24日のキャンドルサーヴィスには、今年も多くの方々が集われて感謝でした。まっ暗な夜の礼拝堂に、キャンドルの光りが温かく灯り、闇の中に生まれて下さった、イエス様のお誕生を思わせられました。
後日ある方から「教会からトンネルまでのまっ暗な帰り道で、神様に会える気がしました。」とメールを頂きました。神様の業は、暗闇と混沌の中から始まります。天地創造も、救い主の誕生も。私たちの心の中に、暗い部屋があるならば、まさにそこから、神様は再び恵みの御業をはじめて下さるのです。
(深谷牧師)
深谷牧師の説教
バプテスマには告白を伴います。告白されねばならない人々が三人あります。
(1) 自分自身に対して告白しなければなりません。
(2) 自分が悪いことをした人に対して告白しなければなりません。
(3) 神に対して告白しなければなりません。
水は人の身体を浄めることが出来るでしょう。そして聖霊は人の命・人自身と心を浄めることがお出来になります。
(市原副牧師)
大天使ガブリエルがナザレの一少女に現れて御子のご受胎を告げた。この時から世界の救いの歴史が始まったのである。ナザレには今、立派な告知教会がある。
マリヤのように主のみ言葉を謙虚に受け入れるものでありたい。
(清水名誉牧師)
アドベント(待降節)の季節を迎えました。私たちの救い主、イエス・キリストの誕生を待ち望む季節です。しかし、アドベントにはもうひとつの意味があります。それは、再びこの世界に来臨されると約束されたキリストの訪れを信じ、待ち望むという意味です。
教会の長い歴史は、この主の約束を祈りつつ、待ち望みつつ、歩み続けた歴史なのです。はるか彼方の約束の国まで、まだまだ高い山々が続いていることでしょう。旅を続ける私たちの心を強め励ます力は、祈りによって与えられます。主の平和を待ち望みつつ。
(深谷牧師)
収穫感謝・謝恩日を迎えました。教会の暦では、今日が大晦日です。1年をふり返り、与えられた感謝を、思い返す時といたしましょう。ネヘミヤの前に集まったユダヤの民は、自分たちの神に背いた行いのために、嘆き悲しんでいたと記されています。しかし、彼らに向かってネヘミヤは「主を喜び祝え」と奨めました。「罪汚れはいや増すとも、主の恵みもまたいや増すなり・・・」(聖歌701番)力の源に結ばれて、新しい年を迎えましょう。 (深谷牧師)
主にあって無限の財宝を天に蓄えるわたしたちは、15節にあるように同情・推察の心を養いなさい。そしてまず喜ぶ者と共に喜ぶという心を抱きなさいとすすめられています。Ⅰコリント13章には、愛はねたまず、誇らないとあります。人の境遇が自分に勝るのを見て、共に喜ぶのです。
特に国籍を天国に移した者にはキリストの心がなければなりません。ある人は「同情は人と人との間をつなぐ黄金の鎖である」と言いました。神は「仇を返すは我にあり」と仰せになりました。わたしたちは常に「悪に勝たれるなかれ。善をもって悪に勝ちなさい」の生活を勝ち得るように祈りつつすすみたいものです。
(市原副牧師)
イエスさまは子供たちを愛された。未成熟で失敗を繰り返しながら、成長をめざしていく。幼児には夢があり、無限の可能性を秘めている。子供はダメ!と排除せず、広い心と大きな愛の手を広げて子供たちを迎えよう。そのみ国は大きく成長していく。 (清水名誉牧師)
クリスマスに取り上げられる物語のひとつに、ロシアの文豪トルストイの民話『靴屋のマルチン』があります。神様が、最後にマルチンに語りかける、マタイ25章40節のみことばが印象的です。
忙しいという言葉は「心を亡くす」とも読めます。ふと立ち止まって、最も親しい人、最も身近にいる人、何でも言える人、最愛の人、その人への関わりが、主と共にある関わりになっているか、考えてみましょう。
(深谷牧師)
コロサイ書を読み続け、今年の教会の標語として掲げた3章15節に辿り着きました。直前の14節にある「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。」というみことばと並んで、主にある愛と平和への招きが語られています。
私たちの「心を支配する」ものは何でしょうか。心の扉に、愛と平和の源である、イエス様をお迎えしようではありませんか。
(深谷牧師)
イスラエル人は、エジプトを出た時を以って、国民としての産声上げたと言うことができます。これをわたしたちの心霊的体験にあてはめるならば、わたしたちが長い間悪魔の支配を受けていた中から救い出され、神の子供とされるのは、ちょうどイスラエル人がエジプトを出るのと同じで、これはわたしたちの生活の新規まきなおしであります。
イスラエル人が暦を改めて国民としての新紀元を記念したようにわたしたちもまた、新たに救いを受けた日を長く記念し、これを追懐し、感謝し、いつまでも神と人とに対する「初めの愛」を離れることのないように心がけたいものであります。
(市原副牧師)
バベルの塔は現在存在しない遺跡である。塔の規模は基礎が91.4m四方、高さ98.5mと言われる巨大な塔である。しかし、神よりも偉大たらんとする人類の傲慢さが見える。その高慢の罪がお互いの間に争いを生じさせ混乱をもたらしたのであった。 (清水名誉牧師)
洗礼は本来、川や海で、白い衣に着替えて、全身を沈められ、再び引き上げてもらう、という儀式です。それは、「古い自分は死に、イエス様によって新しい命に引き上げられた」ということを現しています。
悪い自分と分かっていても、これを脱ぎ捨てたら他に着るものがない、というのが生まれながらの人間の姿です。けれども、イエス様は、十字架で命を捨てて、新しい白い衣を与えてくださったのです。
(深谷牧師)
パウロのうるわしい心情からあふれ出る感謝は、彼の純粋な宗教心の発露であり、ローマ人への手紙のここ・かしこに表れています。また、感謝はパウロの宗教気質である、ということができるでしょう。パウロの感謝は、どのような境遇・事情も突破して、感謝が溢れ出るのであります。当時コリント教会は偶像の町にあり、取り扱いにくい教会でした。
パウロはそのようなコリント教会を愛し、導きました。この言い尽くし得ない神の賜物すなわち独子をも賜った愛に対し、わたしたちに生き生きした感謝がなくなっているなら気づかないうちに危険が迫っていることを知り直ちに十字架のもとにひれ伏して、感謝を新たにしていただかねばなりません。
(市原副牧師)
(深谷牧師による説教)
新会堂が献堂6周年を迎えました。今でも木の香りがほのかに満ちる礼拝堂に、多くの方々が感動されています。
しかし、この教会に永遠に残るものは何があるでしょうか。闇の力の中で、天の御国を指し示す道しるべ、キリストが共にいてくださるという祝福の他にそれはありません。
八角形の屋根は「復活」の象徴です。死の扉の向こうには、神の愛を全うされたイエス様が私たちを招いておられます。
(深谷牧師)
人類が発展するに従って、人の悪が増大したことは極めて遺憾である。地球上の文明の発達は国家間と民族同士の争いへと発展し、現代の科学技術の発展は人類の破滅へ向かおうとしている。今こそ人類は悔改めて、主の許に立ち帰らなければならない。 (清水名誉牧師)
宗教の落とし穴は、崇高な姿を熱心に求める余り、戒律を増やしたり、苦行を課したり、偽善を重ねたりして、かえって見えるところに縛られてしまうことにあります。
パウロは、自分はキリストと共に死んで、キリストと共に復活した、と述べています。
自分の範囲を塗り固めて、誇る生き方はもう終わったと。見えないけれど、死の向こう側から自分を迎えて下さる、キリストの大きな愛を希望として生きる「第二の人生」を歩んでいると語っているのです。
(深谷牧師)
同志社の創設者の妻、新島八重は、その風貌を学生の徳富蘇峰に「鵺」と酷評されたと言います。旧態依然の当時の京都では、女性でありながら夫を「ジョー」と呼び捨てる姿は「悪妻」と評されたのでした。しかし、その蘇峰は、後に八重の墓碑に揮毫する程、彼女を尊敬しました。大河ドラマとして広く親しまれているのは周知のことです。
世間に惑わされない彼女の魂の真ん中に、「頭なるキリスト」がおられました。
(深谷牧師)
信仰とは何なのでしょう。「信じ」「仰ぐ」という2文字から成り立っています。しかし、それは自分の外にある、客観的なものを仰ぐと言うのが「信仰」という言葉から来るニュアンスですが、これは非常に聖書的な考えに近いものであると思います。
フブライ11:1には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。これは「信仰の性質」について言及しているのです。
日本では古くから「人が救われるためには善を行わねばならない」と言われてきました。ですから「六根清浄」と言います。わたしたちの信仰はそのようなものではなく、「イエスを信じる信仰」なのです。
また信仰は聞くことから始まる、と言われています。そしてそれを助けて下さるのが、聖霊なのです。そのためにも、わたしたちは日頃聖書に親しむ必要があるわけです。「信仰」の確立のためにも、神の御言葉・聖書に是非親しみ、何度でも繰り返し、座右の書として、読み続けていただきたいものです。
(市原副牧師)
カインの犯した殺人の罪は拡大して戦争へと発展し、種族間から国家間へ、さらに世界戦争へと増大したのである。
今こそ平和の主を見上げて、祈りの手を上げなければならない。
(清水名誉牧師)
教会を香水にたとえるなら、その香りの主原料は何でしょうか。それは、ゴルゴダの丘に立つ十字架です。香水の一滴に、かご一杯の花びらが摘み取られ、刻まれ、潰されます。同じように、私たちの小さな罪のために、キリストが釘打たれ、血潮を流し、その罪科を贖ってくださいました。
「あなたは赦されている」という主の言葉が、私達の罪の匂いを拭ってくださいます。
(深谷牧師)
「死んだも同然」という言葉があります。積極的な意味では、ほとんど使われません。けれども、パウロはしばしば、この言葉を、新しいキリストの充満の入り口に重ねて使っています。「世に死ぬことは、キリストのうちに生きていることなのだ」と。(ガラテヤ2:19-20)
主の十字架を、唯一の救いと信じる人は、世間からは愚かに見えることでしょう。けれども、それで良いのです。その「死んだも同然」の姿にこそ、掛け流しの永遠の命の水は、流れて、溢れて、止まらないのです。
(深谷牧師)
今朝は「第二の転機としての聖化」中でも「肉的クリスチャンと霊的クリスチャン」について学ぶ時を持ちたいと願います。聖書に於ける「救い」とは義と認めていただくことです。それに続いて「聖化」「榮化」が起こされます。そしてこの三つが救いの全容なのです。それでは「肉から霊へ」移るためには何が必要なのでしょうか。自分でも「潔くなりたい」との願望を持ち、「わたしは悪と手を結びません」という決断を以って神の御前に出ることが必要なのです。(市原副牧師)
熱中症が心配な季節になりました。屋内でも気温管理に気をつけて、水分補給をこまめに、身体を休めることも時には必要です。対策を十分とって夏を乗り切りましょう。
さて、人は「霊・魂・体」で成り立つと言われます。体の健康を保つために、色々な対策をとりますが、霊と魂の状態はどうでしょう。心の乾きは潤され、いのちの輝きを守る備えはされているでしょうか。
聖書は、7つの「神の武具」によって、完全装備で、愛と正義を実現させてくださる神様の力を得なさいと、勧めています。
(深谷牧師)
このあと人類最初の殺人‐兄弟殺し‐という衝撃的な出来事が記されている。
ここには主が喜ばれる礼拝の姿勢が示されている。カインの名前は「獲得」、アベルの名前は「空(くう)」の意味がある。二人の礼拝の姿勢が伺える。ルカ18:9-14にも、ファリサイ人と徴税人(罪人)の祈りの対比があり、主は高慢な者を斥け謙遜な者に惠を賜る。
アベルの流した血は殉教者の血とされ、「アベルは死にましたが、信仰によって、まだ語っています。」(ヘブライ11:4)
(清水名誉牧師)
ひと月に亘り学び続けてきた「四重の福音」の、締め括りは「再臨」です。これは、キリストが、再びこの世界に来られ、新しい神の国を実現される、という信仰です。
神の国の到来は「どうすることもできないもの」です。しかし、人知を超えた約束であるからこそ、他の何者によってしても左右されないからこそ、再臨を待ち望む人の心を奮い立たせることができるのです。どうにかすることができる、その程度のものであるならば、私たちのあらぶる心を、本当の意味でしずめる力にはならないからです。
(深谷牧師)
1942年6月26日、ホーリネス教会の牧師は一斉検挙を受けました。その数128名。京都復興教会の前身、京都朱雀教会の竹入高先生も、殉教されたお一人となられました。
聖書の中にも、迫害を受けた信仰者の姿があります。エレミヤ、ステファノ、バプテスマのヨハネ・・・。そこには必ず、命を賭けた伝道の情熱がありました。死を目前にしても語らずにはおれない御国の輝きによって。
(深谷牧師)
重病を患う娘の母親が助けを求めたのに対して、イエスは彼女に対して意外と思われる言葉を発しておられます。それは「子どものパンを取って子犬にやってはいけない。」と。しかし彼女は言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と。主はこの言葉を喜ばれ、彼女が切望していた癒しが与えられたのです。わたしたちはこの女性のように、不屈の信仰を以って祈る時、そのような信仰の祈りは必ず応えられるのです。(市原副牧師)
ダビデ王は多くの詩を残しているが、中でも詩編23編は多くのクリスチャンに愛されて有名である。ダビデはそこで「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と主なる神への信頼を歌っている。彼自身が少年時代に羊飼いであった。王となってからも「主が羊飼い」であることを忘れていない。主イエスもご自身を「良い羊飼い」と言われ、わたしたちを命をかけて守られる。(清水名誉牧師)
「四重の福音」(新生・聖化・神癒・再臨)という、ホーリネス信仰の大切な柱を、弾圧を受けた6月に毎年覚えています。
「新生」とは、文字通り私たちが「新しく生まれること」(コリントⅡ5:17)です。イエス様を救い主と信じる時、私たちに与えられるのは、古い過去の焼き直しではなく、全く新しい命の中に生かされる経験なのです。
神の力を現実に受けて、変えられていった先達に私たちも続く者になりましょう。
(深谷牧師)
"In His Time"(邦題・「御手の中で」)というゴスペルソングに、「御手の中で、すべては変わる賛美に…我が行く道を導きたまえ、あなたの御手の中で」という一節があります。
キリストの言葉に出会ったときの感動が、時間が経つと薄れ、それでは別の言葉を、また違う教えを、と自分の心に障子の穴のすきま風をふさぐように付け足していく内に、余計に恵みの光を遠ざけてしまうことがあるのではないでしょうか。心の破れこそ、神の愛の注ぎ口だ、とも言われます。キリストに、自らのすべてを委ねてみませんか。(深谷牧師)
2.神の救いの御計画。クリスチャンというのは、神に選ばれた者です。私たちが人を選ぶとき、身許であるとか、その人は大丈夫か等と気を遣います。主は私たちをイエスにふさわしい者とするため、選んで下さったというのが聖書の言うところです。主はやがて地上に来られ、人類の救いを成し遂げるだろうと、父なる神さまがイエスを救い主として選ばれたのです。
イエスに於いて、神が天地創造以前からわたしたちを選んでいて下さったということは、何というすばらしいことでしょうか。
(4月21日説教の続き 市原副牧師)
イスラエルの国を飢饉が襲いベツレヘムの住民の一家がモアブに移り住んでいた。ところが間もなく父親が死に、結婚したばかりの息子たちが相次いで死ぬという不幸が訪れた。帰国することになったしゅうとめのナオミの後に嫁の一人ルツが従った。
やがて、大麦の落穂を拾うルツは農場主のボアズと結ばれるという物語。ミレーの落穂拾いで知られる。(清水名誉牧師)
末盛千枝子さんが「年をとることのすばらしさの一つは、いろいろな経験が、特に苦しく悲しい経験が、結局は自分を育ててきたという実感を持てることではないかと思います。そのとき、人は…」と述べておられます。キリストという栄光の希望は、私たちにとって、ある意味で苦しみを担うことでもあります。聖霊の風に慰められつつ、示された道をみ国の輝き目指して共に歩みましょう。 (深谷牧師)
15~20節は「キリスト賛頌」と呼ばれる、主を讃える詩が綴られていました。パウロは天地創造の時代からキリストが働いておられたことを語り終えて、今度は目の前の教会と、パウロ自身に、神様が新しい創造の業を行っておられることを語ります。救いの歴史は、私たちの魂に繋がっているのです。 (深谷牧師)
救いとは何でしょうか。私達の救いのために聖霊が働いておられます。神様がどのような御計画で私達をこのすばらしい救いの惠みに入れて下さったかと言いますと、ローマ8:29にその目的が記されています。「救いへの第一歩」について、1.聖霊の御業と私たちの救い、2.神の救いの御計画を、2回に亘って考えてみたい思います。
1.聖霊の御業と私たちの救い。救いの御業が私達の中になされるには、聖霊が非常な御思いを以って働いておられるのです。私達が自覚していなくても、聖霊がハッキリと働かれ、私達を導いていて下さるのです。
(市原副牧師)
エデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木があった。人は神が禁じられていた善悪の知識の実を食べて罪を犯したため、死なねばならなくなった。また、神は命の木を守るためにエデンの東にケルビムと剣の炎を置かれたという。人が罪を犯したまま永遠に生きることを望まれなかったからである。 (清水名誉牧師)
天地創造の中で、神は人間を「神のかたち」に似せて造られた(創世記1:26)と記されています。それは恵み深い神の愛を受けた存在、平和な、欠けのない満ち足りた人間の姿です。けれども、罪に汚れた人間は、その姿を失い、壊れた破片のような心の鏡に僅かに神の輝きを感じることしかできなくなりました。
キリストは、もう一度、完全な「神の姿」を「見えるかたち」で示してくださいました。それが十字架です。愛の血潮が、私たちをはじめの平和の道に招いておられます。
(深谷牧師)
キリスト教の勝利は、キリストがわたしたちのために死んでくださった、そしてわたしたちを生かすために甦られたと云う点にあるのです。そこでわたしたちは昔の弟子たちのように復活の証人にならねばなりません。クリスチャンは今!今こそ喜び輝き、今こそ証しするときであります。
神はわたしたちに強く呼びかけておられます。「あなたがたは甦りのキリストの証人でありなさい」と。
(市原副牧師)
今朝の礼拝は、イエス様が十字架にかかるために、エルサレムに入場された事を記念して「棕櫚の主日」と呼ばれています。力強くそびえる棕櫚は、古来勝利と凱旋の象徴でした。しかし、主イエスが目指した勝利は、地上の頂点に立つことではなく、十字架刑という地の底で、死を打ち破り、罪を贖うという勝利だったのです。目の前が闇であっても、「平和を得る」と約束の声が響きます。 (深谷牧師)
今も主はわたしたち一人一人に対して、「なんじ我を愛するか」と尋ねておられます。私たち一同、心の目を開かれて、「主よ、我なんじを愛す。願わくは我をあわれみ、初めの愛を回復し、また常にそこにとどまることを得させたまえ」と主にお答えするとき、神は必ずやこの教会を、そして愛兄姉達を祝してくださるでありましょう。 (市原副牧師)
レント(受難節)第4週の日曜日を迎えました。教会や幼稚園の日陰のあちこちで、レンテンローズが健気に咲いています。
手紙の中でパウロは、教会の人々のために執り成しの祈りを捧げています。彼らが神の御心を深く知り、困難の中で耐え忍ぶ力が与えられるようにと。十字架の主を見上げつつ、私達も、そのみ跡を辿りゆきましょう。
(深谷牧師)
創世記は「はじめの書」といわれる。「天地のはじめ」「人類のはじめ」「罪のはじめ」である。罪は神のみ言への不従順によって二つの世界に入り込んできた。み言への不従順は神の存在の否定となる恐ろしい罪である。結果人は神より遠く離れてしまっている。「帰れや!」との主のに声が聞こえる。 (清水名誉牧師)
パウロは、冒頭の挨拶に続いて、長々しく丁寧な謝辞をコロサイの人々に述べています。その中で、「愛、信仰、希望、感謝」誰もが耳にした事のある言葉のひとつひとつを、しっかりと味わうように書き記しています。
教会で与えられるそれらのひとつひとつは「福音という真理の言葉を通して」私たちに届けられ、「愛を知らせてくれた人」(8節)の声によって私たちはそれを知ったのだということを。現代の教会も、その根底は変わりません。創立67年の歩みを感謝しつつ。
(深谷牧師)
エステルはユダヤ人のために執り成しをするのですが、当時は王の許しがなければ、王に面会することは出来ません。それどころか王に面会を強要したという事に成り、死罪になるのが常でした。ここにエステルの必死の思いが伝わります。神の仰せになることであるならばどんなことでもする。マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように。」と、神の御旨であるならば、どのようにでもなってみようという性質が備わっている人を、神が見過ごしになさるはずがありません。 (市原副牧師)
教会は、創立67周年を迎えました。信仰の先輩方が歩み行かれた道を想い、今私たちに与えられている恵みを感謝いたします。
年頭に掲げたこの聖句は、私たちの平和がどこからもたらされるのかと言うことを、改めて教えています。新しい衣(9節)、神の恵みを心にまとい、神の愛というボタンで絆を結ぶとき、キリストの平和が心を温めます。
(深谷牧師)
神はみ言によって天地を創造されたという。み言には神のみ心が示されている。即ち、み言によって造られたこの世界は、神への栄光を表していて、被造物の存在する目的もここにある。しかし、人はみ言に反逆し罪を犯して神の許を離れて滅びの運命にある。
主イエスはみ言の成就によって人となり、罪人の身代わりとなって十字架に死なれた。ここに神の新創造がなされたのである。
(清水名誉牧師)
(フィリピン宣教師の横川知親牧師による説教)
人生の中で、3回にも及ぶ伝道旅行を果たし、最後は信仰の故に囚人となった使徒パウロの手紙は、はじめの挨拶の中で既に、命の源を潤す秘訣を語っています。それは、私たちを結ぶ「キリスト」という方と共に歩む生き方です。
教会は「神の家族」と言われます。イエス様の愛の絆(3:14)で結ばれた、すべての方に上よりの惠みと平和がこの週も、ゆたかにありますように。
(深谷牧師)
今朝は「祈祷について」4つの方面から学びたいと思います。1.祈祷の生涯について。毎日一定の時を祈祷のために定めましょう。2.祈祷に初め、祈祷に終わる日々を送ること。3.試みが近づいて来るときの特別な祈りについて。Ⅰテサロニケ5:17には、「絶えず祈りなさい」と記されています。4.約束のもの(知恵・力・聖霊など)を求めるには、聖書に基づいた祈りを捧げる必要があります。 (市原副牧師)
同志社の創設者新島襄は、上州安中藩(群馬)の出身。少年時代に漢訳の聖書を読み、冒頭の上記みことばに魂の目が開かれた。更にキリスト教を学ぶため函館に渡り、米船ベルリン号に潜入、米国に渡った。アーモスト大学に学び、さらに専門に神学を修めて帰国、京都に同志社を建てたのである。因みに大河ドラマの八重夫人はその折土地を提供した京都府顧問山本覚馬氏の妹である。 (清水名誉牧師)