1997/12/07礼拝説教「貧しい者への福音」イザヤ61:1-4


 先週に引き続いて、旧約聖書の預言の言葉を聞きましょう。イザヤ書は3部に別たれる、ということが前世紀において、聖書研究の結果明らかになりました。すなわち、1章から39章までが第一イザヤ、40章から55章までが第2イザヤ、56章から66章終わりまでが第3イザヤと呼ばれています。第3イザヤも独りの著者ではなく、何人かの預言を編集したものであると言われています。その中でも、今日共に読んだ部分を含む60ー62章は中心的な部分であります。

 第2イザヤは、バビロン捕囚からユダヤに帰ることをペルシアの王に許され、帰国するまでの時期の預言でした。この時、イスラエルの人々は希望に燃えていました。バビロンの地にあること約50年間、時には「異国の地でどうしてヤーウェの歌を歌えよう」と涙した民が帰国できる、というのです。「さあこれから祖国が復活するのだ」「我々が国を立て直すのだ」「神殿が復活するのだ」と意気揚々であり、喜び勇んでユダヤに帰ってきました。

 第3イザヤは、イスラエルの民がユダヤに帰りきた、その時からの預言です。人々はユダヤに戻って、かの麗しの都エルサレムに帰ってきて、驚き、そして再び涙しました。これがあのエルサレムか、ユダヤの国か、と。長い捕囚の間に国土は荒れ果て、都は崩壊したままでした。前にいた土地に戻ろうとしても、捕囚されずにユダヤに残っていた人達との争い、そして捕囚の時期にユダヤを属国にしていたサマリヤ人の妨害。あの、バビロンを出発したときの夢や希望は、それが大きな者であっただけに、いまや大きな失望と化してしまいました。そのような中で、第3イザヤの預言は語られたのです。

 第3イザヤの中心は60ー62章であります。この3つの章はイスラエルへの救済の預言です。さらにこの3つの章は時代の順にならんでいると考えられています。つまりこの3章は、第3イザヤが経験したイスラエルの歴史の一端を描いている、といえるでしょう。60章は、捕囚の地から荒廃した祖国に帰ってきたイスラエルの民すべてに向けた、美しい救済の預言です。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」

 ですが、民は既にこのような預言を第2イザヤの時代に聞いていました。しかもその預言は成就しなかった、という失望を民は味わっていたのです。そのところで、同じ預言を聞かされても。「ああ、確かにそうかもしれないね。でも私は前にも同じことを聞いたよ。その預言は果たされなかったじゃないか。今度の預言だって、どうなることやら。」民は半信半疑、疑わざるをえなかったでしょう。それゆえに、61章の始めでは、この預言が神から来るものである、ということを強調し権威付けようとしているのです。恐らく、預言を信じなくなった民は預言者自身をも疑うようになったのでしょう。「お前はいい言葉を語っているが、それが本当だという証拠はどこにあるのかね。我々は他にも預言を聞いたよ。それとどう違うんだい。」そこで、第3イザヤは自分が神の言葉を取り次ぐ預言者であることを明確にするために語りました。「主は私に油をそそぎ 主なる神の霊が私を捉えた。」 この最初の3節は預言者の召命記事と呼ばれていますが、ここの部分はもう一つ大事なことを語っています。それは、救いの預言は誰に対してものなのか、を明らかにしているのです。それは「貧しい人」に、「打ち砕かれた心」に、「捕われ人」に、「つながれている人」に与えられます。「貧しい人」という言葉はたんに経済的な意味ではなく、「抑圧されている人」のことであり、また「謙遜である人」という意味もあります。 

 「抑圧されている」人達、すなわり祖国再建の夢にくじけようとしている人達、神を見失いそうになっている人達に語りかけているのです。現在、帰国してもなお苦難の中にあるイスラエルに、神の救いの知らせを。苦難の中にあるからこそ、そこに神の救いが来るのだと。

 「謙遜である人達」にも救いが告げられる、といいます。謙遜であるとは誰に対してか?それは神に対してです。神に対して謙遜である人に救いが告げ知らされる、というのです。このことは、私たちにひとつの決断を要求します。「救いは確かにある。そのゆえに汝は謙遜であれ」と。この使信を信じ、神の前にひざまずくこと。神の前に立ち返ること。まさに神はそれを求めているのです。その時にこそ、「彼らはとこしえの廃墟を立て直し、古い荒廃の後を興す」のであり、麗しの都の再建がなるのです。

 このような救いは「よい知らせ」と呼ばれています。これは第二いざやにおいて用いられている表現であり、第3イザヤも同じメッセージを引き継いでいることがわかります。歴史を紐解いてみれば、「よき知らせ」は数多いでしょう。「知らせ」を伝えるのは直接には使者です。あのマラソンの語源となった、古代ギリシアでのマラトンという地での戦いの勝利を告げるために長い道のりを走った使者が私には思い浮かびます。戦の勝利という喜ばしいことを伝えるために、彼は走り続け、首都アテネに到着して皆に勝利を告げた直後に死を迎えた、といわれています。彼は民の喜びのために自らを捧げたのです。

 私には、このマラトンの勝利を告げる使者と、イエス・キリストの姿が重なって見えてきます。民の喜びのために自らを捧げ、苦労を省みず、死をも怖れずに「よき知らせ」を告げようと走り続ける姿。それはまさにイエス・キリストのこの地上での歩みでありました。
 ただ、ひとつだけ。マラトンの使者とイエス・キリストには違う点があります。それは、イエス・キリストは復活したということです。マラトンの使者は名こそ残しましたが、彼の伝えた内容はその時のみのものでした。彼は新たなメッセージを告げることはありません。しかしイエス・キリストのメッセージは当時も、そして現在も伝え続けられています。イエス・キリストの助けは今も日々新たに私たちに与えられています。

 「知らせ」を告げる人にはもう一人あります。それは「見張り」です。見張りは戦争のときのみならず、平和のときにも置かれ、見張り台や物見櫓から遠方の様子や事件を見て、民に告げ知らせる重要な役職です。専門の見張りのみならず、普通の人でも見張りにはなります。野でヒツジを飼う羊飼いたちも、町から離れたところに居るがゆえに、見張りの役を果たしていたようです。そしてもちろん、旧約聖書の預言者達も見張りでした。民の様子を見て、神からの預言を伝えるのが彼らの役目でした。
 見張りとは、あることを見つけて他の人に告げる人といえます。それなら、私たちもまた見張りの一人です。私たちは見つけました。何を? 「よき知らせ」を。イエス・キリストの福音を。ならば私たちもまた、人々に告げようではありませんか、「よき知らせ」を。あのマラトンの使者のように、自らの命果てるまで。