深谷牧師の説教
急いでプレゼントを買いに行ったのに、すべて完売していたら、がっかりですね。・・・二千年前、やっとの思いで宿を探すマリヤとヨセフに、ただのひと間さえ、なかったことは、なんとみじめで辛かったことでしょう。しかしそんな夜に、イエス・キリストは慰めの子としてお生まれになりました。
クリスマス、何もなくても良いのです。焦りや疲れ、孤独な気持ちの馬小屋のただ中に、温かい産声が響いたのですから。
(深谷牧師)
聖画の定石に、赤ちゃんイエス様を抱くマリアと、その傍らに立つヨセフ像があります。ヨセフの描写は多様で興味深いところです。
思い返してみるときに、クリスマスの出来事の中で、最も闇を感じたのはヨセフだったかもしれません。身に覚えのない赤ちゃんを産んだマリアとそれを喜び祝う人々、すべてを静かに迎え入れたヨセフの姿があります。
光が暗闇の中に輝いている。ヨセフは、この真理を、私たちが思う以上に深く実感したことでしょう。聖霊の働きを信じて…。
(深谷牧師)
ヨセフと再会した兄たちは恐れをなした。しかし、上掲のヨセフの言葉は、すべてが神のご計画と摂理であったと述べています。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」 (第1ヨハネ4:9)
(清水名誉牧師)
アドベント(降誕節)を迎えました。今年はヨハネによる福音書から、クリスマスを覚えたいと思います。ヨハネによる福音書には、具体的な降誕の描写はありません。そのかわりに印象的なのは「世の光」という言葉です。暗闇が覆う世界を、真実の愛と、永遠の命で新しく照らす夜明けの光、それがヨハネが語ろうとするクリスマスです。この出来事は、何の前触れもなく突然起こったのではなく、深い神様のご計画の中で実現しました。(深谷牧師)
今年も収穫感謝日を迎えました。教会暦では1年最後の主日礼拝です。「エッサイの根」のエッサイとは、古代イスラエルの王、ダビデの父親の名前です。イエス・キリストがダビデの子孫であったことから、神が人類の悠久の歴史の初めから、確かなご計画を持っておられることを顕しています。大きな枝を拡げた「エッサイの木」の梢に、今の時代を生きる、私たちの賛美が響いているのです。(深谷牧師)
止揚学園を訪ねた方々が、その明るさと清潔さに大変感動した、と報告をされました。それは、職員の方々の「弱さを担う」姿勢が生みだした結果だと思うのです。私たちが、強くのない者の弱さを信仰によって担おうとする時、血に染まったキリストの十字架が、「慰めの源」となって心を照らします。(深谷牧師)
古代エジプト王ファラオはヘブライ人の勢力拡大を恐れて虐待。生れた男子殺害を命じた。しかし、神を畏れる母は三ヶ月わが子を隠した上、葦の籠に入れてナイルの河畔に浮かべた。そこへ水浴に来た王女に発見され、王子として育てられたのである。その人の名は「モーセ」(引き出す)。やがて、苦役に悩むイスラエルを救い出す人となる。(清水名誉牧師)
「子を産めば『親になる』。しかし『親となる』のは難しい」という一文が、ある紙面で紹介されていました。この二面性をパウロも繰り返し述べています。すなわち、「クリスチャンは『聖徒だ』。しかし『聖徒となってゆく』ことを追い求めなさい」と。
「平和に役立つ理想」と聞くと、自分の生活から遠い事のように思うかもしれません。けれど、それは私たちの日常の生活の中に、神様が求めておられることなのです(深谷牧師)
無理をしてがむしゃらに頑張っている時、もしかしたら、神様に委ねる、という生き方から少しずれてしまっているかもしれません。
高速道路で、自殺したい人に道連れにされそうになり、死にかけ、11箇所もの手術、後遺症を抱える身になった私も、ひたすら頑張ってボロボロになりました。しかし同時期に、大試練にあった甥の、信仰に満ちた、全てを主に委ねて感謝して生きる姿に大きな驚きと励ましを受け、今は、今日この一瞬を感謝して生きられるように神様が助けて下さっています。
神様に全てを委ねて感謝する時、そこに、自分自身ではなく、ただご聖霊様の御力によって、イエス様ご自身の光が放たれます。神様の光の中に輝く甥のように、どんな事があっても、神様のアガペーの愛をしっかりと受け止めて生きたいと祈ってやみません。 栄光在主
(クスマン典子師 ホーリネスの群70周年記念縦断伝道 特別講師)
守部喜雅氏のメッセージ(クリスチャン新聞編集顧問、元「百万人の福音」編集長)
ある人は、祈りには二種類あると語る。請求書の祈りと領収書の祈りである。請求書の祈りとは、神にあれこれ自らの願いを祈り、これが叶えられないならば、時には神などいない、神に何の力があろうかと嘆く、そうしたことを暗に前提する祈りである。領収書の祈りとは、神から与えられたものを見つめこれに感謝する祈りである。
さて、今日の箇所でのパウロは領収書の祈りを捧げている。しかもそれは、未だ与えられていない恵みに対する領収の感謝であり、それ故にパウロは神を賛美する。
そんな祈りはどのようにして可能となるのだろうか。(高田太 同志社教会副牧師)
ヨセフは兄弟に売られてエジプトの奴隷となり、さらに侍従長の妻の虚言によって投獄されるに至った。この人生のどん底の中でも、主はヨセフと共におられたのである。(清水名誉牧師)
ロマ書14章は、クリスチャン同士の交わり、つまり教会の交わりについてパウロが述べているところです。そしてそれは、「違いのあるお互いを受け入れなさい。自分自身は確信を持って行動しなさい」と勧められています。具体的には、ローマの教会に禁欲主義者と自由主義者が対立していたのでしょう。前者は後者を裁き、後者は前者を軽蔑していました。違いをつつきあうのではなく、一致した目標を、確かめることが大切なことです。(深谷牧師)
深谷牧師の説教
迷い出た一匹の羊は、決して要らない存在ではなかった。主イエスは「これらの小さい者を軽んじないように気をつけなさい」(マタイ18:10)と言われた。それは決してかわいそうだからではない。そこに行くと「天の父の御顔を仰いでいる」(11節)天使に会えるからだ。
人生で、思い通りに行かないこと、時には呪われたような出来事に出会う。こんなことは要らないと思われることに「気をつけましょう」そこでこそ神さまに出会えるから。(榎本栄次師・関西セミナーハウス所長、前世光教会牧師)
父ヤコブがヨセフを愛したのは、年寄り子であったのと、最愛の妻ラケルの産んだ子であったからかも知れない。父の偏愛は十人の兄たちの妬みとなりました。その上にヨセフの見た二つの夢が兄たちの憎しみを増大させました。ヨセフ物語の始まりです。(清水名誉牧師)
藤井圭子先生(日本キリスト伝道会エバンジェリスト)のメッセージ
兄エサウとの再会と和解を果たしたヤコブであったが、エサウの招きには応じないで、一行はシケムに向かった。そこにはヤコブがかつてエサウの手を逃れての旅の途中、主なる神に出会った記念の場所である。ベテルは「神の家」と呼ばれた。(清水名誉牧師)
上掲の聖句は、後の教会全体に偉大な影響を与えた、教父アウグスティヌスが、信仰に立ち返るきっかけになったみことばとして、有名です。母モニカの祈りにも関わらず、当代随一の都市カルタゴにて、出会った女性との間に子供をもうけ、優秀でありながらも信仰の道を外れてしまった若い教師が、長い苦悩の末に、ついに再び、新しい魂の目覚めを受けた朝に与えられた、神の招きでした。 (深谷牧師)
私の平和への目覚めは、小学6年の時、ユネスコ憲章前文の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉に出逢ったことから始まる。日本国憲法前文と九条は、世界に拡げるべき普遍的な真理であり、イザヤ書2:4、マタイ26:52を世界で初めて現実国家の実定法に明文化したものである。日本の目指すべき道はこの精神に沿って「良心的参戦拒否国家」となることである。しかし、残念ながら、今の日本は、その逆の道を歩みつつある。
憂いつつ、悔い改めの必要を思う。
(原田博充師(京都みぎわ教会前牧師))
「隣人を愛しなさい」という命令は、レビ記19:18に記されていて、幼児でも分かる、最も初歩の教えと言えるでしょう。しかし実際のところ、この教えほど難しい永遠の課題はないということを、私たちは知っています。
ユダヤ人は「隣人」とは同国人のことだと理解しました。しかしイエス様は「すべての人」つまり「他人」が隣人だと示されました。主の愛に満たされて、新しい週に、このチャレンジを受け取って歩み出しましょう。
(深谷牧師)
京都教区には「教会と社会」という特設委員会があります。差別や貧困、原発、憲法改正、声をあげるべき問題は山積しています。
そのような時代に生きる私たちに、今朝のみことばは驚きです。服従は、隷属ではありません。権威者も、神の前では「仕える者」です。世界の権威者・主なる神の正義に期待して、私たちは善を行う道を進みます。
(深谷牧師)
大きくなったら、何になりたいですか?スポーツ選手? 幼稚園や学校の先生? それとも、ケーキ屋さん…? 一人ひとり、違った夢がきっとあるでしょう。
聖書に、一番大切なことは、神様の愛を知って生きることですよ、と書いてあります。
イエス様が今も、これからもずっと一緒にいてくださると信じると、新しい力が湧いてきます。一人ひとりに、命が輝く素敵な夢を、神様は必ず与えてくださいます!
(深谷牧師)
エサウの手を逃れて20年。ヤコブは兄との和解を求めてハランを出発した。兄との再会を前にして、恐れと不安に襲われながらも祈りを捧げ、謙遜の限りを尽くした。(清水名誉牧師)
ロマ書の、第二部の始まりと言える12章にたどり着きました。クリスチャンになることは「到達点」ではなく「スタートライン」です。日々、主の善き業のために、体をささげなさい。心を新たにしなさいと勧められています。混乱と不安うずまく世の中で、命が輝く歩みをすることができますように。 (深谷牧師)
『ホーリネス』誌6月号は、1942年の弾圧記録の特集でした。教会を解散させられた信徒、投獄された牧師(当時の名称は福音使)、残された牧師の家族たちの苦しみ、窮乏はいかばかりのことであったことでしょう。
四重の福音の最後である「再臨の信仰」は、復活、希望、将来ということに密接に繋がっています。聖書が語る、希望の約束は、この「神の国の到来」に集約されています。
(深谷牧師)
教会の中のとても大切な祈りに「とりなしの祈り」があります。入院中の方のため、痛みと闘っておられる方のため、また大きな悩みや困難を抱えておられる方のため… 私たちの力が及ばないそれらのことに、神様が働いてくださることを求めて祈るのです。
「神癒」の信仰は、神様が架空の世界の話ではなく、現世を生きる私たちの中に、確かに生きて働いてくださることを教えています。とりなしの祈りを捧げましょう!
(深谷牧師)
今日は「花の日・子どもの日」です。午後には、CSの子どもたちが寄書きと花束を持って、公共施設やご病気の方のお宅を訪問します。イエス様の十字架を掲げる教会から、感謝と慰めの花束が、子どもの笑顔と共に地域にひろがって、何と素晴らしいことでしょう。教会からの帰り道、私たちも出会う人に、主の愛を伝えることができますように! (深谷牧師)
ヤコブは20年間仕えた伯父ラバンのもとを去った。間もなく兄エサウとの再会が待っている。途中ヤボクの渡しの手前で一夜主と格闘して「イスラエル」の名を賜わった。(清水名誉牧師)
パウロは「オリーブの接ぎ木」を例えに用いています。「旧約聖書の律法」という元木に、「新約聖書の福音」という若枝が接ぎ木され、そのオリーブのほうが元の木より豊かに繁ったと語られています。
老舗の本家より、のれん分けした店のほうが有名になり繁盛した、というイメージでしょうか。私達が「イエス様に救われた」というクリスチャンになった喜びの背景にも、その源流を辿る時、私たちがまだ伝えきれていない敬愛する人々の存在が示されます。謙遜に、神の愛を届ける者となりましょう。
(深谷牧師)
今朝の箇所で、パウロは旧約聖書のエリヤの物語を例に出しています。(列王記上19章~参照)そこには、祈りによって、天から火が降ったという目覚しい奇跡が記されています。しかしそれでも、それを目撃した民全員が神様を信じるには至らなかったとも記されています。「選ばれた者」の反対は「かたくなな者」と呼ばれています。
石のようになって、主の恵みを躊躇しているところはないでしょうか。約束を信じて、心を柔らかくするなら、そこからじんわりと主の恵みはしみこんでくるでしょう。
(深谷牧師)
世界中のあらゆる人々に救いをもたらすことは、はるか昔から神様の心の願いでした。それがようやく実現する、その段階に入ったこの日。ペンテコステの日に、バベルの塔以来散らされていた人々に、それぞれの言葉で神様はそのみ業を語られ、聖霊の火を点火された人々はそのみ心の実現に用いられていきました。
"霊"の炎を互いに燃やしあいながら、この偉大な業、宣教に私たちも今、参与させて頂いています。聖霊に満たされ、聖霊の語られるままに、み言葉を語っていきましょう。(ベルトラン小川文子師-フィリピン・ボホール・サチュレーションプロジェクト)
「母の日」の起源は、1908年米国ウェストヴァージニア州のウェブスタ―教会に始まると言われています。教会学校の教師であった、ジャ―ヴィス夫人の記念会で、娘のアンナさんが、生前母の好きだった、白いカーネーションを参列者に贈りました。幼い時教会学校で母から聞いた「父と母を敬え」という聖書の教えを、彼女なりにあらわした行為でした。校長のワナメーカー氏はこのことに大きな感動を覚え、地域にも働きかけて、5月第2日曜日を、母への感謝を捧げる日と定め、やがて祝日へと発展して現在に至ります。(深谷牧師)
ヤコブはめざすハランに辿り着くと、そこには例の井戸があった。そこでラバンの娘ラケルに出会うとは奇遇というほかはない。ヤコブはラケルを愛して、彼女のために14年間働く。愛はすべてに耐えるのである。(清水名誉牧師)
「自分の卒園証書を何気なく見たら、『あなたは神様に選ばれて』という一文があることに初めて気が付きました。神様の子どもにさせてもらっていたんだなあと思ったら、涙が止まらなくなりました…」先日ある方が、そう言ってくださいました。神様の声を「聴く」瞬間だったのでしょう。美しい姿でした。(深谷牧師)
市原順先生は祈祷会で、2010年7月から、ずっと詩編の学びを連続してくださっていました。最後に伺ったメッセージは、昨年7月8日、134編からでした。残りの15編を、今は主の御前で天使たちと唱和し、聖なる喜びに溢れて賛美を捧げておられることでしょう!(深谷牧師)
引用されている申命記30章には、神様からの祝福を得るための秘訣は、高い山の上や、深い海の底に眠っているわけではなく、それは、すぐ近くにあると言われています。イエス様がこの世界に来てくださって、神様の愛が身近になりました。口で告白し、心に受け入れて、この救いにあずかりましょう。(深谷牧師)
ヤコブはエサウの手を逃れてハランへと向かった。途中一夜を野宿で過ごしたが、主が夢の中に臨在を示され、『わたしはあなたと共にいる。』と約束されたのである。(清水名誉牧師)
深谷牧師の説教
十字架上の死を、黙想する時「何だか心が震える」(せいか400番)思いがします。
復活の朝を、戦勝の華やかな凱旋パレードに例えるなら、十字架の暗闇は、悪魔との最後の死闘に挑んだ戦場といえるでしょう。
「肉を切らせて骨を断つ」ようにして、イエス様は、逆説的な勝利を勝ち取られました。神殿の垂れ幕が裂かれたことは、イエス様によって、神との隔たりが無くなったことを現わしています。また、地震と聖徒の復活は、死の力がうち砕かれて、永遠の命が与えられたことを現わしています。ハレルヤ!
(深谷牧師)
最高法院でのイエス様の場面です。時は、真夜中。地上の権威が「神を殺す」ために、互いの人の顔も定かに見えない暗闇の中で、集まっていました。そのただ中で、主イエスは、私たちに「天国の光」を宣言されました。
震災、テロ、原発… 夜明け前の闇に渦巻くこの世に「やがての日は来る」だから「神の愛を信じなさい」と示されています。
(深谷牧師)
エサウはエドム人の先祖となった。(清水名誉牧師)
アブラハムの僕によるイサクの嫁探しの旅は、彼の祈り通りの娘リベカとの出会いによって果された。それにしても、なんと美しい光景であろうか。これぞ主なる神の天のご配在というほかはない。(清水名誉牧師)
ロジャー・ウィルモア師(第21回ケズィック・コンベンション京都大会講師)による説教
カナダの牧師の子弟が盛岡におられます。その方と教会に来ている大学生が話していました。大学生「信仰って難しいですね。」子弟「えっ、簡単ですよ。」何気ない会話にも聞こえましたが、はっとさせられる思いでした。信仰の大事さを説くあまり小難しくなっていないかと反省させられました。
元々ホーリネスは単純な信仰を信条としていましたが、だんだん複雑になっているかも知れません。「喜び」「祈り」「感謝」の三徳目に立ち帰り、教会のさらなる成長と信仰の継承を目指して新しい一歩を踏み出しましょう。
(ホーリネスの群委員長 村上義治師・舘坂橋教会牧師)
昨年度の「からしだね一粒の信仰」に続いて、今年のみ言葉は「百倍の実を結ぶ」を、掲げました。実は、昨年度の創立記念礼拝で、清水潔先生が「百倍の実を結ぶ」(マルコ4:8)と題して説教された時から、心に留まっていたみことばでもあります。
人口13万人を超える、この山科の地に、百倍の実を結ぶと約束してくださる主のことばを信じて、これからも希望の福音を伝道する使命に生きる教会でありますように!よく耕された心に、豊かに蒔かれる、尽きることの無い恵みの種を思い、感謝しています。
(深谷牧師)
劣等感に悩む主人公の人形が、作り手の工房を訪ね、自分が彫刻師の愛情の中に生まれたことを知る、という絵本があります。わたしたちは神という陶器師によって世に送られた「憐れみの器」です。その器には「豊かな主の栄光」が盛り付けられるのです。 (深谷牧師)
ロマ書は1章~8章までの第一部が終わりました。9章~11章は、イスラエルの人々へのメッセージで、日本に暮らす私たちには、馴染みにくい部分かもしれません。
しかしパウロにとっては、イスラエルの人々は、自分のルーツであり、同胞でした。愛する人々が、キリストによる福音を受け入れてもらえない苦しさを、それでも不変の神の憐れみを、パウロは語っています。
(深谷牧師)
5章から続いたパウロの、信仰によって救われるという主題の、締めくくりの言葉です。
世界中の絶望的なニュースが、自分を暗闇に縛りつけようとしても、キリストの血潮によって、神の愛にわたしたちは結ばれており、決して引き離されることはないのです。
(深谷牧師)
イエス様の話には「たとえ話」が多いということが特徴です。上掲の聖句もそのひとつで「種まきのたとえ」と呼ばれています。
百倍の実を結んだ「良い土地」とは、何のことでしょう。続く15節を読むと「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」だと言われています。
「心をよく耕せ」ということが勧められていると思います。諦めという雑草を摘み取り、頑なという石を砕きましょう。何回でも挑戦することは可能です。神様が蒔かれる、恵みの袋の種は、尽きることがありません。
(深谷牧師)
新年の最初の主日を迎えています。今朝のみことばヨハネ黙示録は、主の再臨「第2の降臨」を告げています。第1の降誕は馬小屋での静かな誕生となって降臨されていますが第2の降臨は、主が雲に乗って来られると告げられています。その主が「わたしは初めであり、終わりである。」と言われます。わたしたちのうちに救いのわざを始められた方がそれを完成されるのであります。 (清水名誉牧師)