25日を過ぎて、町中の風景は一変しました。昨日までクリスマスツリーやポインセチアが並んでいた売り場は、しめ縄や鏡餅の棚になりました。
けれど、聖書の語るクリスマスの物語は、まだ続きがあります。マリヤのひそかな確信、羊飼いたちの変えられた姿があります。私たちも、クリスマスに心に感じた恵みを、どのように生かすかが、大切だと思うのです。
(深谷牧師)
クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマスが皆様にとって恵み深いものでありますように。
見慣れてしまったもの、古めかしいことについては、その価値を、私たちはつい忘れてしまいがちです。けれど、いつまでもそこに残り続けているものというのは、実はすごい事だと思いませんか。千年以上の、はるか昔から祝われているクリスマスには、本物の救いの輝きと歓びの歌が、いまも響いています。(深谷牧師)
1 民の将来受ける栄光と歓喜。‥‥大きな光である主イエスは、罪人を暗黒と死から救い、希望の光に入らせて下さるのです。
2 キリストの御降誕とその王国。‥‥イエスは御父と一体なる御方「とこしえの父」です。わたしたちを神と和らがせ平和を与えられる御方(平和の君)、神の愛の現われです。
クリスマスを迎えるに当たり、日々、力強く、真の平和を与えてくださる神と偕なる歩みを続けていきたいものです。(市原副牧師)
受け入れ先がない、ということは、悲しい、寂しいということだけでなく、時には、死の陰におびやかされるということでもあります。大震災から2年近くが過ぎ、ショックが収まると共に、私たちはまた、心の扉を隣人に開くことを、忘れてきていないでしょうか。
イエス様は、枕する場所もない厳しい世界に、眠る幼子の姿でお生まれになり、本当に大切なことが何かを示しておられます。(深谷牧師)
マカオで伝道した宣教師ギュツラフは「はじめに賢い者ござる」と訳し、「言」が単なる言語ではなく、人格を持った永遠の実在者、御子なる神であることを示している。そのお方がこの世のすべての人を救うため歴史上の人となられ、神への反逆の罪を重ねて滅びようとしているこの世の人々に命の光(根源的な光)を与えて下さるのである。この世の暗闇が深ければ深いほどである。 (清水名誉牧師)
教会の暦の上では、最後の日となりました。1年をふり返ってみるときに、どのような思いがまず浮かんでくるでしょうか。
私たちは、過去を変えることは出来ません。しかし、もしその思いが悲しみや苦しみを伴うものであったとしても、そこに「神様が共にいてくださったのだから」と、感謝に変えることはきっとできるでしょう。みことばは「霊の火を消してはいけません」と続きます。上よりの平安を心から祈りつつ‥。
(深谷牧師)
岡田はるみ牧師(恵泉教会)の説教
海水浴の事故で、四肢が麻痺するという悲劇を経験したジョニー・エレクソン・タダは、キリストに出会い与えられた将来の希望について、次のように語っています。「私の将来には、希望があります。聖書は、私たちのからだが栄光のからだに変えられると約束しています。今では、その意味がよくわかります。それが起こるのは、地上の生活が終わってから後のことです。そのとき、四肢が麻痺してしまった私も、自分の足で立って踊れるようになるのです。」復活の信仰、それは私たちの弱さの中で輝いています。 (深谷牧師)
主イエスは強いて弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へと行かせられた。主はその間山に登って祈っておられた。夕方になってもただ一人祈っておられた。その頃舟は逆風に悩まされた。主はそれを見て湖上を歩いて舟に近づき、恐れおののく弟子たちに声をかけられたのである。『安かれ!』と。 (清水名誉牧師)
マルコによる福音書の最後の一文字は、「なぜなら」という言葉で唐突に終わっています。もしかしたら、聖書は、その最後の部分を、私たちの心に委ねているのかもしれません。
愛と勝利を証しする、神の御業は、人間の理解をはるかに超える偉大な出来事です。恐れや驚きが、喜びと平安に変えられたとき、きっと私たちは最後の聖書の余白に、自分の信仰を、「なぜならこれは、驚くばかりの恵みなりき」と書き添えることでしょう。
(深谷牧師)
「誘惑」という語は人を誘惑して悪い事を行わせる、とか人をそそのかして罪を犯させる、とか悪の道に踏み入れさせるという場合に用いられる事が多いようです。悪魔はイエスを攻撃するために、3方面から開始しました。
1、石をパンに変えよ、という誘惑です。
2、宮の頂上から飛び降りよ、という誘惑です。第3は栄耀栄華を与える、という誘惑です。しかし主は、そのいずれに対しても聖言で勝利を得られました。
私たちは常に祈り深く、聖書をシッカリと握りしめて歩みたいものです。(市原副牧師)
今年は彼岸花が遅く咲きました。この花には、何十という別名があるそうです。彼岸を想う頃、墓場に咲くこの花に、昔の人は不吉さを感じつつも、どこかに親しみを感じていたということなのでしょうか。冷たい墓穴に誘われる主イエスの姿からは、神の審き、そして赦しが、静かに伝わってきます。(深谷牧師)
マリアは純粋で高価なナルドの香油を持って来て、主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったという。あっという間の事で、弟子たちの驚き、ユダの非難発言も当然のように聞こえる。しかし、主はこの突然のマリアの行為を、迫りくる十字架の死と葬りの用意であるとして、彼女を弁護されたのである。マリアの信仰はどこからきたのであろう。実に信仰は聞くことにより、主の言葉を聞くことにより始まる。(清水名誉牧師)
ある本に、こんな一文がありました。「‥困ったときの神頼み、というが、本当に困ったときに人間は、神からも離れていく。『困ったときの神離れ』が起こるのだ。‥」思い当たることがあるような気がします。でも、それに対してイエス様は、今際の瞬間まで、神を呼び続けた方でした。見捨てられてもなお信頼して叫ぶ声に、隔ての幕はついに取り去られ、すべての人に神の招きが訪れたのです。(深谷牧師)
"バラは自分から言う、あなたが好きよと、ランは咲き誇り、人の心をとりこにする、でも、丸ぽちゃの小っちゃな手の雑草の花束は ああなんと、ただそれだけですべてを語っている。"(読み人知らず)
世界を創造し、無限の愛とゆるしを賜わる主の前に、私たちも価はつかないかもしれなくても、心の思いをすべて込めてささげる祈りを合わせましょう。この御堂で。(深谷牧師)
話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、大空を駆け巡る響きを、私たちは聴いたことがあるような気がしているのではないでしょうか。先に死を超えていった、愛する方々の、静かに響く歌声と共に、一歩ずつ進み行かせていただきたいと祈っています。(深谷牧師)
マルコが書き残した、主の十字架の場面は、照明が次々に消えて行き、その度に罵声や叫び声だけが響いてくる大広間のようです。そこでイエス様は殆ど声を出しません。しかし胸をしめつけるような場面のひとつひとつは、声なき声となって、私たちに呼びかけているのです。「悩みの日に、わたしを呼べ、私はあなたを助け、あなたは私を崇めるであろう」と。(深谷牧師)
ヨハネ福音書6章は、五つのパンと二匹の魚を五千人に分け与えて養われた奇跡で始まっている。マタイ・マルコ・ルカにも同じ出来事が記されていて、いかにも有名である。しかし、三つの福音書(共観福音書)ではそれだけの記録で終わっているのに対して、ヨハネ(第四福音書)では、さらにその続きが記され、奇跡の意味が語られている。(清水名誉牧師)
喜びに満ちている時、あえて求めなくても心は元気でいるでしょう。けれども、傷を負ったとき、見放された時、あるいは嘲りの言葉をかけられるような時、私たちの心はたやすく暗闇に覆われ、またその闇に誰かを引き込むようなことさえしてしまいます。キリストの愛が、私たちに必要なときというのは、まさにこの悩みの時ではないでしょうか。
茨の冠は、キリストの愛の証しです。押し込まれてにじむ血潮が、暗闇の中で、神の愛を私たちに示して下さっているのです。(深谷牧師)
これが、神様からいただく時間を味わった人の人生です。神様の手の中にあって、人と神様との関係がまっすぐに回復されるときに、その時間がいただけるのです。
イエス様は、私たちに、ただ過ぎ去る時間ではなく、神の恵みを味わう時間をくださいます。今がまさにそのとき、その時間です。それを見過ごして、漫然と今の時代の空気に流されてはなりません。イエス様は「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。」と、悲しみつつ問いかけておられます。
(京北教会 今井牧夫牧師)
もし私たちが信仰の馳せ場を忍耐を持って走り通そうとするなら、絶えずイエス様を仰ぎ望まなければなりません。
(1)私たちが神様に受け入れられる土台として、イエス様を仰ぎ望みましょう。
(2)死からよみがえり、天地の凡ての権を持ち私達を罪から守ってくださる贖い主として仰ぎ望みましょう。
(3)日々服従すべき御方としてイエス様を仰ぎ望みましょう。主に従う者は、常に生命の光を得るのです。(市原副牧師)
主はサマリヤの女の人に言われている。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ4:14)
「あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。」(イザヤ58:11)と言われている。
(清水名誉牧師)
題字の「アドナイ」という言葉は、「主」という意味のヘブライ語です。自分の全存在を委ねることのできる方、というような独特の響きをもつ言葉です。誰もが逃げ出したいと思うような苦難の襲う日に、より所となる方を知っている人は、なんと幸いでしょう。
身の毛のよだつ「十字架につけろ」という叫びを、沈黙を持って受け入れて、死と罪から解き放ち、愛と正義の道にすすむことを招く主イエスの眼差しが、ここにあります。(深谷牧師)
子どもの頃、先に3回勝ったほうが勝ちという「さんま」と呼んでいたじゃんけんが流行りました。「さんま」で2回負けると、次で勝負が決まってしまうかもしれないという緊張で、心臓がドキドキして来ます。
人生は、じゃんけんのような「勝ち負け」ではない、と頭でわかっていても、次の機会がないかもしれない、と平安を失う時があるでしょう。死という最大の暗闇を打ち破り、イエスさまは「勇気を出せ」と声をかけて下さっています。(深谷牧師)
クリスチャンの生涯を正しく始めるには、イエス様を信じることです。このイエス様は、先ず(1)罪を担い去ってくださいました。私たちは老幼を問わず神様の前に皆罪人でした。(2)神様は、私たちを罪の力から救うために与えてくださいました。(3)それだけではなくて、私たちの主として、王として与えてくださったお方です。
神様はこのようなお方を、私たちの救いのため、人の子として地上に送ってくださいました。しばしば私たちは信仰の原点とも言える事柄に立ち帰る必要があるのではないでしょうか。(市原副牧師)
犬やツバメが人に道を教えたりすることはできません。人と他の動物との違いは、言葉がしゃべれることだ、と言われます。けれど、言葉を持っていても、本当に伝えたい思いは、なかなか伝えられないものです。
何万という言葉より、たった一言が心に響き、さらには沈黙が、真実を心に届けるのにふさわしい事もあるでしょう。
イエス様のお答えは、神の無限の忍耐と愛を私たちに示していてくださいます。(深谷牧師)
ここに「早い者勝ち」という競争社会の縮図がある。その競争社会について行けないで取り残された人を主は顧みて下さる。(清水名誉牧師)
70年前の6月26日未明、特高警察によって一斉検挙された日本基督教団旧六部・九部(ホーリネス)の牧師先生たちは、いわれの無い責めを受け、次々と捕らえられ、多くの方々が殉教して行かれました。
突然の人災、天災は、思いがけない時に起こり、私たちの心をこれでもかという程に打ちのめします。
再臨の希望は、そんな私たちへの神の最終的な救いの約束です。心を上げて、御国を来たらせたまえ、神の平和を来たらせたまえと、共に祈り続けましょう。(深谷牧師)
当時のユダヤ人は病気は罪の結果であると考えていました。イエス様は病人の霊的・根本的必要を見抜き、その必要に答えられました。私たちは誰それは自分より年上だから、先に召されるのが順当だと考えます。しかし、何時・どこで・何事が起こるかわかりません。不意に死が襲ってきたとき、慌てることなく祈り捧げる方を持っていることは、実に幸いです。
「私はあなたを癒す主である。」と仰せになる神様が、私たちの近くにおられます。故に私たちは先ずへりくだり、主に赦しを請い、その上で主に信頼し、委ねきって主の栄光を拝したい。(市原副牧師)
子どもの頃に、最も嬉しいことは、自分を誇りに思ってくれる親の顔を見ることではないでしょうか。主の愛を信じて、「神の子ども」にされた私たちもそれと同じです。父なる神の恵みを心いっぱいに受けて、今後はその恵みに応えたい、という思いが起こされて動き始める時、その人は主に喜ばれる「神さまの聖い子ども」となるのです。(深谷牧師)
6月は弾圧記念月間として、ホ群の信仰標題「新生・聖化・神癒・再臨」の四重の福音について語られます。本日は「新生」についてであります。
ニコデモのようにイスラエルの指導者で学識も地位もある人でも、霊の世界については全く無知であることがわかります。
人が新しく生れ変るのは、聖霊のお働きによります。聖霊は真理の光によって、主イエスが救い主であると教えて下さいます。(清水名誉牧師)