1997/11/16 礼拝説教「人が見えます」マルコ8:22-26


今日読んだ聖書の個所は、マルコ福音書にのみ出てくる物語です。この物語は、もう少し前、7章31節から37節にある「耳が聞こえず舌の回らない人を癒す」という物語と似た筋立てになっており、本来同じ種類の言い伝えであったのではないか、と考えられています。この8章のテーマは、マルコ福音書の基本テーマである「弟子の無理解」が取り上げられた個所であるといえます。すなわち、27節からの「イエスとは誰か」というといに関して、イエスに身近であるはずの弟子たちがいかに知らないか、わかっていないかということを示すためです。

マルコ福音書がなぜ作られたのか、というのはまだ明らかではない問題ですが、一つの仮説にこのようなものがあります。イエス様がいなくなってから20年以上たち、エルサレムの教会は教会の中心として盛んでした。そのなかで、イエス様の弟子たち、つまり「使徒」の権威が強くなってきました。当時はまだイエス様の言葉などは文書化されておらず、口伝えで福音が広められていました。すると、その伝承を「正しいものである」と保証するものは何か、という問題が起こってきます。これに対して力を持っていたのはもちろん「使徒たち」です。なにせ、イエス様の言葉を聞き、その行動を直接見ていたのですから、これ以上説得力のある人はいないでしょう。「本当かなあ」と思われるものでも、「私は実際に見たのだ」と言われると正しいように思えるわけです。ここから、直接イエス様の謦咳に接していた者が大きな権威を持つようになってきました。

しかし使徒たちも人間でありました。権威をひとたび持ってしまうと、なかなか手放したくないものです。やがて、イエス様の福音の伝達、解釈は使徒のみに赦されることである、という考えが生まれてきました。これは同時に、使徒たちが中心であったエルサレム教会の権威が増大することを意味します。このような状態に反発するグループ、おそらく異邦人伝道を行っていた人々と考えられますが、そのような人達が権威の独占に対して異義をとなえ、イエス様の伝承を客観的な形で明らかにしようとし、そのために福音書が書かれたのだ、という説です。この点から考えると、マルコ福音書に見られる不自然とまで言えるような「弟子の無理解」の意味が良く分かる、といえます。

ともあれ、今日の聖書の個所は、弟子たちが「イエス様のことをはっきりみていないのだ」ということを示すためのもの、であるというのが本来の意図であるというのが通説であります。でも、「だから私たちには直接は関係ない話だ」と言ってしまってよいのでしょうか。
改めて本文を読んでみましょう。「人々が一人の盲人をイエスの所に連れてきて、触れていただきたいと願った。」福音書のあちこちで述べられているように、当時障害を持っていることは神の罰と考えられ、社会からは排除されていました。しかし、この人は「人々によって」イエス様の所に連れてこられました。しかもお願いしたのは「人々」です。すでにこの人には助ける人、支持する人がいました。そこで、イエスは「盲人の手を取って村の外へ」連れ出します。なぜイエス様はその場ですぐに癒してあげないのでしょうか。マルコ福音書に特徴的な「メシアの秘密」という神学、つまり「イエスがメシアである」ということは最後まで明らかにされず、秘密にされているのだ、という思想に基づくものといえます。イエス様は奇跡をおおっぴらにはなさらないのです。それは魔術師や奇術師のような「見世物」ではないからです。7章の癒しでは「この人だけを群衆の中から連れ出し」とありますが、今の物語でも同じ事が言えるでしょう。この目の見えない人は人々に連れてこられたわけですが、その人達からも離れて、です。この人々は彼を助けてあげようとして連れてきた親切な人達ですが、そのような人達をも斥けてしまうイエス様。そこには、人に頼り続けているだけでは不十分であることも示されているのでしょう。。ともあれ、彼は一人になりました。彼は自分一人でイエス様に向き合うことになるのです。

村の外で、イエス様は癒しの動作を行います。そして「何か見えるか」と問い掛けます。実はイエス様がこのように癒しの結果を問うのはここだけです。彼は答えました。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 彼は「人」とわかるものを見たのです。しかし、それは「木のようだ」と彼はいいます。いったいどういうことであるのか。彼は何を見たのでしょう? 彼は目が見えないことで社会から離されていた、と先に言いました。その彼から見れば、歩いている世の人達は彼に無関心であり、彼にとってはまるで木と変わらない、という事が出来るでしょう。彼にとっての人々の姿が明らかにされているといえます。それは、彼が一人になることでいっそう明確になってきます。あの親切な人達を離れたら、もう彼は独りぼっちなのです。だれも彼のほうを向いてくれる人はいないのです。人々はその隣人に対して「木のように」なっているのです。 

イエスがもう一度手を当てると、今度は普通にみえるようになりました。そこで癒しは終わり、イエスは「村に入らないように」、つまり奇跡について人に話してはならない、と禁止します。これは先ほどの「メシアの秘密」と通じる所です。そして彼は自分の家に帰ります。もしかしたら彼の家は、疎外のゆえに村外れにあったのかもしれません。

彼は目を癒され、目が見えるようになりました。その過程で「木のように見えた」人の姿を垣間見ました。それは「関心のない姿」でした。ところで、イエス様は人間をどのように見ていたのでしょうか。人間は神に対する関心を失っていました。神様であるイエス様からから見れば、この目の見えない人のように、すべての人が「木のように」見えていたのではないでしょうか。それが、この部分で「目の見えない人」の口を借りて語られているのではないか。イエス様は、目の見えない人への無関心を悲しみ、同時に人々の神への無関心を悲しんでいたのではないでしょうか。この人は「神の目」を垣間見たといえるのかもしれません。

 そしてさらに、この目が神様の目であるとしたら、これは神様から見た私たちの姿、であるといえましょう。自分自身が、人からみれば「木のよう」であると言うのです。それは、自分自身のことが見えていないことを言っているのではないでしょうか。外目、人のようには見える。しかし、その中身はどうか。物理的には人であるといえるでしょう。しかし、精神的に「人である」といえるでしょうか。神様は人間を「神の似姿につくられた」と聖書は語っています。私たちは、自分が「神の似姿である」と言い切れるでしょうか。もし言えるとしたら、それはたんなる傲慢にすぎないでしょう。

 イエス様はそのような、神に、隣人に、そして自分自身にですら無関心な私たち人間を愛して、愛し抜いて、私たちのために十字架に架かってくださったのです。その血のゆえに、私たちは神への、隣人への、そして自分への愛を取り戻すことができたのです。その深い愛の前に立つとき、私はただ感謝するのみです。

 もし、わたしがこの時、この人の前にいたら。彼には私がどのように見えていたでしょうか。そして今もまた。彼は私の前に座り続けているのです。