今日のみことば(2015年)
2015年の聖句「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば」(マタイ17:20)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2015年12月27日年末感謝礼拝 「万事を益とする」

「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。・・・神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」 (ロマ8:26、28)

 わたしたちの言葉にならないうめきを、とりなして祈ってくださる聖霊の働きがあること、そして神のご愛による計画が、わたしたちに祝福を約束してくださっています。(深谷牧師)

■ 2015年12月20日クリスマス礼拝 「平和の訪れ」

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」 (ルカ2:8-20)

  (深谷牧師による説教)

■ 2015年12月13日アドベントⅢ礼拝 「世界の片隅で」

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 (ルカ2:6-7)

 「ひっそり」という言葉は、クリスマスには似合わないと思うでしょう。けれど、本当にクリスマスに最もふさわしいのは、このひっそり、という言葉ではないかと思っています。なぜなら、イエス様は、ひっそりとお生まれになり、世界の片隅で産声をあげられたからです。今年のクリスマスを、本当にふさわしい過ごし方で迎えませんか。世界の片隅に、私たちの心を向かわせませんか。 (深谷牧師)

■ 2015年12月6日アドベントⅡ礼拝 「独り子を賜う神の愛」

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれるものが、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」 (ヘブライ11:17-19a)

 神はイサクを捧げようとしたアブラハムの信仰を認め、人の子を捧げることを求められていないことを示されました。
 その神ご自身がわたしたちの救いのために独り子を世に遣わされたのです。 (清水名誉牧師)

■ 2015年11月29日アドベントⅠ礼拝 「備えの心」

「父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」(ルカ1:63-64)

 アドベントの季節を迎えました。今年は、どのような予定が待っているのでしょうか?家族で過ごす食事、教会で捧げるイブ礼拝、あるいは友人との楽しい約束…。神様が、その全てを恵み祝福してくださいますように。
 ザカリアは沈黙が終わり、願いが実現した時に、喜びにあふれて賛美を捧げました。しかしそれは、個人的な自分たちだけの慶事に済ませず、世界を救いに導く神の御心を証しする賛美でした。クリスチャンは自らの喜びを通して、世界を祝福する役目がある人達なのです。 (深谷牧師)

■ 2015年11月22日収穫感謝・謝恩日礼拝 「実りを待ち望め」

「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:23-24)

 本日は収穫感謝日・謝恩日。教会の暦では大晦日にあたります。世間ではこれからが年末の大忙しなシーズンですが、一足早く今年の歩みを振り返り、クリスマスの喜びを、待ち望む心備えの時を過ごしたいと思います。
 「待ち望むこと」それはクリスチャンの大きな賜物です。その「うめき」は、私たちが希望を捨てていないことの証しなのです。(深谷牧師)

■ 2015年11月15日礼拝 「神の子どもとされて」

「神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ8:14-15)

 「アッバ、父よ」の「アッバ」とは、難しい意味ではなく、当時のパレスチナの子ども達が親しみを込めて父親を呼ぶ時の呼び方でした。わたしたちが「神の子」と呼ばれるなら、その証しは、立派な行いであるとか、何も落ち度がないとか、そういうことではないのです。幼子のように、神様に向かって「お父ちゃん!」と泣ける事、それこそ「神の子」である証しなのです。(深谷牧師)

■ 2015年11月8日障がい者と共に在る主日礼拝 「聴覚障がい児と共に歩んで」

「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。…それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:18-22,26)

 大山孜郎兄(耳鼻咽喉科 大山医院長、洛陽教会信徒)の証しと清水名誉牧師によるショートメッセージ

■ 2015年11月1日幼児祝福礼拝 「子供を愛されるイエスさま」

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである。』」 (マタイ19:13-14)

 当時、子供は軽んじられ、邪魔者扱いされた。しかし、主は子供を愛され、弟子たちの真ん中に立たせ『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』(マルコ9:36-39)と言われた。全日私幼のキャッチフレーズも「こどもがまんなか」である。また子供は大人たちの教師でもある。 (清水名誉牧師)

■ 2015年10月25日秋の特別伝道礼拝(2)礼拝 「二人の放蕩息子」

「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15:17-20)

 原田博充師(京都みぎわ教会 前牧師)の説教

■ 2015年10月18日秋の特別伝道礼拝(1)礼拝(ホーリネスの群講壇交換) 「水路のそばは命いっぱい」

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1:3)

 宮沢賢治じゃありませんが、「…そういうものにわたしはなりたい」と思いますね。皆さんの人生のモデルはありますか?私たちの人生は、そこに"左右"されます。
 「与えても枯れず、いつも青々している人に、私たちはなれる!」とは今朝の聖書。自己中心の罪がつきまとう人間の歴史の中で唯一、人のために命を捧げてくださったお方、イエス・キリストの影響力は、今も絶大です。ここに"直く"歩む人生を求めるなら、与えられる不思議を体験しましょう。 (山口英紀師 紀伊長島教会牧師)

■ 2015年10月11日礼拝 「キリストに結ばれて」

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

 近年「絆」という言葉が一般的に使われるようになりました。良い意味をもつ言葉と受け取られているようですが、本来は馬など家畜を結わいつけておく、非常に拘束力のある言葉です。誰と結ばれるか、ということが人生で大切なことです。ロマ書を通して、伝道者パウロは、「主イエス様に結ばれることこそ最高の絆である」と語っています。主の力は、罪と死の力より勝っているからです。 (深谷牧師)

■ 2015年10月4日世界聖餐日礼拝(祈りの友礼拝) 「イサクの誕生」

「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を生んだ。…アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け…息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。サラは言った。
『神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。』」(創世記21:1~3、5~6)

 イサクは「約束の子」と言われ、クリスチャンもまたそう呼ばれます。(ガラテヤ4:28)
 イサクの誕生は、荒野の一面に花が咲いたような大きな喜びだったことでしょう。 (清水名誉牧師)

■ 2015年9月27日祈りの友礼拝 「あなたは私の喜び」

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:21)

 5タラントン(=3億円!)でさえも「少しのもの」と言い、責任をとってくださる大きな神様の姿がここにあります。
 神様は私たちに、人生という大きな舞台を任されました。周りと比べたら、舞台から降りて隠れてしまいたいと思うかもしれません。けれどそれは御心ではないのです。私たちの一生懸命な姿を、親の愛に勝るまなざしで、主は「私の喜び」と喜んでくださっています。 (深谷牧師)

■ 2015年9月20日合同記念礼拝 「一粒の麦が死んで」

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 (ヨハネ12:24~26)

  深谷牧師の説教

■ 2015年9月13日献堂8周年記念礼拝 「神様に導かれるとは」~神の備えた出会い~

「主人アブラハムの神、主よ。どうか今日わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁として、お決めになったものとさせてください。 このことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」 (創世記 24:12~14 )

  真島基実師(国際ナビゲーター主事)の説教

■ 2015年9月6日祈りの友礼拝 「アブラハムのとりなし」

「アブラハムは進み出て行った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。』」(創世記18:23-24)

 三人の旅人の目的は、ソドムとゴモラの町にあった。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい」ので主は視察の上滅ぼそうとされていたのである。
 ソドムはアブラハムの甥ロトの住む町であった。アブラハムの必死のとりなしの祈りは6度にまで及んだが、ソドムはロトの一家を残して全滅することとなった。 (清水名誉牧師)

■ 2015年8月30日礼拝 「客人の来訪」

「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」(創世記18:3~5)

  清水名誉牧師の説教

■ 2015年8月23日礼拝 「罪に欺かれて」

「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(ロマ7:11)

 掟(文字による律法)は、人間にのみ神様から与えられた特別な賜物と言えるでしょう。蝶やトンボが一方通行を守っているのを見たことはありませんし、頭の良いサルでも野球の審判をすることはできません。しかし、この「決まり」によって、人間が幸せになったかというと、むしろそれは逆でした。エデンの園での違反から「守りたいのに守れない」ジレンマが人を縛るようになってしまったのです。イエス様はこのジレンマに決着をつけるため十字架で死んで下さったのです。 (深谷牧師)

■ 2015年8月16日礼拝 「新しい生き方」

「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」 (ローマ7:6)

 水に沈むということを意味する洗礼(バプテスマ)は、古い自分に死んで、新しい命に生きる、ということを意味しています。パウロは、それを律法(行い)の支配から、キリストの霊(恵み)の自由に移されたことだと語っています。まるでそれは監視カメラのついた部屋から、新しい素晴らしいパートナーとの暮らしに移る位の違いと喜びなのです。 (深谷牧師)

■ 2015年8月9日祈りの友礼拝 「平和をつくる人」

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」 (マタイ5:9)

 戦後70年です。普段何の違いもなく同じように暮らしていても、戦争(出征、空襲、疎開、食糧難など)を経験した人たちと、そうでない人たちには「平和」という言葉の捉え方に、大きな隔たりがあるように思います。
 受ける側ではなく、与える側、実現する側に立ち、生き抜いてきた人の、その口から出る「平和の祈り」には重みと深さがあります。
 平和を実現する人々は、実際は痛みと忍耐の道を歩む人々です。しかし、その道こそが、主イエスの招く御国に通じる道なのです。 (深谷牧師)

■ 2015年8月2日礼拝 「全き者となりなさい」

『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』 (創世記17:1b)

 ジョン・ウェスレーは「殆どキリスト者」(almost Christian)について語っている。99%だが100%ではないというところか。 アブラムの信仰はまだ未成熟なところがあった。創世記17章では、全き信仰者となることを求められ、伴う祝福が約束されている。それは、「アブラム」から「アブラハム」と改名された通り、彼は「多くの国民の父となる」との約束であった。彼の妻の「サライ」も「サラ」と改名され「諸国民の母」とされた。
 サラの余分なところが差引かれ、アブラハムには足りないものが補われている。 (清水名誉牧師)

■ 2015年7月26日礼拝 「ヨハネの見た事」

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そしてキリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。…時が迫っているからである。」(黙示録1:1、3)

 黙示録の、最良の、そして正しい名前は「イエス・キリストの黙示」であるべきです。
 これはすべての主の僕たちがいつでも備えができているようになるため、わたしたちの主がすぐにも起こるべきことを僕たちに示したものですから、現在のでき事のために時宜に適した書物であります。神は、わたしたちにこれらの事柄を示すことを、キリストに与えることを許したもうたのであります。 (市原副牧師)

■ 2015年7月19日CS合同礼拝 「みことばの力」

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:9)

 深谷牧師の説教

■ 2015年7月12日祈りの友礼拝 「信仰義認」

「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6)

 高齢のアブラムと妻サライは子を授かるのをあきらめ奴隷の子を跡継ぎにと考えていたところ、『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』と約束された。アブラムは天を仰ぎ数え切れぬ星を見上げて主を信じた。主は彼の信仰を義と認め主を信じるすべての者の「信仰の父」とされたのである。 (清水名誉牧師)

■ 2015年7月5日礼拝 「神の種」

「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。」(Ⅰヨハネ3:8-9)

 4節からの箇所は、この書簡の中で最も深遠かつ大胆なところです。「神の種」という言葉はここにしか見られません。この「神の種」とは、みことば(Ⅰペトロ1:23)であり、聖霊(ヨハネ3:5)であると言えるでしょう。
 私たちは皆、肉体を持つ限り、罪との戦いは続きます。にもかかわらず、その罪を除き、苦しませる悪魔を滅ぼすために、神の御子イエス・キリストが来てくださったのだと、ヨハネは喜びにあふれて語っています。 (深谷牧師)

■ 2015年6月28日礼拝(四重の福音/再臨) 「キリストの再臨」

「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」 (Ⅰテサロニケ4:16)

 イエスの再臨は、テサロニケ人への手紙の中心的主題です。信徒たちは、すでに眠った人々についてはどうなるのか、という心配と不安に駆られて、パウロに質問しました。再臨には、空中再臨と地上再臨があります。
 パウロは、わたしたちに再臨をいたずらに驚き、怪しむことなく、ひたすらその日を待望しつつ与えられた日々を、信仰をもって歩むようにと勧めています。わたしたちが「主の再臨」によって語られている約束を堅く信じて、日々歩みたいものです。 (市原副牧師)

■ 2015年6月21日弾圧記念礼拝 「一粒の麦が死んで」

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 (ヨハネ12:24-25)

 来年創立70週年を迎える京都復興教会には、その前身の「京都朱雀教会」時代があります。時代が分かれているのは、朱雀教会は戦時下に解散と竹入牧師の殉教という歴史を通ったためです。現在の丸太町七本松に、当時の面影を偲ぶものは、何もありませんが、私たちのこの教会は、永遠の命という希望を恵みとして豊かに受け継いでいます。 (深谷牧師)

■ 2015年6月14日花の日・子どもの日礼拝(四重の福音強調月間・聖化) 「見失った羊」

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んで羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、"見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください"と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (ルカ15:4-7)

 今日は花の日子どもの日、神様は羊のように一人一人の子供を愛されている。 (清水名誉牧師)

■ 2015年6月7日礼拝(四重の福音/新生) 「新生の恵み」

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(Ⅰヨハネ4:7)

 「新生」は、ホーリネス信仰が掲げる「四重の福音」の第1番目です。教会のホールに掲げられた『宜彼此相愛』はこの「四重の福音」提唱者、中田重治師の揮毫によるものです。
 Ⅱコリント5:17には「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」とあります。あの日、あの時が、新しい自分が誕生した日である!とあかしするほど、イエス様を心に迎えた日があるでしょうか。無限の愛を感じているでしょうか。 (深谷牧師)

■ 2015年5月31日礼拝 「育つ伝道の言葉」

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)

 ペンテコステの日、世界で最初の教会が生まれました。そして最初の説教者はペトロでした。開口一番、ペトロは旧約聖書のヨエル書(3:1-5)を引用します。彼が伝えたかったのは、新しい時代の到来でした。すべての人が、神の言葉を自由に語る時代。「主(イエス)の名を呼び求める者は皆、救われる」(21節)「終末の時代」がはじまったことを大胆に語ったのです。天地が揺れ動くこの世界に、「救いはここにある!」と叫ばれています。 (深谷牧師)

■ 2015年5月24日ペンテコステ礼拝 「はじまりの熱い思い」

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」(使徒2:2)

 ペンテコステは、教会の誕生日。この誕生秘話に欠かせないメッセージは、「うまく説明できないけれども、とにかくあの時、私たちは暖かい風と炎に揺り動かされた」という告白です。京都復興教会も、その初代の方々の何とエネルギッシュなことでしょう!次々と起こされた受洗者、土地取得、会堂建築、幼稚園の開設…その記録を読む者は、なんとも言えないパワーを感じることでしょう。
 この「初めの愛」を求める祈りを、私たちも祈り続けようではありませんか! (深谷牧師)

■ 2015年5月17日ペンテコステ特別礼拝 「さわやかな水色の人生」

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。』」(ルカ2:28-34)

  三枝道也牧師(前・丸の内教会主任牧師)の説教

■ 2015年5月10日母の日礼拝 「母の日によせて」

《母の日の由来》

 1908年の5月、米国ウエストヴァージニア州のウエブスター教会で、一人の婦人の記念会が催されました。その人の名はジャーヴィスさんと言い、26年間教会学校の奉仕をし、3年前の1905年に召されたのでした。
 そのとき生徒であった娘のアンナさんは、母の教えを思い起こしながら、母の大好きだったカーネーションの花束を贈りました。
 アンナの行為は列席者に大きな感動をもたらし、それ以来、地区の教会では、毎年1回「母に感謝する日」を守りました。
 これをデパートの創設者ジョン・ワナメーカーが取り上げ、全国に広め、遂に1914年の米国議会によって、5月の第2日曜を「母の日」として祝日に定められました。 (清水名誉牧師)

■ 2015年5月3日礼拝 「永遠の命という賜物」

「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ロマ6:22-23)

 「パウロの言葉は、厳しすぎるから嫌い」という人がいます。確かに命令口調は気を悪くさせるかもしれません。それでも、その伝えようとしていることが、命に関わる事、喜びに繋がる叫びであるなら、それは受け容れるに価する、まぶしい光なのではないでしょうか。自分を縛る力から解き放たれて、永遠の命へと向かう道が開かれています。 (深谷牧師)

■ 2015年4月26日第68回教会定期総会礼拝 「新しい命に」

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」 (ロマ6:4)

 洗礼(バプテスマ)は、「沈められる、浸される」という意味があります。死ぬことは、普通語ることを避けられるものです。しかし、洗礼(バプテスマ)は言わば死を語ることなのです。しかも、キリストのゆえに恵み深い死、罪からの解放という厳粛な喜びを語るのです。パウロは、自らが受けた恵みと義の大きさを、力強く語っているのです。 (深谷牧師)

■ 2015年4月19日礼拝 「主一人を通して」

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ロマ5:21)

 パウロはここで「『罪』に対する『恵み』」、「『死』に対する『命の賜物』」を対比して語っています。それによって、人類の置かれた状況をあらわしています。
 そのどちらも「一人の人」によって世界にもたらされたと語られています。しかし、罪の遺産をもたらしたアダムに対して、徹底した従順によって神の義を全うしたキリストの恵みは、とうてい計り知ることができません。信仰は罪と死の力に打ち勝つからです。 (深谷牧師)

■ 2015年4月12日祈りの友礼拝 「誘惑に遭わせず」

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13)

 礼拝などで唱えられる「主の祈り」では、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」であり、現行聖書の訳とは異なる。
 共同訳の前に発行された口語訳では、前半は「試み」で同じだが、後半は「悪しき者」である。どうやら今唱えている「主の祈り」はもう1つ前の文語訳によったものである。
 「試み」は主の訓練の意味もあるし、「悪」は一般的に単なる悪いことと思われてしまう。原語はどちらとも訳せるようだが、やはりここでは「悪い者」として「悪魔」の存在を想定しての祈りではないかと思う。 (清水名誉牧師)

■ 2015年4月5日イースター礼拝 「御使いの言葉」

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」 (マタイ28:1-8)

 深谷牧師の説教

■ 2015年3月29日棕梠の主日礼拝 「子ロバに乗った王」

「主がお入り用なのです。」(マルコ11:3)

 多くの人に今も愛されている三浦綾子さんの著書『ちいろば物語』は、主人公でもある榎本保郎先生が今朝の箇所に登場する「子ロバ」をモチーフにしています。
 ゼカリヤ書9章9-10節にも、平和の王の預言が語られています。私たちは神様のご用に用いるのに相応しいのは、立派なもの、最上のもの、力強いものだと思うでしょう。でも、イエス様が、都エルサレムの凱旋に指名したのは、かわいいロバの子でした。
 キリストは平和の為に、軍馬の足ではなく、ぽくぽくと、十字架にゆっくり近づく、か弱い私達の足を用いようとされています。 (深谷牧師)

■ 2015年3月22日春の特別礼拝 「嘆きの谷を通る時にも」

「幸いなるかな!」(詩編84:5,6,13)

詩編84編は詩編の中でも最も甘美な人生巡礼の奥義を示すヘブライ文学の最高傑作です。この詩編では「幸いなるかな!」が3回使用されます。
5節で「幸いなるかな!神の家に住む人、そこで主に賛美をする人」。
6節で「主を心の力とする人。そして心に巡礼の道がしっかりと通っている人」。
人生の幸いは、その心が、巡礼の広い道を心に確立している人、人生の最終目的が神様を礼拝することであると、定まった人であると表現されます。
13節に「幸いなるかな!主に信頼する人は」という、神様への全幅の信頼で締めくくられます。心の内に神御自身の臨在とその賛美、神御自身にお会いする礼拝の道がハイウエイのようにびしっと通っていることであると言う告白が印象的でした。 (東京聖書学校吉川教会 深谷春男牧師)

■ 2015年3月15日レント第4礼拝 「仔羊の御血」

「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネ1:7)

 私達は救いを受けたのですから、進んで他の人々も同じように十字架に導きたいものです。しかし最近は、贖いの教理を拒むものさえある始末です。何故でしょうか。第1の理由は、世の人はこの大切な問題をわきまえず、又は誤解しているからです。次に彼らの中心に自ら犯した罪の記録が、救い主イエスの脇から流れ出る貴い御血潮によって洗い去られたと云う確実な経験がないからです。
 キリスト・イエスは天の位を棄てて地上に下り給い、十字架に懸られ、罵られ、陰府にまで降り、甦って天に昇られました。
 わたしたちは主の貴い御血潮の流れに身を投じ、主の良き証人として、主を指し示す者でありたいものです。 (市原副牧師)

■ 2015年3月8日レント第3礼拝 「赦しの福音」

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」 (マタイ6:12)

 ルカ福音書では前半の「負い目」が「罪」となっている。(原文のギリシャ語聖書も)すなわち「負い目」と「罪」は同義である。マタイ18章にペテロが「何度まで罪を赦すべきですか、7度までですか」と主に問うている。主は「7度を70倍するまで」と答えられた。ペテロとしては余程腹の立つ事があって、「今度ばかりは赦せないぞ」と思っていたのか。
 少しの人の罪も赦せぬわたしたちを、主は十字架にかかり、「父よ、彼らをお赦し下さい。」と叫んでから赦して下さったのである。 (清水名誉牧師)

■ 2015年3月1日レント第2礼拝 「荒れ野の誘惑」

「イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」 (マタイ4:10-11)

 レント(受難節)に入りました。イースター(復活節)までのこの季節は、克己、献身、奉仕、祈りの時にあてられています。この箇所には、主イエスが悪魔の誘惑を決然と退けられた姿が鮮やかに書き記されています。
 孤独な荒野での試練は、平和の器となるための神の試練であり、後には御使いの守りを受けて、愛の業に召し出されるのです。 (深谷牧師)

■ 2015年2月22日創立記念特別礼拝(レント第1) 「主に信頼する:賢い生き方とは」

「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し平和が与えられるであろう。慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になりあなたの骨は潤されるであろう。それぞれの収穫物の初物をささげ豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように主は愛する者を懲らしめられる。」(箴言3:1-12)

 デイビッド・オルフォード師の説教

■ 2015年2月15日創立記念月間第3礼拝 「神を俟(ま)ち望む」

「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。」(創世記 15:17-18)

 神はアブラハムに対して、子孫が空の星のようになり、祝福の地を受け継ぐようになると約束された。まだ彼は一坪の地も所有せず、子どもも無かった。そのため彼は苦情を申し上げている。
 (1)供え物を見守る。
 (2)大きな暗黒の恐怖。
 (3)条約の批准。
 このようにして神は、厳粛な契約を立てられることにより、御自分の僕に信仰の基礎を固められた。私達はしばしば嵐に巻き込まれるが、その嵐の中で望みと言う錨を投げ込んで下さる。それによって私達は護られ、約束されている港へと無事に到着出来るのである。 (市原副牧師)

■ 2015年2月8日第69回創立記念日礼拝 「百倍の実を結ぶ」

「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。」 (マルコ 4:8)

 明治の昔山科は京都府宇治郡山科村だった。後年東山区に編入され、1976年山科区となり現在人口も13万人を超えている。
 戦時の弾圧で牧師が召され、教会は解散命令を受けて失われたのを、ここ山科に復興創設されたのは主の深いご計画だったのである。 一粒の麦として殉教された竹入牧師の死が豊かな実を結び、緒形牧師はじめ先人方々の祈りが聞かれてリバイバルが起こされ、100倍の実を結ぶことができるように祈ろう。 (清水名誉牧師)

■ 2015年2月1日創立記念月間第1礼拝 「天国からの種」

「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:20)

 祝福に満ちた「山上の変貌」という出来事の後、イエス様と弟子たちが日常の暮らしの場である町に降りてみると、そこには、相変わらずの「よこしまな時代」の姿がありました。
 しかし、主イエスは言われました。「からし種一粒の信仰を持ちなさい」と。小さくても、天国に通じる種を、心にと・・。 (深谷牧師)

■ 2015年1月25日礼拝 「神との和解」

「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。・・・和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」 (ロマ5:9-10)

 イエス様は、「一羽の雀さえ、天の父なる神は護り給う。まして、あなたがたには、なおさらのこと」と言われました。神の愛を受けていながらも、目の前の大小様々な事に、たやすく心曇らされ、上よりの恵みを見失ってしまいやすい弱い者です。しかし、私たちへの神の愛は、辛うじて見える一筋の糸ではなく、世界を馳せる恵みの帯なのです。 (深谷牧師)

■ 2015年1月18日礼拝 「失望に終わらない」

「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」 (ロマ5:3-4a(口語訳))

 口語訳聖書は「患難をも喜んでいる。」と訳しています。新しい年が始まり、はや半月が過ぎました。何が心に残っているでしょうか。明るいこと、嬉しいことだけでなく、痛み、失意を感じることもあったことでしょう。
 聖書は「希望は失望に終らない」と約束しています。イエス様が心を支えて下さるという喜びが、今朝ありますように・・・。(深谷牧師)

■ 2015年1月11日成人祝福式礼拝 「成人のイエス様」

「イエスは言われた。『どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」 (ルカ2:49)

 ユダヤの男子は12歳で成人となり過ぎ越しの祭りに出席しなければならない。イエス様も両親と共にエルサレムに上られたのである。帰途両親はイエス様の姿を見失い大いに探した結果、神殿の庭で学者たちと語り合っているイエス様の姿を発見して驚くのである。その時お答えになったのが上掲の言葉である。この時、イエス様はすでに父なる神様との特別な関係をご存じだったわけである。成人イエス様の自己認識であった。 (清水名誉牧師)

■ 2015年1月4日新年礼拝 「一粒の信仰」

「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば」(マタイ17:20)

 あけましておめでとうございます。
 今年も、神様の祝福が、皆様の上に豊かにありますようにお祈りいたします。
 元旦から続いた大雪に、教会や幼稚園の屋根から、すべての道、駐車場、園庭、そしてセンダンやケヤキやセンペルの大木も、すべてが白銀の世界になりました。そこに羽を膨らませた小鳥たちの陰が良く映えて、映画の美しいワンシーンのようでした。からし種は、雪に埋もれてしまえば、すぐに見失ってしまう小さな一粒です。でも、そのくらいの小さな信仰が、豊かな祝福の源なのです。 (深谷牧師)