今日のみことば(2016年)
2016年の聖句「百倍の実を結ぶ」(ルカ8:8)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2016年12月25日クリスマス礼拝 「闇に輝く光」

「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成(な)った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 ・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1章1-5,9節)

   深谷牧師の説教

■ 2016年12月18日アドベントⅣ礼拝 「救い主の誕生」

「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」 (ヨハネ1:11-12)

 急いでプレゼントを買いに行ったのに、すべて完売していたら、がっかりですね。・・・二千年前、やっとの思いで宿を探すマリヤとヨセフに、ただのひと間さえ、なかったことは、なんとみじめで辛かったことでしょう。しかしそんな夜に、イエス・キリストは慰めの子としてお生まれになりました。
 クリスマス、何もなくても良いのです。焦りや疲れ、孤独な気持ちの馬小屋のただ中に、温かい産声が響いたのですから。 (深谷牧師)

■ 2016年12月11日アドベントⅢ礼拝 「待望の光の御子」

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 (ヨハネ1:4-5)

 聖画の定石に、赤ちゃんイエス様を抱くマリアと、その傍らに立つヨセフ像があります。ヨセフの描写は多様で興味深いところです。
 思い返してみるときに、クリスマスの出来事の中で、最も闇を感じたのはヨセフだったかもしれません。身に覚えのない赤ちゃんを産んだマリアとそれを喜び祝う人々、すべてを静かに迎え入れたヨセフの姿があります。
 光が暗闇の中に輝いている。ヨセフは、この真理を、私たちが思う以上に深く実感したことでしょう。聖霊の働きを信じて…。 (深谷牧師)

■ 2016年12月4日アドベントⅡ礼拝 「命を救うために」

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・ わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」 (創世記45:4b-5,8)

 ヨセフと再会した兄たちは恐れをなした。しかし、上掲のヨセフの言葉は、すべてが神のご計画と摂理であったと述べています。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」 (第1ヨハネ4:9) (清水名誉牧師)

■ 2016年11月27日アドベントⅠ礼拝 「光を証しする者」

「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 (ヨハネ1:8-9)

 アドベント(降誕節)を迎えました。今年はヨハネによる福音書から、クリスマスを覚えたいと思います。ヨハネによる福音書には、具体的な降誕の描写はありません。そのかわりに印象的なのは「世の光」という言葉です。暗闇が覆う世界を、真実の愛と、永遠の命で新しく照らす夜明けの光、それがヨハネが語ろうとするクリスマスです。この出来事は、何の前触れもなく突然起こったのではなく、深い神様のご計画の中で実現しました。(深谷牧師)

■ 2016年11月20日収穫感謝・謝恩日礼拝 「エッサイの木」

「『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロマ15:12-13)

 今年も収穫感謝日を迎えました。教会暦では1年最後の主日礼拝です。「エッサイの根」のエッサイとは、古代イスラエルの王、ダビデの父親の名前です。イエス・キリストがダビデの子孫であったことから、神が人類の悠久の歴史の初めから、確かなご計画を持っておられることを顕しています。大きな枝を拡げた「エッサイの木」の梢に、今の時代を生きる、私たちの賛美が響いているのです。(深谷牧師)

■ 2016年11月13日障がい者と共に在る主日礼拝 「慰めの源」

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。… 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、… 父である方をたたえさせてくださいますように。」(ロマ15:1,5-6)

 止揚学園を訪ねた方々が、その明るさと清潔さに大変感動した、と報告をされました。それは、職員の方々の「弱さを担う」姿勢が生みだした結果だと思うのです。私たちが、強くのない者の弱さを信仰によって担おうとする時、血に染まったキリストの十字架が、「慰めの源」となって心を照らします。(深谷牧師)

■ 2016年11月6日幼児祝福式礼拝 「神様に愛されて」

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。…天の国はこのような者たちのものである。』」 (マタイ19:13-14)

 古代エジプト王ファラオはヘブライ人の勢力拡大を恐れて虐待。生れた男子殺害を命じた。しかし、神を畏れる母は三ヶ月わが子を隠した上、葦の籠に入れてナイルの河畔に浮かべた。そこへ水浴に来た王女に発見され、王子として育てられたのである。その人の名は「モーセ」(引き出す)。やがて、苦役に悩むイスラエルを救い出す人となる。(清水名誉牧師)

■ 2016年10月30日礼拝 「追い求めるべきこと」

「神の国は、…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。…だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ロマ14:17,19)

 「子を産めば『親なる』。しかし『親なる』のは難しい」という一文が、ある紙面で紹介されていました。この二面性をパウロも繰り返し述べています。すなわち、「クリスチャンは『聖徒』。しかし『聖徒となってゆく』ことを追い求めなさい」と。
 「平和に役立つ理想」と聞くと、自分の生活から遠い事のように思うかもしれません。けれど、それは私たちの日常の生活の中に、神様が求めておられることなのです(深谷牧師)

■ 2016年10月23日秋の特別伝道礼拝 「ありのままで愛されている」

『 起きよ、光を放て』(イザヤ60:1)

 無理をしてがむしゃらに頑張っている時、もしかしたら、神様に委ねる、という生き方から少しずれてしまっているかもしれません。
 高速道路で、自殺したい人に道連れにされそうになり、死にかけ、11箇所もの手術、後遺症を抱える身になった私も、ひたすら頑張ってボロボロになりました。しかし同時期に、大試練にあった甥の、信仰に満ちた、全てを主に委ねて感謝して生きる姿に大きな驚きと励ましを受け、今は、今日この一瞬を感謝して生きられるように神様が助けて下さっています。
 神様に全てを委ねて感謝する時、そこに、自分自身ではなく、ただご聖霊様の御力によって、イエス様ご自身の光が放たれます。神様の光の中に輝く甥のように、どんな事があっても、神様のアガペーの愛をしっかりと受け止めて生きたいと祈ってやみません。  栄光在主
(クスマン典子師 ホーリネスの群70周年記念縦断伝道 特別講師)

■ 2016年10月16日秋の特別伝道礼拝 「愛と赦し」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:43-45)

   守部喜雅氏のメッセージ(クリスチャン新聞編集顧問、元「百万人の福音」編集長)

■ 2016年10月9日秋の特別伝道礼拝 「極めがたい知恵」

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。……すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」(ローマ11:33,36)

 ある人は、祈りには二種類あると語る。請求書の祈りと領収書の祈りである。請求書の祈りとは、神にあれこれ自らの願いを祈り、これが叶えられないならば、時には神などいない、神に何の力があろうかと嘆く、そうしたことを暗に前提する祈りである。領収書の祈りとは、神から与えられたものを見つめこれに感謝する祈りである。
 さて、今日の箇所でのパウロは領収書の祈りを捧げている。しかもそれは、未だ与えられていない恵みに対する領収の感謝であり、それ故にパウロは神を賛美する。
 そんな祈りはどのようにして可能となるのだろうか。(高田太 同志社教会副牧師)

■ 2016年10月2日世界聖餐日礼拝 「獄中のヨセフ」

「『あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。…しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。…主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39:19-23)

 ヨセフは兄弟に売られてエジプトの奴隷となり、さらに侍従長の妻の虚言によって投獄されるに至った。この人生のどん底の中でも、主はヨセフと共におられたのである。(清水名誉牧師)

■ 2016年9月25日礼拝 「主のために」

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (ロマ14:8)

 ロマ書14章は、クリスチャン同士の交わり、つまり教会の交わりについてパウロが述べているところです。そしてそれは、「違いのあるお互いを受け入れなさい。自分自身は確信を持って行動しなさい」と勧められています。具体的には、ローマの教会に禁欲主義者と自由主義者が対立していたのでしょう。前者は後者を裁き、後者は前者を軽蔑していました。違いをつつきあうのではなく、一致した目標を、確かめることが大切なことです。(深谷牧師)

■ 2016年9月18日合同記念礼拝 「すべての事を善きに」

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。」 (ヘブライ1:1-4)

  深谷牧師の説教

■ 2016年9月11日献堂9周年記念礼拝 「川は曲りながら大海に入る」

わたしは曲がっているのが好きだ
曲がっている方がいい
そこには優しさがあるから
川は曲がりながら大海に入る
思い通りに行かず  ぶつかりつつ自らを浄め
あの里この村を潤しながら 大海に入っていく
まっすぐだったら洪水になる
真理だってまっすぐじゃない
曲がりくねって出来事になるのだ
(榎本栄次師の詩)

 迷い出た一匹の羊は、決して要らない存在ではなかった。主イエスは「これらの小さい者を軽んじないように気をつけなさい」(マタイ18:10)と言われた。それは決してかわいそうだからではない。そこに行くと「天の父の御顔を仰いでいる」(11節)天使に会えるからだ。
 人生で、思い通りに行かないこと、時には呪われたような出来事に出会う。こんなことは要らないと思われることに「気をつけましょう」そこでこそ神さまに出会えるから。(榎本栄次師・関西セミナーハウス所長、前世光教会牧師)

■ 2016年9月4日礼拝 「ヨセフの夢」

「イスラエル(ヤコブ)は、ヨセフが年寄り子であったので(10番目)、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。」(創 37:3-5)

 父ヤコブがヨセフを愛したのは、年寄り子であったのと、最愛の妻ラケルの産んだ子であったからかも知れない。父の偏愛は十人の兄たちの妬みとなりました。その上にヨセフの見た二つの夢が兄たちの憎しみを増大させました。ヨセフ物語の始まりです。(清水名誉牧師)

■ 2016年8月28日夏期特別伝道礼拝 「確かな希望に生かされて」~尼僧からクリスチャンへ~

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 (ヨハネ福音書14:1-7)

  藤井圭子先生(日本キリスト伝道会エバンジェリスト)のメッセージ

■ 2016年8月21日礼拝 「神の家ベテル」

「神はヤコブに言われた。『さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。』ヤコブはやがて、一族の者すべてと共に、カナン地方のルズ、すなわちベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。」(創世記35:1,6,7)

 兄エサウとの再会と和解を果たしたヤコブであったが、エサウの招きには応じないで、一行はシケムに向かった。そこにはヤコブがかつてエサウの手を逃れての旅の途中、主なる神に出会った記念の場所である。ベテルは「神の家」と呼ばれた。(清水名誉牧師)

■ 2016年8月14日祈りの友礼拝 「救いは近づいている」

「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ロマ13:11-12)

 上掲の聖句は、後の教会全体に偉大な影響を与えた、教父アウグスティヌスが、信仰に立ち返るきっかけになったみことばとして、有名です。母モニカの祈りにも関わらず、当代随一の都市カルタゴにて、出会った女性との間に子供をもうけ、優秀でありながらも信仰の道を外れてしまった若い教師が、長い苦悩の末に、ついに再び、新しい魂の目覚めを受けた朝に与えられた、神の招きでした。 (深谷牧師)

■ 2016年8月7日平和主日礼拝 「剣をさやに納めなさい」

「剣をさやに納めなさい」(マタイ26:47-56)

 私の平和への目覚めは、小学6年の時、ユネスコ憲章前文の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉に出逢ったことから始まる。日本国憲法前文と九条は、世界に拡げるべき普遍的な真理であり、イザヤ書2:4、マタイ26:52を世界で初めて現実国家の実定法に明文化したものである。日本の目指すべき道はこの精神に沿って「良心的参戦拒否国家」となることである。しかし、残念ながら、今の日本は、その逆の道を歩みつつある。
 憂いつつ、悔い改めの必要を思う。 (原田博充師(京都みぎわ教会前牧師))

■ 2016年7月31日礼拝 「隣人を愛せよ」

「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ロマ13:9-10)

 「隣人を愛しなさい」という命令は、レビ記19:18に記されていて、幼児でも分かる、最も初歩の教えと言えるでしょう。しかし実際のところ、この教えほど難しい永遠の課題はないということを、私たちは知っています。
 ユダヤ人は「隣人」とは同国人のことだと理解しました。しかしイエス様は「すべての人」つまり「他人」が隣人だと示されました。主の愛に満たされて、新しい週に、このチャレンジを受け取って歩み出しましょう。 (深谷牧師)

■ 2016年7月24日礼拝 「世界の権威者に従う」

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。…善を行いなさい。…権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」 (ロマ13:1,3-4)

 京都教区には「教会と社会」という特設委員会があります。差別や貧困、原発、憲法改正、声をあげるべき問題は山積しています。
 そのような時代に生きる私たちに、今朝のみことばは驚きです。服従は、隷属ではありません。権威者も、神の前では「仕える者」です。世界の権威者・主なる神の正義に期待して、私たちは善を行う道を進みます。 (深谷牧師)

■ 2016年7月17日CS合同礼拝 「きみの命が輝く時」

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(ロマ12:10-11)

 大きくなったら、何になりたいですか?スポーツ選手? 幼稚園や学校の先生? それとも、ケーキ屋さん…? 一人ひとり、違った夢がきっとあるでしょう。
 聖書に、一番大切なことは、神様の愛を知って生きることですよ、と書いてあります。
 イエス様が今も、これからもずっと一緒にいてくださると信じると、新しい力が湧いてきます。一人ひとりに、命が輝く素敵な夢を、神様は必ず与えてくださいます! (深谷牧師)

■ 2016年7月10日祈りの友礼拝 「兄エサウとの再会」

「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(創世記33:1-4)

 エサウの手を逃れて20年。ヤコブは兄との和解を求めてハランを出発した。兄との再会を前にして、恐れと不安に襲われながらも祈りを捧げ、謙遜の限りを尽くした。(清水名誉牧師)

■ 2016年7月3日礼拝 「新しい生活」

「あなたがたに勧めます。自分の体を神に…献げなさい。…あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」 (ロマ12:1-2)

 ロマ書の、第二部の始まりと言える12章にたどり着きました。クリスチャンになることは「到達点」ではなく「スタートライン」です。日々、主の善き業のために、体をささげなさい。心を新たにしなさいと勧められています。混乱と不安うずまく世の中で、命が輝く歩みをすることができますように。 (深谷牧師)

■ 2016年6月26日弾圧記念日礼拝(四重の福音・再臨) 「将来への希望」

「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:16)

 『ホーリネス』誌6月号は、1942年の弾圧記録の特集でした。教会を解散させられた信徒、投獄された牧師(当時の名称は福音使)、残された牧師の家族たちの苦しみ、窮乏はいかばかりのことであったことでしょう。
 四重の福音の最後である「再臨の信仰」は、復活、希望、将来ということに密接に繋がっています。聖書が語る、希望の約束は、この「神の国の到来」に集約されています。 (深谷牧師)

■ 2016年6月19日礼拝(四重の福音・神癒) 「友のとりなし」

「四人の男が中風の人を運んできた。…イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」 (マルコ2:3,5)

 教会の中のとても大切な祈りに「とりなしの祈り」があります。入院中の方のため、痛みと闘っておられる方のため、また大きな悩みや困難を抱えておられる方のため… 私たちの力が及ばないそれらのことに、神様が働いてくださることを求めて祈るのです。
 「神癒」の信仰は、神様が架空の世界の話ではなく、現世を生きる私たちの中に、確かに生きて働いてくださることを教えています。とりなしの祈りを捧げましょう! (深谷牧師)

■ 2016年6月12日花の日・子どもの日礼拝(四重の福音・聖化) 「となりびと」

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」(ルカ10:27-28)

 今日は「花の日・子どもの日」です。午後には、CSの子どもたちが寄書きと花束を持って、公共施設やご病気の方のお宅を訪問します。イエス様の十字架を掲げる教会から、感謝と慰めの花束が、子どもの笑顔と共に地域にひろがって、何と素晴らしいことでしょう。教会からの帰り道、私たちも出会う人に、主の愛を伝えることができますように! (深谷牧師)

■ 2016年6月5日礼拝(四重の福音・新生) 「イスラエルと呼ばれる」

「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて … 『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』と … ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』 … 『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』 … と言って、ヤコブをその場で祝福した。 」 (創世記32:25-30)

 ヤコブは20年間仕えた伯父ラバンのもとを去った。間もなく兄エサウとの再会が待っている。途中ヤボクの渡しの手前で一夜主と格闘して「イスラエル」の名を賜わった。(清水名誉牧師)

■ 2016年5月29日礼拝 「愛に接ぎ木された枝」

「神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。」(ロマ11:23)

 パウロは「オリーブの接ぎ木」を例えに用いています。「旧約聖書の律法」という元木に、「新約聖書の福音」という若枝が接ぎ木され、そのオリーブのほうが元の木より豊かに繁ったと語られています。
 老舗の本家より、のれん分けした店のほうが有名になり繁盛した、というイメージでしょうか。私達が「イエス様に救われた」というクリスチャンになった喜びの背景にも、その源流を辿る時、私たちがまだ伝えきれていない敬愛する人々の存在が示されます。謙遜に、神の愛を届ける者となりましょう。 (深谷牧師)

■ 2016年5月22日礼拝 「約束を信じて」

「恵みによって選ばれた者が残っています。」(ロマ11:5)

 今朝の箇所で、パウロは旧約聖書のエリヤの物語を例に出しています。(列王記上19章~参照)そこには、祈りによって、天から火が降ったという目覚しい奇跡が記されています。しかしそれでも、それを目撃した民全員が神様を信じるには至らなかったとも記されています。「選ばれた者」の反対は「かたくなな者」と呼ばれています。
 石のようになって、主の恵みを躊躇しているところはないでしょうか。約束を信じて、心を柔らかくするなら、そこからじんわりと主の恵みはしみこんでくるでしょう。 (深谷牧師)

■ 2016年5月15日ペンテコステ礼拝 「宣教の力」

「"霊"が語らせるままに…話し出した。」(使徒2:4)

 世界中のあらゆる人々に救いをもたらすことは、はるか昔から神様の心の願いでした。それがようやく実現する、その段階に入ったこの日。ペンテコステの日に、バベルの塔以来散らされていた人々に、それぞれの言葉で神様はそのみ業を語られ、聖霊の火を点火された人々はそのみ心の実現に用いられていきました。
 "霊"の炎を互いに燃やしあいながら、この偉大な業、宣教に私たちも今、参与させて頂いています。聖霊に満たされ、聖霊の語られるままに、み言葉を語っていきましょう。(ベルトラン小川文子師-フィリピン・ボホール・サチュレーションプロジェクト)

■ 2016年5月8日母の日礼拝 「母の日によせて」

「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。」(エフェソ6:2)

 「母の日」の起源は、1908年米国ウェストヴァージニア州のウェブスタ―教会に始まると言われています。教会学校の教師であった、ジャ―ヴィス夫人の記念会で、娘のアンナさんが、生前母の好きだった、白いカーネーションを参列者に贈りました。幼い時教会学校で母から聞いた「父と母を敬え」という聖書の教えを、彼女なりにあらわした行為でした。校長のワナメーカー氏はこのことに大きな感動を覚え、地域にも働きかけて、5月第2日曜日を、母への感謝を捧げる日と定め、やがて祝日へと発展して現在に至ります。(深谷牧師)

■ 2016年5月1日ホ群結成記念日礼拝 「ヤコブの結婚」

「ヤコブはラケルを愛していたので、『下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます』と言った。 ラバンは答えた。『あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。』 ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。」(創世記 29:18-20)

 ヤコブはめざすハランに辿り着くと、そこには例の井戸があった。そこでラバンの娘ラケルに出会うとは奇遇というほかはない。ヤコブはラケルを愛して、彼女のために14年間働く。愛はすべてに耐えるのである。(清水名誉牧師)

■ 2016年4月24日第69回教会総会礼拝 「全地に響き渡る声」

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」 (ロマ10:17-18)

 「自分の卒園証書を何気なく見たら、『あなたは神様に選ばれて』という一文があることに初めて気が付きました。神様の子どもにさせてもらっていたんだなあと思ったら、涙が止まらなくなりました…」先日ある方が、そう言ってくださいました。神様の声を「聴く」瞬間だったのでしょう。美しい姿でした。(深谷牧師)

■ 2016年4月17日市原順師告別式礼拝 「主の愛に応えて」

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」 (詩編139:8-10)

 市原順先生は祈祷会で、2010年7月から、ずっと詩編の学びを連続してくださっていました。最後に伺ったメッセージは、昨年7月8日、134編からでした。残りの15編を、今は主の御前で天使たちと唱和し、聖なる喜びに溢れて賛美を捧げておられることでしょう!(深谷牧師)

■ 2016年4月10日祈りの友礼拝 「みことばの近くに」

「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」 (ロマ10:8-9)

 引用されている申命記30章には、神様からの祝福を得るための秘訣は、高い山の上や、深い海の底に眠っているわけではなく、それは、すぐ近くにあると言われています。イエス様がこの世界に来てくださって、神様の愛が身近になりました。口で告白し、心に受け入れて、この救いにあずかりましょう。(深谷牧師)

■ 2016年4月3日礼拝 「天からの梯子」

「『見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』そして、恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』」(創世記28:15-17)

 ヤコブはエサウの手を逃れてハランへと向かった。途中一夜を野宿で過ごしたが、主が夢の中に臨在を示され、『わたしはあなたと共にいる。』と約束されたのである。(清水名誉牧師)

■ 2016年3月27日イースター礼拝 「佳き知らせ」

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」(マタイ28:1-7)

 深谷牧師の説教

■ 2016年3月20日棕櫚の主日礼拝 「主の十字架」

「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(マタイ27:50)

 十字架上の死を、黙想する時「何だか心が震える」(せいか400番)思いがします。
 復活の朝を、戦勝の華やかな凱旋パレードに例えるなら、十字架の暗闇は、悪魔との最後の死闘に挑んだ戦場といえるでしょう。
 「肉を切らせて骨を断つ」ようにして、イエス様は、逆説的な勝利を勝ち取られました。神殿の垂れ幕が裂かれたことは、イエス様によって、神との隔たりが無くなったことを現わしています。また、地震と聖徒の復活は、死の力がうち砕かれて、永遠の命が与えられたことを現わしています。ハレルヤ! (深谷牧師)

■ 2016年3月13日レント第5礼拝 「不利な偽証」

「大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。』」(マタイ26:63-64)

 最高法院でのイエス様の場面です。時は、真夜中。地上の権威が「神を殺す」ために、互いの人の顔も定かに見えない暗闇の中で、集まっていました。そのただ中で、主イエスは、私たちに「天国の光」を宣言されました。
 震災、テロ、原発… 夜明け前の闇に渦巻くこの世に「やがての日は来る」だから「神の愛を信じなさい」と示されています。 (深谷牧師)

■ 2016年3月6日レント第4礼拝 「ヤコブとエサウ」

「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。… ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」(創世記 25:27-28,34)
「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」(ヘブライ12:16)

 エサウはエドム人の先祖となった。(清水名誉牧師)

■ 2016年2月28日創立記念月間第4礼拝(レント第3礼拝)  「イサクとリベカの結婚」

「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。『水がめに水を少し飲ませてください。』すると彼女は、『どうぞ、お飲みください。』と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう。』と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水を汲みに井戸に走って行った。」(創世記24:17-20)

 アブラハムの僕によるイサクの嫁探しの旅は、彼の祈り通りの娘リベカとの出会いによって果された。それにしても、なんと美しい光景であろうか。これぞ主なる神の天のご配在というほかはない。(清水名誉牧師)

■ 2016年2月21日創立記念特別礼拝(レント第2礼拝)  「最も大切なこと」

「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」(ルカ10:38-42)

 ロジャー・ウィルモア師(第21回ケズィック・コンベンション京都大会講師)による説教

■ 2016年2月14日創立70周年記念礼拝(レント第1礼拝)  「初めの一歩に立つ」

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」 (Ⅰテサロニケ5:16-18)

 カナダの牧師の子弟が盛岡におられます。その方と教会に来ている大学生が話していました。大学生「信仰って難しいですね。」子弟「えっ、簡単ですよ。」何気ない会話にも聞こえましたが、はっとさせられる思いでした。信仰の大事さを説くあまり小難しくなっていないかと反省させられました。
 元々ホーリネスは単純な信仰を信条としていましたが、だんだん複雑になっているかも知れません。「喜び」「祈り」「感謝」の三徳目に立ち帰り、教会のさらなる成長と信仰の継承を目指して新しい一歩を踏み出しましょう。 (ホーリネスの群委員長 村上義治師・舘坂橋教会牧師)

■ 2016年2月7日創立記念月間第1礼拝 「百倍の実を結ぶ」

「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:8)

 昨年度の「からしだね一粒の信仰」に続いて、今年のみ言葉は「百倍の実を結ぶ」を、掲げました。実は、昨年度の創立記念礼拝で、清水潔先生が「百倍の実を結ぶ」(マルコ4:8)と題して説教された時から、心に留まっていたみことばでもあります。
 人口13万人を超える、この山科の地に、百倍の実を結ぶと約束してくださる主のことばを信じて、これからも希望の福音を伝道する使命に生きる教会でありますように!よく耕された心に、豊かに蒔かれる、尽きることの無い恵みの種を思い、感謝しています。 (深谷牧師)

■ 2016年1月31日礼拝 「陶器師なる神」

「怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、…召し出してくださいました。」 (ロマ9:22-24)

 劣等感に悩む主人公の人形が、作り手の工房を訪ね、自分が彫刻師の愛情の中に生まれたことを知る、という絵本があります。わたしたちは神という陶器師によって世に送られた「憐れみの器」です。その器には「豊かな主の栄光」が盛り付けられるのです。 (深谷牧師)

■ 2016年1月24日礼拝 「神の憐れみ」

「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。・・・神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。」(ロマ9:6、14)

 ロマ書は1章~8章までの第一部が終わりました。9章~11章は、イスラエルの人々へのメッセージで、日本に暮らす私たちには、馴染みにくい部分かもしれません。
 しかしパウロにとっては、イスラエルの人々は、自分のルーツであり、同胞でした。愛する人々が、キリストによる福音を受け入れてもらえない苦しさを、それでも不変の神の憐れみを、パウロは語っています。 (深谷牧師)

■ 2016年1月17日礼拝 「神が私たちの味方」

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 (ロマ8:38-39)

 5章から続いたパウロの、信仰によって救われるという主題の、締めくくりの言葉です。
 世界中の絶望的なニュースが、自分を暗闇に縛りつけようとしても、キリストの血潮によって、神の愛にわたしたちは結ばれており、決して引き離されることはないのです。 (深谷牧師)

■ 2016年1月10日成人祝福式礼拝 「百倍の実を結ぶ」

「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」 (ルカ8:8)

 イエス様の話には「たとえ話」が多いということが特徴です。上掲の聖句もそのひとつで「種まきのたとえ」と呼ばれています。
 百倍の実を結んだ「良い土地」とは、何のことでしょう。続く15節を読むと「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」だと言われています。
 「心をよく耕せ」ということが勧められていると思います。諦めという雑草を摘み取り、頑なという石を砕きましょう。何回でも挑戦することは可能です。神様が蒔かれる、恵みの袋の種は、尽きることがありません。 (深谷牧師)

■ 2016年1月3日新年礼拝 「初めであり終わりである方」

「見よ、その方が雲に乗って来られる…神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」 (ヨハネ黙示録1:7-8)

 新年の最初の主日を迎えています。今朝のみことばヨハネ黙示録は、主の再臨「第2の降臨」を告げています。第1の降誕は馬小屋での静かな誕生となって降臨されていますが第2の降臨は、主が雲に乗って来られると告げられています。その主が「わたしは初めであり、終わりである。」と言われます。わたしたちのうちに救いのわざを始められた方がそれを完成されるのであります。 (清水名誉牧師)