心の中のもの。優越感を感じながら、しかもそれを表に出さないようにする、自分を美しく装おうとするかのようです。
 しかし徴税人の祈りは逆と言えます。かれは自分の姿をさらけ出して、しかも「口にして」いるのです。それは他人と比べた姿ではなく、自分そのもののありかたをまっすぐに見つめているのです。たとえどれだけ醜いものであろうと、隠すことなく自分の姿を見つめている姿。神もそのゆえに義としたもうのです。

 「あのようではない」と人と比べるのではなく、自分の姿を常に見直し、心を神に向け続ける日々でありたいと願うものであります。