ルカ2:22-35
私たちは先週にクリスマスを迎え、イエス様の降誕をお祝いしました。主の誕生は私たちの光であり、喜ばしいことです。「降誕」を祝うこと自体は、教会にかぎらず世間でも広く行われています。あるいは教会のものよりも豪華で、見栄えのするものであることでしょう。あんなふうに盛大にできたらいいなあ、と思ったりもします。
世間のクリスマスを前にして、「本当のクリスマス」ということがよく語られます。曰、クリスマスとは単にお祭り騒ぎをする日ではない、我らの主イエス・キリストを迎える日だ、と。たしかに神の子イエスの降誕を祝う日でありますが、それだけを語るべきなのでしょうか。「イエスが生まれた」日である、ということだけを?
世間のクリスマスと教会で祝われるクリスマスとには大きな違いがあります。それはなにか? 12月になるとあちこちの建物にクリスマス飾りがつけられます。私も毎年恒例のように京都市内の百貨店に大きなリースが飾られると、クリスマスが近いのだなあと思います。大きなクリスマスツリーが飾られたり、木に電燭がつけられたり。でも、何かが足らない。世間のクリスマスには「十字架」がない。もちろん飾りとしてつけられることはありましょうが、人々に気付かれることはほとんどありません。教会においても、十字架を前面に立ててくることは少ないと思われます。キリスト教のシンボルというべき十字架が、救い主の降誕たるクリスマスにおいて影が薄いとは不思議な気がしませんか。十字架なしのクリスマスは、世間で見るような単なるお祝いにすぎないものになりかねない、と思えるのです。
しかし十字架は心に重いものを投げかけるものです。二千年前のローマにおいても、もっとも重大な犯罪にしか適用されかったことからもわかるように、十字架刑は非人道的なものと考えられていました。いくら現代において十字架がファッション化されたといっても、やはりクリスマスというお祝いの場にはどうも似つかわしくない、と考えられて敬遠されているのでしょうか。
今朝ともに読んだ聖書で、シメオンは賛美しています。「私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」 まさにクリスマスにふさわしいといえる言葉です。この言葉があるだけに、続くシメオンの言葉は不思議なもの、理解しがたいものに思われてきます。即ち、「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。」 さらに「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」とありますが、ここでの「思い」とは新約聖書では「悪い思い・悪意を含む思い」として用いられている語です。即ち、イエスは反対を受けるしるしに定められ、その結果多くの人々のイエスに対する疑いや悪意があらわになる、という事になります。
私たちがアドベントにおいて学んできた旧約の預言は、救い主を待ち望むものでありました。それは私たちにとって待ち望むべきものであった点で、シメオンの最初のほうの言葉と一致しています。では最後の方は? 例えば、イザヤ書8章14ー15節には、「しゅはせい所にとってはつまづきの石、イスラエルの両王国にとっては妨げの岩、エルサレムの住人にとっては仕掛け網となり、わなとなられる。多くのものがこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ、罠に掛かって捉えられる。」とあります。この種の預言は旧約の各所に見られます。待ち望むべき主が、求めていた民にとってつまづきとなる。まったく逆説的な表現といえます。
私たちはいつも「救い」を求めています。しかし、私たちの求めている「救い」とはどのようなものなのでしょう? それは必ずしも私たちの望む形であるとは限りません。神は、真にわれわれに適した形で与えたもう方です。イエスを与えられたイスラエルの民も同様でした。彼等が待ち望んでいた、政治的な王、力ある指導者たるメシアとはあまりにもかけ離れたイエスの姿、言葉、行動。ユダヤ人達の間に大きな動揺がもたらされたことを、新約聖書の記事から知ることができます。それは弟子達も同様でした。イエスには12弟子のほかにも多くの弟子達がいたことが聖書には記されていますが、そのような人達ですらイエスが理解できなくなってイエスの元を去った、ということがヨハネ福音書に述べられています。あるいは12弟子達の間でも、イエスを巡って議論が戦わされたことも書かれています。
ではクリスマスとは世に対立をもたらすものだったのでしょうか? その解決の鍵が「十字架」にあります。イエスの十字架上の死は、神と人との和解をもたらし、同時に人と人との和解を与えるものです。イエスがうまれ、伝道した生涯は、福音書にも描かれているように対立や反発を多く引き起こしました。まさにシメオンが語った通りです。そして十字架に掛けられました。もしここで物語が終わっていたら、イエスは救い主ということはできません。かえって、世の中に混乱をもたらしたものとされてしまうでしょう。
しかし、イエスは復活しました。それは十字架によって和解をもたらすために。十字架を見つめることによって初めて、イエスを「世の救い主」ということができるのです。ただ単に「救い主がお生まれになった」というだけでは、イエスの本質は十分に語られていない。イエスの誕生を祝うとともに、十字架を見つめること。このことにより、クリスマスの完全な姿がたち現れて来るのです。
ここに一片の詩があります。
夏の盛りの緑なす野で 葦やアシの茂る涼しい水辺で ほら、無垢な幼子が気ままに 若き母の膝で戯れている そしてその向こうには楽しげな森 ああ、既に緑溢れている、十字架になる木が!
「古い絵に」と題する、ドイツの詩人メーリケの詩です。詩人は、恐らく中世のものであろう古い絵、聖母子像を見ています。幼子イエスと母マリアを描く、何気ない情景、幸福に溢れた様子。野辺に、水辺に。その向こうには深い森が見えます。森も輝く日の光を浴びて楽しげに見えます。そこに、一本の木が生えている。その木こそが、いずれ十字架を造る木となる。まさに、幼子イエスの生涯を端的に描いた寓意的な絵であるといえましょう。この絵のしめすように、イエスの生と十字架は切ってもきれない関係にあるのです。
教会暦では今週から「降誕節」が始まります。そしてそれはレントを経て、受難週へと続く歩みの始まりでもあります。25日という特定の日だけでなく、これから受難まで続く一連の流れ全てがクリスマスの出来事であるのです。
主イエスの降誕の喜びは、同時に十字架上の主への喜びでもあります。この二つものを同時に見るときに、クリスマスの喜びははるかに大きなものになってきます。クリスマスと十字架の二つを心に抱きつつ、これからの降誕節を過ごしていきたいと思います。