わたしたちの言葉にならないうめきを、とりなして祈ってくださる聖霊の働きがあること、そして神のご愛による計画が、わたしたちに祝福を約束してくださっています。(深谷牧師)
(深谷牧師による説教)
「ひっそり」という言葉は、クリスマスには似合わないと思うでしょう。けれど、本当にクリスマスに最もふさわしいのは、このひっそり、という言葉ではないかと思っています。なぜなら、イエス様は、ひっそりとお生まれになり、世界の片隅で産声をあげられたからです。今年のクリスマスを、本当にふさわしい過ごし方で迎えませんか。世界の片隅に、私たちの心を向かわせませんか。 (深谷牧師)
神はイサクを捧げようとしたアブラハムの信仰を認め、人の子を捧げることを求められていないことを示されました。
その神ご自身がわたしたちの救いのために独り子を世に遣わされたのです。
(清水名誉牧師)
アドベントの季節を迎えました。今年は、どのような予定が待っているのでしょうか?家族で過ごす食事、教会で捧げるイブ礼拝、あるいは友人との楽しい約束…。神様が、その全てを恵み祝福してくださいますように。
ザカリアは沈黙が終わり、願いが実現した時に、喜びにあふれて賛美を捧げました。しかしそれは、個人的な自分たちだけの慶事に済ませず、世界を救いに導く神の御心を証しする賛美でした。クリスチャンは自らの喜びを通して、世界を祝福する役目がある人達なのです。
(深谷牧師)
本日は収穫感謝日・謝恩日。教会の暦では大晦日にあたります。世間ではこれからが年末の大忙しなシーズンですが、一足早く今年の歩みを振り返り、クリスマスの喜びを、待ち望む心備えの時を過ごしたいと思います。
「待ち望むこと」それはクリスチャンの大きな賜物です。その「うめき」は、私たちが希望を捨てていないことの証しなのです。(深谷牧師)
「アッバ、父よ」の「アッバ」とは、難しい意味ではなく、当時のパレスチナの子ども達が親しみを込めて父親を呼ぶ時の呼び方でした。わたしたちが「神の子」と呼ばれるなら、その証しは、立派な行いであるとか、何も落ち度がないとか、そういうことではないのです。幼子のように、神様に向かって「お父ちゃん!」と泣ける事、それこそ「神の子」である証しなのです。(深谷牧師)
大山孜郎兄(耳鼻咽喉科 大山医院長、洛陽教会信徒)の証しと清水名誉牧師によるショートメッセージ
当時、子供は軽んじられ、邪魔者扱いされた。しかし、主は子供を愛され、弟子たちの真ん中に立たせ『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』(マルコ9:36-39)と言われた。全日私幼のキャッチフレーズも「こどもがまんなか」である。また子供は大人たちの教師でもある。 (清水名誉牧師)
原田博充師(京都みぎわ教会 前牧師)の説教
宮沢賢治じゃありませんが、「…そういうものにわたしはなりたい」と思いますね。皆さんの人生のモデルはありますか?私たちの人生は、そこに"左右"されます。
「与えても枯れず、いつも青々している人に、私たちはなれる!」とは今朝の聖書。自己中心の罪がつきまとう人間の歴史の中で唯一、人のために命を捧げてくださったお方、イエス・キリストの影響力は、今も絶大です。ここに"直く"歩む人生を求めるなら、与えられる不思議を体験しましょう。
(山口英紀師 紀伊長島教会牧師)
近年「絆」という言葉が一般的に使われるようになりました。良い意味をもつ言葉と受け取られているようですが、本来は馬など家畜を結わいつけておく、非常に拘束力のある言葉です。誰と結ばれるか、ということが人生で大切なことです。ロマ書を通して、伝道者パウロは、「主イエス様に結ばれることこそ最高の絆である」と語っています。主の力は、罪と死の力より勝っているからです。 (深谷牧師)
イサクは「約束の子」と言われ、クリスチャンもまたそう呼ばれます。(ガラテヤ4:28)
イサクの誕生は、荒野の一面に花が咲いたような大きな喜びだったことでしょう。
(清水名誉牧師)
5タラントン(=3億円!)でさえも「少しのもの」と言い、責任をとってくださる大きな神様の姿がここにあります。
神様は私たちに、人生という大きな舞台を任されました。周りと比べたら、舞台から降りて隠れてしまいたいと思うかもしれません。けれどそれは御心ではないのです。私たちの一生懸命な姿を、親の愛に勝るまなざしで、主は「私の喜び」と喜んでくださっています。
(深谷牧師)
深谷牧師の説教
真島基実師(国際ナビゲーター主事)の説教
三人の旅人の目的は、ソドムとゴモラの町にあった。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい」ので主は視察の上滅ぼそうとされていたのである。
ソドムはアブラハムの甥ロトの住む町であった。アブラハムの必死のとりなしの祈りは6度にまで及んだが、ソドムはロトの一家を残して全滅することとなった。
(清水名誉牧師)
清水名誉牧師の説教
掟(文字による律法)は、人間にのみ神様から与えられた特別な賜物と言えるでしょう。蝶やトンボが一方通行を守っているのを見たことはありませんし、頭の良いサルでも野球の審判をすることはできません。しかし、この「決まり」によって、人間が幸せになったかというと、むしろそれは逆でした。エデンの園での違反から「守りたいのに守れない」ジレンマが人を縛るようになってしまったのです。イエス様はこのジレンマに決着をつけるため十字架で死んで下さったのです。 (深谷牧師)
水に沈むということを意味する洗礼(バプテスマ)は、古い自分に死んで、新しい命に生きる、ということを意味しています。パウロは、それを律法(行い)の支配から、キリストの霊(恵み)の自由に移されたことだと語っています。まるでそれは監視カメラのついた部屋から、新しい素晴らしいパートナーとの暮らしに移る位の違いと喜びなのです。 (深谷牧師)
戦後70年です。普段何の違いもなく同じように暮らしていても、戦争(出征、空襲、疎開、食糧難など)を経験した人たちと、そうでない人たちには「平和」という言葉の捉え方に、大きな隔たりがあるように思います。
受ける側ではなく、与える側、実現する側に立ち、生き抜いてきた人の、その口から出る「平和の祈り」には重みと深さがあります。
平和を実現する人々は、実際は痛みと忍耐の道を歩む人々です。しかし、その道こそが、主イエスの招く御国に通じる道なのです。
(深谷牧師)
ジョン・ウェスレーは「殆どキリスト者」(almost Christian)について語っている。99%だが100%ではないというところか。
アブラムの信仰はまだ未成熟なところがあった。創世記17章では、全き信仰者となることを求められ、伴う祝福が約束されている。それは、「アブラム」から「アブラハム」と改名された通り、彼は「多くの国民の父となる」との約束であった。彼の妻の「サライ」も「サラ」と改名され「諸国民の母」とされた。
サラの余分なところが差引かれ、アブラハムには足りないものが補われている。
(清水名誉牧師)
黙示録の、最良の、そして正しい名前は「イエス・キリストの黙示」であるべきです。
これはすべての主の僕たちがいつでも備えができているようになるため、わたしたちの主がすぐにも起こるべきことを僕たちに示したものですから、現在のでき事のために時宜に適した書物であります。神は、わたしたちにこれらの事柄を示すことを、キリストに与えることを許したもうたのであります。
(市原副牧師)
深谷牧師の説教
高齢のアブラムと妻サライは子を授かるのをあきらめ奴隷の子を跡継ぎにと考えていたところ、『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』と約束された。アブラムは天を仰ぎ数え切れぬ星を見上げて主を信じた。主は彼の信仰を義と認め主を信じるすべての者の「信仰の父」とされたのである。 (清水名誉牧師)
4節からの箇所は、この書簡の中で最も深遠かつ大胆なところです。「神の種」という言葉はここにしか見られません。この「神の種」とは、みことば(Ⅰペトロ1:23)であり、聖霊(ヨハネ3:5)であると言えるでしょう。
私たちは皆、肉体を持つ限り、罪との戦いは続きます。にもかかわらず、その罪を除き、苦しませる悪魔を滅ぼすために、神の御子イエス・キリストが来てくださったのだと、ヨハネは喜びにあふれて語っています。
(深谷牧師)
イエスの再臨は、テサロニケ人への手紙の中心的主題です。信徒たちは、すでに眠った人々についてはどうなるのか、という心配と不安に駆られて、パウロに質問しました。再臨には、空中再臨と地上再臨があります。
パウロは、わたしたちに再臨をいたずらに驚き、怪しむことなく、ひたすらその日を待望しつつ与えられた日々を、信仰をもって歩むようにと勧めています。わたしたちが「主の再臨」によって語られている約束を堅く信じて、日々歩みたいものです。
(市原副牧師)
来年創立70週年を迎える京都復興教会には、その前身の「京都朱雀教会」時代があります。時代が分かれているのは、朱雀教会は戦時下に解散と竹入牧師の殉教という歴史を通ったためです。現在の丸太町七本松に、当時の面影を偲ぶものは、何もありませんが、私たちのこの教会は、永遠の命という希望を恵みとして豊かに受け継いでいます。 (深谷牧師)
今日は花の日子どもの日、神様は羊のように一人一人の子供を愛されている。 (清水名誉牧師)
「新生」は、ホーリネス信仰が掲げる「四重の福音」の第1番目です。教会のホールに掲げられた『宜彼此相愛』はこの「四重の福音」提唱者、中田重治師の揮毫によるものです。
Ⅱコリント5:17には「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」とあります。あの日、あの時が、新しい自分が誕生した日である!とあかしするほど、イエス様を心に迎えた日があるでしょうか。無限の愛を感じているでしょうか。
(深谷牧師)
ペンテコステの日、世界で最初の教会が生まれました。そして最初の説教者はペトロでした。開口一番、ペトロは旧約聖書のヨエル書(3:1-5)を引用します。彼が伝えたかったのは、新しい時代の到来でした。すべての人が、神の言葉を自由に語る時代。「主(イエス)の名を呼び求める者は皆、救われる」(21節)「終末の時代」がはじまったことを大胆に語ったのです。天地が揺れ動くこの世界に、「救いはここにある!」と叫ばれています。 (深谷牧師)
ペンテコステは、教会の誕生日。この誕生秘話に欠かせないメッセージは、「うまく説明できないけれども、とにかくあの時、私たちは暖かい風と炎に揺り動かされた」という告白です。京都復興教会も、その初代の方々の何とエネルギッシュなことでしょう!次々と起こされた受洗者、土地取得、会堂建築、幼稚園の開設…その記録を読む者は、なんとも言えないパワーを感じることでしょう。
この「初めの愛」を求める祈りを、私たちも祈り続けようではありませんか!
(深谷牧師)
三枝道也牧師(前・丸の内教会主任牧師)の説教
1908年の5月、米国ウエストヴァージニア州のウエブスター教会で、一人の婦人の記念会が催されました。その人の名はジャーヴィスさんと言い、26年間教会学校の奉仕をし、3年前の1905年に召されたのでした。
そのとき生徒であった娘のアンナさんは、母の教えを思い起こしながら、母の大好きだったカーネーションの花束を贈りました。
アンナの行為は列席者に大きな感動をもたらし、それ以来、地区の教会では、毎年1回「母に感謝する日」を守りました。
これをデパートの創設者ジョン・ワナメーカーが取り上げ、全国に広め、遂に1914年の米国議会によって、5月の第2日曜を「母の日」として祝日に定められました。
(清水名誉牧師)
「パウロの言葉は、厳しすぎるから嫌い」という人がいます。確かに命令口調は気を悪くさせるかもしれません。それでも、その伝えようとしていることが、命に関わる事、喜びに繋がる叫びであるなら、それは受け容れるに価する、まぶしい光なのではないでしょうか。自分を縛る力から解き放たれて、永遠の命へと向かう道が開かれています。 (深谷牧師)
洗礼(バプテスマ)は、「沈められる、浸される」という意味があります。死ぬことは、普通語ることを避けられるものです。しかし、洗礼(バプテスマ)は言わば死を語ることなのです。しかも、キリストのゆえに恵み深い死、罪からの解放という厳粛な喜びを語るのです。パウロは、自らが受けた恵みと義の大きさを、力強く語っているのです。 (深谷牧師)
パウロはここで「『罪』に対する『恵み』」、「『死』に対する『命の賜物』」を対比して語っています。それによって、人類の置かれた状況をあらわしています。
そのどちらも「一人の人」によって世界にもたらされたと語られています。しかし、罪の遺産をもたらしたアダムに対して、徹底した従順によって神の義を全うしたキリストの恵みは、とうてい計り知ることができません。信仰は罪と死の力に打ち勝つからです。
(深谷牧師)
礼拝などで唱えられる「主の祈り」では、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」であり、現行聖書の訳とは異なる。
共同訳の前に発行された口語訳では、前半は「試み」で同じだが、後半は「悪しき者」である。どうやら今唱えている「主の祈り」はもう1つ前の文語訳によったものである。
「試み」は主の訓練の意味もあるし、「悪」は一般的に単なる悪いことと思われてしまう。原語はどちらとも訳せるようだが、やはりここでは「悪い者」として「悪魔」の存在を想定しての祈りではないかと思う。
(清水名誉牧師)
深谷牧師の説教
多くの人に今も愛されている三浦綾子さんの著書『ちいろば物語』は、主人公でもある榎本保郎先生が今朝の箇所に登場する「子ロバ」をモチーフにしています。
ゼカリヤ書9章9-10節にも、平和の王の預言が語られています。私たちは神様のご用に用いるのに相応しいのは、立派なもの、最上のもの、力強いものだと思うでしょう。でも、イエス様が、都エルサレムの凱旋に指名したのは、かわいいロバの子でした。
キリストは平和の為に、軍馬の足ではなく、ぽくぽくと、十字架にゆっくり近づく、か弱い私達の足を用いようとされています。
(深谷牧師)
詩編84編は詩編の中でも最も甘美な人生巡礼の奥義を示すヘブライ文学の最高傑作です。この詩編では「幸いなるかな!」が3回使用されます。
5節で「幸いなるかな!神の家に住む人、そこで主に賛美をする人」。
6節で「主を心の力とする人。そして心に巡礼の道がしっかりと通っている人」。
人生の幸いは、その心が、巡礼の広い道を心に確立している人、人生の最終目的が神様を礼拝することであると、定まった人であると表現されます。
13節に「幸いなるかな!主に信頼する人は」という、神様への全幅の信頼で締めくくられます。心の内に神御自身の臨在とその賛美、神御自身にお会いする礼拝の道がハイウエイのようにびしっと通っていることであると言う告白が印象的でした。
(東京聖書学校吉川教会 深谷春男牧師)
私達は救いを受けたのですから、進んで他の人々も同じように十字架に導きたいものです。しかし最近は、贖いの教理を拒むものさえある始末です。何故でしょうか。第1の理由は、世の人はこの大切な問題をわきまえず、又は誤解しているからです。次に彼らの中心に自ら犯した罪の記録が、救い主イエスの脇から流れ出る貴い御血潮によって洗い去られたと云う確実な経験がないからです。
キリスト・イエスは天の位を棄てて地上に下り給い、十字架に懸られ、罵られ、陰府にまで降り、甦って天に昇られました。
わたしたちは主の貴い御血潮の流れに身を投じ、主の良き証人として、主を指し示す者でありたいものです。
(市原副牧師)
ルカ福音書では前半の「負い目」が「罪」となっている。(原文のギリシャ語聖書も)すなわち「負い目」と「罪」は同義である。マタイ18章にペテロが「何度まで罪を赦すべきですか、7度までですか」と主に問うている。主は「7度を70倍するまで」と答えられた。ペテロとしては余程腹の立つ事があって、「今度ばかりは赦せないぞ」と思っていたのか。
少しの人の罪も赦せぬわたしたちを、主は十字架にかかり、「父よ、彼らをお赦し下さい。」と叫んでから赦して下さったのである。
(清水名誉牧師)
レント(受難節)に入りました。イースター(復活節)までのこの季節は、克己、献身、奉仕、祈りの時にあてられています。この箇所には、主イエスが悪魔の誘惑を決然と退けられた姿が鮮やかに書き記されています。
孤独な荒野での試練は、平和の器となるための神の試練であり、後には御使いの守りを受けて、愛の業に召し出されるのです。
(深谷牧師)
神はアブラハムに対して、子孫が空の星のようになり、祝福の地を受け継ぐようになると約束された。まだ彼は一坪の地も所有せず、子どもも無かった。そのため彼は苦情を申し上げている。
(1)供え物を見守る。
(2)大きな暗黒の恐怖。
(3)条約の批准。
このようにして神は、厳粛な契約を立てられることにより、御自分の僕に信仰の基礎を固められた。私達はしばしば嵐に巻き込まれるが、その嵐の中で望みと言う錨を投げ込んで下さる。それによって私達は護られ、約束されている港へと無事に到着出来るのである。
(市原副牧師)
明治の昔山科は京都府宇治郡山科村だった。後年東山区に編入され、1976年山科区となり現在人口も13万人を超えている。
戦時の弾圧で牧師が召され、教会は解散命令を受けて失われたのを、ここ山科に復興創設されたのは主の深いご計画だったのである。 一粒の麦として殉教された竹入牧師の死が豊かな実を結び、緒形牧師はじめ先人方々の祈りが聞かれてリバイバルが起こされ、100倍の実を結ぶことができるように祈ろう。
(清水名誉牧師)
祝福に満ちた「山上の変貌」という出来事の後、イエス様と弟子たちが日常の暮らしの場である町に降りてみると、そこには、相変わらずの「よこしまな時代」の姿がありました。
しかし、主イエスは言われました。「からし種一粒の信仰を持ちなさい」と。小さくても、天国に通じる種を、心にと・・。
(深谷牧師)
イエス様は、「一羽の雀さえ、天の父なる神は護り給う。まして、あなたがたには、なおさらのこと」と言われました。神の愛を受けていながらも、目の前の大小様々な事に、たやすく心曇らされ、上よりの恵みを見失ってしまいやすい弱い者です。しかし、私たちへの神の愛は、辛うじて見える一筋の糸ではなく、世界を馳せる恵みの帯なのです。 (深谷牧師)
口語訳聖書は「患難をも喜んでいる。」と訳しています。新しい年が始まり、はや半月が過ぎました。何が心に残っているでしょうか。明るいこと、嬉しいことだけでなく、痛み、失意を感じることもあったことでしょう。
聖書は「希望は失望に終らない」と約束しています。イエス様が心を支えて下さるという喜びが、今朝ありますように・・・。(深谷牧師)
ユダヤの男子は12歳で成人となり過ぎ越しの祭りに出席しなければならない。イエス様も両親と共にエルサレムに上られたのである。帰途両親はイエス様の姿を見失い大いに探した結果、神殿の庭で学者たちと語り合っているイエス様の姿を発見して驚くのである。その時お答えになったのが上掲の言葉である。この時、イエス様はすでに父なる神様との特別な関係をご存じだったわけである。成人イエス様の自己認識であった。 (清水名誉牧師)
あけましておめでとうございます。
今年も、神様の祝福が、皆様の上に豊かにありますようにお祈りいたします。
元旦から続いた大雪に、教会や幼稚園の屋根から、すべての道、駐車場、園庭、そしてセンダンやケヤキやセンペルの大木も、すべてが白銀の世界になりました。そこに羽を膨らませた小鳥たちの陰が良く映えて、映画の美しいワンシーンのようでした。からし種は、雪に埋もれてしまえば、すぐに見失ってしまう小さな一粒です。でも、そのくらいの小さな信仰が、豊かな祝福の源なのです。
(深谷牧師)