1997/10/19 礼拝説教「やがて手が出る足が出る」エフェソ4:7-16


本日の説教題、普段よりも長い題なのですが、何の一節であるかはご存じだと思います。「おたまじゃくしはカエルの子 ナマズの孫ではありません それがほんとの証拠には やがて手が出る足が出る」。季節はずれであることをお許しください。素朴な童謡のひとつですが、この歌は一つの真理を語っています。それは何か。「おたまじゃくし」は「カエルの子」であり、「ナマズの孫」ではない、ということです。何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。しかし、当たり前でしょうか。さまざまな知識のある私たちの目からみれば当たり前かもしれません。しかし、子供の目から見たらどうでしょう。「ナマズだ」と言ったとして、では「それがナマズではない」ということを私たちはどのように子供に説明できるでしょうか。少なくとも、見た目はそっくりといってもよいのですから。

この時に私たちがそれが「ナマズではない」と言い切れるのはなぜでしょうか。それは、おたまじゃくしが成長するとカエルになる、ということを「知っている」からです。それは私たちが経験から知っている真理であります。しかし、その経験のない子供に向かって、「あれはカエルの子だ」といっても信じてもらえるでしょうか。なかなか難しいのではないか、と思われます。

想えば、私たちは人生のうちでさまざまな経験をしますが、それでもなお直接に知ることのできないことは山のようにあります。十人十色というように、人生も人それぞれであり、全く同じものはありません。つまり、直接同じ体験をすることは不可能なのです。しかし、私たちは多くのことを体験ではなく、知識として知っています。すなわち他人の体験を理性によって理解し、それをあたかも自分が経験したことであるかのように自分の中に定着させていくのです。この技術によって、人間は文化を発達させることができたのです。

今日のように高度な技術をもつにいたった人間ですが、しかし未だにわからないことも山ほどあります。私たち自身のことですらわかっていないところがたくさんあるのです。私たちに最も身近でありながらわかっていない「心」。もちろん神経がどのように組み合わさっていて、どのように電気信号が伝達されている、という細かなことは徐々に解明されてきており、医療の現場で大きく役に立っています。しかし、では「心とは何か」ということになるとまったく解答ができないものです。しかし、私たちは「心」というものの存在を当たり前のように信じているのです。

このように考えてきてみると、私たちには二つの知識があるようです。すなわち、おたまじゃくしの成長のように自分自身ないし他人が経験したことのある、客観的な真理としての知識と、「心」のように誰も真に経験し理解したことがないけれども、だれもがその存在を信じているものへの知識です。

私たちはこの二つのうち、客観的な知識を重視してきました。それは近代科学の方法で捉えられるもの、といってもよいでしょう。それは体系化され、学問として成立し、それを子供達が学校において学ぶわけです。目にみえるもの、といってもよいでしょう。しかし、私たちの世界は目にみえるものばかりでつくられているわけではありません。目にみえるものと同様に、目にみえないものもこの世に満ちているのです。ただ、「科学の目」にならされてしまった現代人にはそれが見えにくくなってしまったのです。

今日ともに読んだ御言葉は、「わたしたちは」という言葉からも知られるように、本来信仰者の集合体としての教会の成長について語ったものであると考えられています。しかし、この部分はそのまま信仰者個人の成長にも当てはまると思います。すなわち、教会がそうであるように、私たち一人一人もキリストによって全体が組み合わされ結び合わされていくのです。体だけでも、心だけでも、人間とはいえません。たとえ両者を備えていたとしてもアンバランスであればやはり未熟なものといえます。その両者がキリストによって、神の愛によって結びあわされたときに、最高のものとなるのです。そして、キリストに向かって成長していくことができるのです。使徒言行録にある御言葉、「育ててくださるのは神です」はここでも真実です。

 しかし、私たちはこのことを「目でみること」ができません。よって単純に信じることに恐れを抱いてしまいます。おたまじゃくしにしても、今見ているこのおたまじゃくしがカエルに本当になるのか、と改めて聞かれて、確信をもってそうなる、と言い切れるでしょうか。あのおたまじゃくしはカエルになったが、だからといってこのおたまもカエルになる、と断言できるのか。疑問を持ち始めるときりがありません。しかし、私たちはカエルになることを「信じて」いるのです。たとえ科学的知識の裏付けがあっても、それだけでは私たちは断言できません。断言させるのは、「信じること」の力によっているのです。「ナマズの孫ではありません」と言い切れるのは、それを信じているからなのです。そして、信じることが最も人間を強くするのです。

 神は私たちひとりひとりを「自分のもの」と宣言しています。それは「目にみえないもの」ではありますが、どれだけ私たちを力付けるものであるか。そして私たちが「神のもの」なら、やはり神に近いものとなることができる力を秘めているのです。その力のゆえに、私たちはキリストに導かれ、育てられていく。おたまじゃくしがカエルに変貌するように、私たちもこの世の生から神の国に生きるものと帰られていくのです。

 「おたまじゃくしはカエルの子」と歌うように、「私たちみんな神の国の子」と高らかに歌いながら日々をあゆもうではありませんか。