今日のみことば(2014年)
2014年の聖句「再び心を励まし、なお待ち望む」(哀歌3:21)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2014年12月28日年末感謝礼拝 「新年を迎える心の準備」

「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」(詩篇103:1)

 ダビデは「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。…主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と言っています。新改訳では「主の良くして下さったことを何ひとつ忘れるな」と記されています。私達は心の平和を保つために、
 (1) 神との間に平和を保たねばなりません。
 (2) 私達は、自分と自分の胸の内に平和を保つことが出来ます。
 (3) 他人と自分の間に平和を保つことが出来ます。
私達が自分自身のために備えられた恵みを我がものとするために
 (1) 先ず服従することです。
 (2) 純潔と平和と力を持ちたいと願うなら、大胆・率直に神様を信じなければなりません。大胆に、神様とその御力に信仰を持つ者は幸せです。
私達も、神は私達のような者さえ用い給うとの大確信により、立ち上がりたいものです。 (市原副牧師)

■ 2014年12月21日クリスマス礼拝 「その星を見て」

「東方で見た星が先立だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2章9-11節)

  (深谷牧師による説教)

■ 2014年12月14日アドベントⅢ礼拝 「その名はヨハネ」

「母は『いいえ、名はヨハネとしなければなりません』と言った。しかし人々は、『あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない』といい、父親に『この子に何と名を付けたいか』と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は驚いた。すると、たちまちザカリヤは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」(ルカ1:60-64)

 ヨハネの名は旧約のヨナ(ヨハナン)と同じで「主は恵み深い」の意。彼は成長して救い主の到来を予告する預言者となった。そして人々を悔い改させバプテスマを授けたのでバプテスマのヨハネと言われている。 (清水名誉牧師)

■ 2014年12月7日アドベントⅡ礼拝 「平和をもたらす王」

「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前の中から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」 (マタイ2:6)

 華やかな、巷の「クリスマス」のまばゆさの中から、聖書の物語に目を向ける時、何と目立たない、地味な景色であることかと思わされます。「小さい者」「取るに足らない者」「泊まる場所が無かった」と…。しかしその場所に、祝福が注がれ、喜びは溢れ、神の愛があらわされたのです。 (深谷牧師)

■ 2014年11月30日アドベントⅠ礼拝 「マグニフィカート」

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。・・・」(ルカ1:51-53)

 今朝の箇所である「マリアの讃歌」は、ラテン語の頭文字をとって「マグニフィカート」(「讃える」の意)と呼ばれています。名画によって彩られるマリアのイメージは、静かで、厳かで、いかにも女性的です。ところが、この讃歌の後半には、上掲の如く、革命的な言葉があることは驚きです。良き知らせ(福音)は、不安な心を平安に、脅える者を勇気ある人に、変える力を持っているのです。 (深谷牧師)

■ 2014年11月23日其枝幼稚園創立60周年記念礼拝 「主がともにおられる」

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書15:5a)

 清水名誉牧師による説教

■ 2014年11月16日礼拝 「老祭司と処女マリヤ」

「我は是非の使女なり。爾(なんじ)の言る如く我になれかし。」(ルカ1:38元訳聖書)

 ルカによる福音書には、主の御降誕の物語の前に、ザカリヤとエリザベトの話が登場します。長らく不妊であった妻エリザベトに子どもが与えられるという言う話です。しかしザカリヤは祈っていたのに疑いを抱きました。またマリヤの場合は、未婚であったのに、身ごもり、これを告げた天使に「なぜ結婚していないのに、身ごもるのですか」と理由を尋ね、主の御計画の中に、あったこと知り、「わたしは主のはしためです。御言葉どおり、この身になりますように」と身の危険をも顧みず、受け入れました。主の御計画の裏に、マリヤのような単純な信仰があったことは、幸いなことです。
 私達も、神は私達のような者さえ用い給うとの大確信により、立ち上がりたいものです。 (市原副牧師)

■ 2014年11月9日障がい者と共に歩む主日礼拝 「小さい種を蒔く」

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

 日本キリスト教団では、毎年11月の第2週を「障害者週間」と定めています。そしてその第2聖日を「障がい者と共に歩む主日礼拝」として礼拝をおささげしています。
 今年は、山科区・小野にある障害者福祉施設『からしだね館』にて理事長を務められる坂岡隆司兄をお迎えしてお話しを伺います。
 わたし達が、み言葉に傾聴し、教会と障がい者のありようを見つめ直して、その垣根を取り除く機会となりますよう願います。 (深谷牧師)

■ 2014年11月2日礼拝 「恵みによって」

「彼(アブラハム)は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ロマ4:20-21)

 10月31日は、宗教改革記念日でした。500年前のこの日、マルチン・ルターによって、「信仰のみ」「恵みのみ」「聖書のみ」に立つ、プロテスタント信仰が誕生したのです。
 この信仰、信頼と訳された言葉は、仰向けに後ろにバターンと倒れる様子を表すそうです。安心しきって、父親の腕を信じ切って後に倒れる子供の姿・・。信仰は冒険だと言われますが、その冒険は闇の中にではなく、恵みに満たされて身を委ねる喜びなのです。 (深谷牧師)

■ 2014年10月26日礼拝 「アブラハムの信仰」

「アブラハムの信仰が義と認められたのです。」(ロマ4:9)

 かつてイエス様は、癒しを求めた盲人に「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。「御国で私を思い出してください」と叫んだ瀕死の強盗にも、「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われました。
 聖書が繰り返して私たちに示しているのは、「信じる心」がすべてのはじめであるということです。神様にアブラハムの信仰が義と認められたのは、「割礼」を受ける前の出来事でした。14年間のブランクがあったのです。神様の恵みを頂くシナリオは、人間の感覚とは異なり、逆になることも多いのです。 (深谷牧師)

■ 2014年10月19日礼拝 「ヨハネの見たこと 2」

「我これを見し時死ねる者の如く、その足下に倒れたり。…我は首先なり、末後なり。我は生者なり、御前に死にしことあり。視よ、我は世々窮なき生きん。」 (黙示録1:17元訳聖書)

 神が、「私はアルパである」と言われた時、すべてのものが神によって始まったことを知りました。主イエス・キリストの復活の日は勝利の日でした。それ以来主は黄泉と死との鍵を持たれました。そして永遠に活きておられます。今日、目に見える教会は、油が切れて、光の消えた灯台の様相を示すような教会が多くなりました。私たちは絶えることのない祈りを通して主の再臨の前に教会において真のリバイバルが訪れることを、信じるものです。 (市原副牧師)

■ 2014年10月12日祈りの友礼拝 「日毎の糧」

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(ルカ11:3)

 マタイでは「…今日与えてください。」とあり、口語訳では「わたしたちの日毎ひごとの食物をきょうもお与えください。」(マタイ)「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。」(ルカ)となっている。さらに文語訳では「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。」(マタイ)、「我らの日用の糧を日毎に與へ給え。」(ルカ)とある。
 教団の「信徒の友」の終わりのページにある「日毎の糧」はルカからのものらしい。
 昔イスラエルが荒野で毎朝天からのマナで養われたように、わたしたちも日毎のみことばによって養われるのである。 (清水名誉牧師)

■ 2014年10月5日世界聖餐日礼拝 「罪を覆われて」

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(ロマ4:7-8)

 上掲のみことばに、どのような印象をもつでしょうか。もっと、「罪は罪」と明るみに出すことが良いことのようにも思えます。けれども聖書はそれ以上に鋭く、人間は、誰一人罪に打ち勝つことができない弱い存在であることを、示しています。そして、その傷だらけでうち倒れた裸の姿を、神は温かい衣で覆ってくださると語っているのです。
 この「幸い」は、そのぬくもりのことです。私たちの信仰の先達から受け継いだ遺産は、何よりも、この「幸い」なのです。 (深谷牧師)

■ 2014年9月28日礼拝 「ヨハネの見たこと」

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神が僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストが、その天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」(ヨハネの黙示録1:1)

 私達の神は、昨日も今日も永遠に変わり給わない御方です。とこしえに聖であり、義であり、真実な御方です。
1 神は永遠に存在される御霊です。
2 神は能力の御霊です。
3 神は真理の御霊です。
4 神は聖霊の御霊です。
5 神は私達に神の愛をお与えになる御霊です。
6 神は恩惠の御霊です。
7 神は御栄光の御霊です。 (市原副牧師)

■ 2014年9月21日合同記念礼拝 「また会う日まで」

「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:15-18)

 (深谷牧師の説教)

■ 2014年9月14日献堂7周年記念礼拝 「最善をなさる神」

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

 献堂7周年を迎えています。振り返って実に神さまは最善をなさる方だと思っています。
 第一はその時です。旧約コレヘトの言葉の中に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」とあります。第1会堂は1954年8月に完成、早速其枝幼稚園が創設されました。1995年1月阪神大震災のあと当教会の会堂の耐震検査を行い震度6弱で倒壊することが判明。そこで創立60周年をめざして新会堂建築が計画されました。2007年8月完成し9月に献堂。側溝問題も解決し道路に面して建築され最善でした。第1会堂はヴォーリズの西井一郎氏。新会堂は元ヴォーリズ所長の石田忠範氏に設計管理して頂きました。主が備えられた方々でした。 (清水名誉牧師)

■ 2014年9月7日礼拝 「信仰によって」

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ロマ3:28)

 宗教改革者ルターは、この箇所を「ただ信仰のみによる」と訳しました。聖歌521番は「キリストには変えられません、世の宝も、また富も。このお方が私に代わって死んだ故です・・・」と歌います。これらは、「信仰義認」という聖書の教えの中心に通じています。
 自らの存在が、罪に苦しみ悩まされた時、キリストが、身代わりとなって罰を受け、十字架にかかり、私たちを救って下さったと信じることができるなら、これ以上の幸いはないでしょう。神の愛がそこにあります。 (深谷牧師)

■ 2014年8月31日礼拝 「信仰義認」

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。・・・ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」 (ローマ3:21,24)

 宗教改革者マルチン・ルターは、その改革の3本柱を、「聖書のみ」「信仰義認」「万人祭司」としました。ルターは、このロマ書3章から、「信仰によって義とされる」という教理を見いだしたのです。
 この「信仰のみ」(ラテン語で「ソラ・フィデ」)という教えこそ、私たちを罪の迷いから救う、道しるべであり、また生涯を通じて神の恵み深さを味わう「杖」なのです。 (深谷牧師)

■ 2014年8月24日礼拝 「心の平和」

「悪(あしき)者は遂う者なけれども逃げ、義(ただしき)の者は獅子の如く勇まし。」(箴言28:1元訳聖書)

 「平和」これは実に美しい言葉です。この反対語は「争い」です。どの場合を取って見ても、すべてが不愉快なものです。人は神との関わりを持たないで、罪を犯したままでいるならば、その心には平和がありません。良心の呵責からのがれ、平和を得る道は、十字架上のキリストを仰ぎ、私達のよりどころにすることです。キリストこそは平和そのものであり、この御方の中にあるならば不安も焦燥も凡て取り去られ、そこにあるのは真の平和です。 (市原副牧師)

■ 2014年8月17日夏期特別礼拝 「人間をとる漁師」

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(マルコ1:16-20)

 潮 義男牧師(仙台青葉荘教会)による説教

■ 2014年8月10日祈りの友礼拝 「御心が行われますように」

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10b)

 主の祈りの第三の祈りです。前回(7月13日)の第二の祈り「御国が来ますように。」とは関連深く第二と第三は一つの祈りです。なぜなら、神の国とは私たちの意志と生活を神の意志に従わせ、おゆだねすることだからです。
 神の「御心」とは「神の意志」であり、神の意志が支配されるのが神の国であります。
 主イエスはゲッセマネの園において、「父よ御心ならこの杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく御心のままに行ってください。」と祈られ、十字架への道を決断されました。 (清水名誉牧師)

■ 2014年8月3日礼拝 「耐えられない律法」

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」 (ローマ3:20)

 先日、急いで運転して帰ってきた時、教会の門の所で車をこすってしまいました。M兄が丁寧に研いてくださって、目立たなくなりましたが・・・。車でも住宅でも、新しいものは喜ばれます。けれど時が経つにつれ、傷がつき、ピカピカではなくなってゆきます。
 もしも神の義を、自力で保とうとするなら、生きること自体が耐えきれない重荷となってしまうでしょう。十字架上のイエス様の傷だらけの姿は、その耐え難い神の裁きを私たちの代わりに受けて下さった姿なのです。 (深谷牧師)

■ 2014年7月27日礼拝 「キリストの流血 b」

「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。…あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Ⅰペテロ2:24-25)

 主イエスの死は「任意の死であった」主は全世界の罪のために心からの犠牲になられました。「恥辱の死であった」主はその敵のため に、その敵の手によってその上罪人となられました。「勝利の死であった」確かな信仰に案じて死なれました。「効果のある死であった」主の死によって私達は私達の牧者・監督に戻ることが出来ました。これにより私達主の僕たる者は黙示録5章12節のように叫ぶべきではないでしょうか。 (市原副牧師)

■ 2014年7月20日CS合同礼拝 「神様の愛」

「神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)

 ヨナ書は、とてもユニークな預言書です。大きな魚やとうごまの木など、登場するものも変わっていますし、何より神様にまっさきに従うはずの預言者自身が、神さまの命令から逃げ出す話になっているのです。
 しかし、だからこそヨナ書にしか伝えられない、「神の愛は私たちを捕えて離さない」というメッセージがそこにはあります。
 逃げ出しても、文句を言っても、奈落の底に突き落とされても、そこにも神の愛はどこまでも追って来るのです。そして、神さまは、同じように、世界のすべての人々を、愛しておられると力強く語られているのです。 (深谷牧師)

■ 2014年7月13日祈りの友礼拝 「御国が来ますように」

「御国が来ますように。」(マタイ6:10)

 主は宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と宣べられました。
 神の国は「天の国」(マタイ5:3)と言われているように地上の国々と異なります。地上の国々は国土を持ち、国家を形成し、地上の王などが支配しています。
 天の国では、救い主が福音によって人々の心を支配され目に見えない御国です。「神の国を求めなさい。…あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:31)と約束されています。神の国は私たちの間に共におられる主ご自身のことであります。 (清水名誉牧師)

■ 2014年7月6日礼拝 「主のまこと」

「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4-5)

 英語の「faithful(フェイスフル)」は、「信仰」と「真実」というふたつの意味を持っています。主の真実(まこと)は、奇(く)しきかな・・・と讃美歌に謳われているのも、この真実です。
 私たちの信頼(フェイスフル)は時に揺らぎ、自分を守るために真実を歪めてしまいます。しかし、キリストの十字架は、主の真実の確かさを証ししてくださっています。 (深谷牧師)

■ 2014年6月29日弾圧記念特別礼拝 「殉教者の血は教会の種子」

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(Ⅱテモテ4:7-8)

 加藤恵司師(向島キリスト教会牧師、聖学院大学教授)の説教

 ※1942(S17)年6月26日未明、京都復興教会の前身、京都朱雀教会の竹入高牧師も検挙され、教会は解散させられました。その後仮釈放されるも、獄中の病が癒えず1943年11月殉教者のひとりとなれています。1946年2月、四ノ宮にて教会は復興し、現在にいたっています。

■ 2014年6月22日礼拝(四重の福音強調月間・再臨) 「キリストの再臨」

「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 (ルカ21:32-33)

 6月はホ群では、「四重の福音強調月間」となっており、第4聖日である今朝は「再臨」について学ぶことになっています。主の日は盗人のようにやってくる、と聖書は語っているので主が再臨される時、神のラッパが鳴り渡ります。その時天に挙げられるのは、aキリストにあるもの、b聖霊の火を持ったもの、c神に忠実なもの、d勝ちを得る者です。
 主が迎えに来られる時、私達は勝利者として神の御前に立つ者でありたいものです。 (市原副牧師)

■ 2014年6月15日ホ群講壇交換礼拝 「神の恵みに生かされて」

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。・・・神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。(Ⅰコリント15:3-5,10-11)

 栃木三代子牧師(港復活教会)による説教

■ 2014年6月8日ペンテコステ礼拝(花の日・子どもの日礼拝) 「10日間の祈り」

「五旬祭の日が来て、一同が一つとなって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ…すると一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉を話し出した。」(使徒2:1-4)

 五旬節ペンテコステとはギリシャ語で第50の意味です。過ぎ越しの安息日の次の日から数えて50日目で七週の祭りとも言われる小麦の収穫祭です。イエス様が復活後40日目に昇天されてから10日後になります。ご昇天の時の約束を信じて、弟子たちを中心に120名の人々がエルサレムの2階座敷(アパ・ルーム)に集まって祈っていました。そこへ聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされて伝道したのです。 (清水名誉牧師)

■ 2014年6月1日礼拝(四重の福音強調月間・新生) 「新たに生まれる」

「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」 (ヨハネ3:3)

 ホーリネス信仰が掲げる「四重の福音」の「新生」についてお話しします。コリントⅡ5:17に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」とあります。
 ホーリネス信仰は、「聖霊体験」が重んじられてきました。「あの時、私は神様によって変えられた」という、転機を大切にしました。その第1の転機が「新生」です。生まれたばかりの幼子の、なんと多くの愛を受けている事でしょう。「新たに生まれる」恵み、それは神の懐に抱かれる人生の転機なのです。 (深谷牧師)

■ 2014年5月25日礼拝 「心の中に刻まれて」

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:29)

 聖書には、神様の愛と義が書かれています。しかし同時に、世の罪についても鋭く語られています。「自分は美しい」「自分は正しく賢い」そのような自任、自賛の背後には、誰かと比べて「あの人のようではない」という冷たい物差しがあります。神様と自分との距離も、この物差しで測ろうとするとき、大きな間違いを犯していることを知れ、とパウロは語ります。神様の愛は、その物差しを捨てた時、心の奥に与えられるのです。 (深谷牧師)

■ 2014年5月18日礼拝 「キリストの流血」

「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(Ⅰペテロ2:21)

 5月と6月の二回に分けて「キリストの流血」について学びたいと願っています。今回は主イエスの死は 1.苦痛の死であった。2.無罪の死であった。3.無抵抗の死であった。ということについて学びます。
 主イエスが、もし、自らしようと思われたら、逆に手を下そうとした者を亡ぼすことは可能でした。しかし、主イエスは、無抵抗・無防禦むぼうぎょの死を遂げられたのです。 (市原副牧師)

■ 2014年5月11日母の日礼拝 「母の日によせて」

「あなたの父母を敬え」(出20:12)
「その母によろしく。彼女はわたしたちにとっても母なのです。」(ローマ16:13)

 今日「母の日」として守られるのは、1908年米国ウェストヴァージニア州のウェブスタ―教会で行われた一人の婦人の記念会に始まります。その人の名はジャ―ヴィスさんで3年前に召され記念会が行われたところ、娘のアンナさんが一束のカーネーションを贈って参列者に大きな感動を与えたのでした。地区の教会では5月第2日曜日を「母の日」と定め、やがて国の祝日へと発展しました。
 さて、本日は大伝道者パウロが「わたしの母」と敬愛した婦人を紹介します。 (清水名誉牧師)

■ 2014年5月4日礼拝 「聞くだけで終わらず」

「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」 (ローマ2:13)

 「その人の本当の姿は、その口ではなく、その手にある」と、聞いたことがあります。節くれ立った手は、お世辞にも美しいとは言えませんが、きれい事を並べた言葉より、はるかに優しく、また訴える力を持っています。
 ローマ書の著者・パウロは、キリストの愛に出会ってクリスチャンとなった時、彼はこの感激を全ての人に伝えるために、命をかける人になりました。パウロの言葉の背後には、イエス様の恵みのゆえに、一途に伝道の旅を続ける、彼の姿が映し出されています。 (深谷牧師)

■ 2014年4月27日第67回定期総会礼拝 「イースターと顕現」

「キリストが……わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:3-5)

 Ⅰコリント15章は、全部がイエス様の御復活について、力を入れて教えています。主は私たちの罪を担い、陰府(よみ)まで下り、死の力を破って、復活してくださいました。
 その栄光に満ちた御姿は、律法学者等にではなく、マリアや弟子達など、この世から見ると力の無い人たちに顕されたのでした。わたしたちも自分自身の罪を告白し、主の憐憫にすがって日々を送りたいものです。 (市原副牧師)

■ 2014年4月20日イースター礼拝 「夜明けのかげ」

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」(ヨハネ21:4)

 レント(受難節)を夜に例えるなら、イースター(復活節)は、朝、それも早朝に例えられます。空が白みはじめ、山々の稜線や木々の梢のシルエットが見え始めます。主イエスを失った弟子たちにとって、この朝は落胆の一日の始まりでした。けれども、そこに一人のかげが立っておられました。空振りの漁を終えようとしていた弟子たちは、主との再会を喜ぶ朝を思いがけず与えられたのです。復活は、福音の中心です。この朝から、主の慈しみと憐れみが日々新たになる、御国を待ち望む日々が始まるのです。(深谷牧師)

■ 2014年4月13日棕梠の主日礼拝 「御名を崇めさせたまえ」

『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』(マタイ6:9)
『天にまします我らの父よ願わくはみ名を崇めさせたまえ。』(主の祈りより)

 主の祈りは、最初に天の父なる神への呼びかけに始まり、次に6つの願いがあります。前半の3つは神に属し、後半の3つは私たちに属する内容となっています。因みに十戒も前半と後半に分かれています。
 主の祈りの第1の願いは、御名が崇められるためであります。私たちの祈りが言葉や行いも含めて御名が崇められますように! (清水名誉牧師)

■ 2014年4月6日レント第5礼拝 「割れた壺から」

「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」 (マタイ26:7)

 「壺」は、「壺中」という言葉があるように、東洋では縁起の良い言葉と思われています。所が今朝の箇所では、女が石膏の壺を割り、高価なナルドの香油を主の頭に注いだ、と記されています。恐らく、彼女にとって、最高の宝物がこの香油であったことでしょう。
 壺は、いずれは割れます。しかし、愛のゆえにあえて壺を割り、その思いを伝える事もできるのです。イエス様はその思いに答えて、十字架で命をかけて下さったのです。 (深谷牧師)

■ 2014年3月30日レント第4礼拝 「見捨てない方」

「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイ26:75)

 人と人との絆が見えるのは、どんな時でしょうか。全てが順調で、お互い気持ち良い関係の時、それは見えては来ないのです。自分が裏切ってしまった時、窮地に置かれた時、誰が本当に自分を愛し、恵みを与えてくださる方であるかに気付くことができるのです。
 ペテロの涙は、自らの至らなさに、心砕かれた激しい悲しみの涙でした。しかしこの経験を通して、彼はいやされ、復活されたイエス様に、誰よりも近づいたのです。 (深谷牧師)

■ 2014年3月23日レント第3礼拝 「義の神」

「神は人を分け隔てなさいません。」(ローマ 2:11)

 「義」という言葉には、「正しさ」という意味があります。信頼できる言葉であると同時に、正誤の判断を下す厳しい言葉とも言えるでしょう。神様は「人を分け隔てなさらない」完全な義なる方であると、聖書には書いてあります。けれども一方で、「えん罪」という言葉があるように、人間の側は、完全無欠な「義」を持っていません。
 私たちの心に迷いが生じた時には、まず神の義に委ねることが、何より平和への近道なのだと思います。神様は「善人にも悪人にも雨を降らせてくださる」方なのです。 (深谷牧師)

■ 2014年3月16日レント第2礼拝 「すべての人のために死を味わわれたイエス」

「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。」 (ヘブライ2:9)

 ここに主が天使たちよりも少し低くされ給うた事が至当である事の理由が記されています。それは万民のために死を味わわれるためでした。
 キリストの死を、恒に私達の心に憶えたいものです。それは又、そこで其の偉大な不思議を行うでしょう。そして私達は、其の心の中に、死の苦難を受けることによって、栄光と栄誉とを冠せられ給えるイエスを見出すことでしょう。 (市原副牧師)

■ 2014年3月9日レント第1礼拝 「天の父なる神」

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、…』」(マタイ6:9a)

 今日から「主の祈り」についてお話します。これは、主が弟子たちに教えられた祈りです。それ故に主の祈りは、イエス様の捧げられた祈りではなく、主の弟子たちが捧げるための祈りです。即ちそれは教会の祈りなのです。その第1は「天の父」への呼びかけです。
 天地宇宙を創造された神は地上の神々と異なり、被造物をはるかに超越しておられます。その偉大な神を主は「父」と呼ぶように教えられました。はるか彼方に存在される神が急に身近なお方に感じられてまいります。 (清水名誉牧師)

■ 2014年3月2日礼拝 「ひきあげられて」

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 (マタイ7:13-14)

 人間の生きるこの世界は、放っておくと、どこまでも崩れ堕ちてゆく引力が働いています。ロマ書には、大きな口で人々を呑み込もうとする、不義の世界が書き綴られています。
 しかし、イエス様は命に通じる門が、別にあると言われました。それは愛に生きる道で、狭く、見いだす者も僅かです。赤信号をみんなと渡るのではなく、暖かい腕に繋がれて、世の旅を続けようではありませんか。 (深谷牧師)

■ 2014年2月23日創立記念月間第4礼拝 「創られた世界」

「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ロマ1:20)

 「見て見ぬふり」は、自分では気付かれていないと思っても、案外、相手や周りには、ばれてしまっているものです。神を無視することは、神様は最も厭われることを、聖書は語っています。「だって、神がいるかどうかなど、確かめられない」という声に、パウロは「この創造された世界を見なさい。ここに、永遠の力と神秘と神の美しさが十分に現されているではないか」と叫んでいます。 (深谷牧師)

■ 2014年2月16日創立記念月間第3礼拝 「ハバククの祈り」

「主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ数年のうちにも、それを示して下さい。」 (ハバクク3:2)

 ハバククは、リバイバルのために祈りました。ペンテコステの時、使徒達はリバイバルを待ち望み、そのために祈りました。リバイバルをもたらすものは大能の神への祈りです。
 神の聖栄を拝するために、「主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ数年 のうちにも、それを示して下さい。」とのハバククの祈りを捧げようではありませんか。 (市原副牧師)

■ 2014年2月9日第68回創立記念日礼拝 「主は備えて下さる」

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていたものが、独り子を献げようとしたのです。」 (ヘブライ11:17)

 愛する独り子イサクを献げよ!とは何たる恐るべき命令でしょうか。しかし、アブラハムは「神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になる」と信じ(11:19)「神が備えてくださる」(創22:8)とイサクの問いに答えています。イサクの代わりに備えられた雄羊こそは、やがてすべての人の身代わりとなって十字架上に死なれた主イエスにほかなりません。神は御子をさえ惜しまず、わたしたちすべての者に賜る程に、わたしたち一人びとりを愛されているのです。 (清水名誉牧師)

■ 2014年2月2日礼拝 「福音を恥としない」

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 (ロマ1:16)

 短い2節ですが、パウロが語ろうとしている、神様の救いについて、凝縮されています。「福音」「救い」「神の力」「神の義」・・・どれも、教会ではよく聞く言葉ですが、具体的に説明することができるでしょうか?
 パウロが生涯をかけて、語り続け、喜びをもって告白したこれらの言葉は、すべて「イエス・キリスト」を証しすることでした。イエス様が示してくださった愛を発露として救いの信仰が、脈打ちはじめるのです。 (深谷牧師)

■ 2014年1月26日礼拝 「福音を伝えたい」

「神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」 (ロマ1:10)

 私たちの魂が燃やされて「今すぐしたい!」と思う時と、神様が道を開いて下さる時は、しばしば異なっています。「会いたい」「励まし合いたい」「告げ知らせたい」・・・と思いを募らせつつも、「その時」を強引にこじ開けることを、パウロは善しとしませんでした。
 ある哲学者は「期待しながら忍耐深く待つことは、霊的生活の土台である。」と語っています。神様は私たちの願いをご存じであるばかりではなく、その最善の時をもご存じなのだと信じ、感謝しつつ歩みたいものです。(深谷牧師)

■ 2014年1月19日礼拝 「イエス・キリストによる義」

「今この時代に義を示されたのは、ご自分が正しい御方(おかた)であることを明らかにし、イエス・キリストを信じるものを義となさるためです。」 (ローマ3:26)

 この「義」というのは、わたしたちの凡(すべ)ての罪を、十字架の上で処理してくださったイエス・キリストによる義です。創世記三章にあるアダムの皮袋からキリストの義に由よらなければ救われないと言うことが分かります。アダムとエバがサタンの誘惑により、罪を犯したとき、彼らはイチジクの葉で衣を作りましたが、葉衣では枯れてしまい、体を覆う事が出来なくなります。そこで神は、皮の衣を造って彼らに与えられました。
 この皮衣に象徴されるのが、「神の義」なのです。 (市原副牧師)

■ 2014年1月12日成人祝福式礼拝 「祝福の源」

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召しだされると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。‥‥
 それで死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数え切れない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」 (ヘブライ11:8,12)

 アブラハムの元の名アブラムは「高貴な父」。アブラハムは「多くの国民の父」の意。創世記12章には「祝福の源」と呼ばれている。ユダヤ教、イスラム教の始祖、キリスト教の信仰の父と言われ、世界三大宗教の源をなしている。「偉大な父」である。 (清水名誉牧師)

■ 2014年1月5日新年礼拝 「良きおとずれと共に」

「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ロマ1:7)

 あけましておめでとうございます。
 今年は、パウロが書いた手紙の中でも最晩年のものと言われ、福音(良きおとずれ)の中心が、余すところなく書き記されている、ロマ書を少しずつ読んでいきたいと思っています。イエス様が私たちに与えてくださる、喜びと平安は他と何が違うのでしょうか。
 ひと言で言ってしまうなら、それは「人間の罪からの救い」です。少しずつ、み言葉の深みを味わうことができれば幸いです。(深谷牧師)