今日のみことば(2017年)
2017年の聖句「主よ、お話しください」(Ⅰサムエル3:9)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2017年12月31日年末感謝礼拝 「最後まで耐え忍ぶ者」

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終りが来る。」 (マタイ24:13-14)

 今日は大晦日、今年最後の日である。そこでこの世界の終末と再臨について覚えたい。
 われらが日本基督教団の信仰告白では「教会は…愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふ(もう)を待ち望む」とあり、使徒信条にも「主は…天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへ(え)り、かしより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまは(わ)ん。」とある。あらゆる苦難に耐え忍びつつ、主の再び来られる救いの日を待ち望もう!
(清水名誉牧師)

■ 2017年12月24日クリスマス礼拝 「救い主の誕生」

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ2:1-7)

 深谷牧師の説教

■ 2017年12月17日アドベントⅢ礼拝 「ヨセフへの告知」

「この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(マタイ1:23-24)

 先週のマリアへの神様からの贈り物は、「おめでとう、恵まれた方。神にできないことは何もありません。」という恵みと慰めでした。それでは、イエス様の父親となったヨセフへの贈り物は何だったのでしょう。
 それは「恐れずに受け入れなさい、神はあなたと共におられます」という、招きと励ましだと云えるでしょう。「インマヌエル」の響きは、クリスマスに一番大切なこと、「神が共におられる」ことを伝えています。
(深谷牧師)

■ 2017年12月10日アドベントⅡ礼拝 「マリアへの告知」

「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)

 クリスマスを、神様から私たちへ送られたメッセージとして受け止めるとき、美味しいケーキや、欲しかったプレゼントのような、目に見える喜びとは質の違う、魂への贈り物が与えられていることに気付かされます。
 それは、預言者には「希望の約束」であり、羊飼いが受け取ったのは「神が共におられるしるし」でした。マリアへ贈られた天使の言葉は「恵みと励まし」のメッセージです。
 恵みと励ましを受けて「この身に成りますように」と告白したマリアには、今までになかった、新しい喜びが宿ったのでした。
(深谷牧師)

■ 2017年12月3日アドベントⅠ礼拝 「救い主誕生の預言」

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。… 権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(イザヤ9:5)

 いよいよ今年も待降節を迎えました。上掲の聖句は、有名なヘンデルの「メサイア」の一節にもなった、救い主の誕生を預言しているイザヤの言葉です。
 「予言」・「予報」と、「預言」は大きく違います。それは「神様から預かった言葉」という意味です。神様の熱い思いが、実現させようとして約束してくださった希望の言葉、それが「預言」です。クリスマスは、最高の平和と希望が計画された季節なのです。
(深谷牧師)

■ 2017年11月26日収穫感謝・謝恩日礼拝 「感謝の捧げもの」

「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7:25)

 約3ヶ月ぶりに、ヘブライ書を開きます。今日は収穫感謝・謝恩日ですから、「捧げる」ということを取り上げてみたいと思います。
 神の怒りをなだめるための捧げ物、それがイエス様が来られる以前の「祭壇」の意味でした。けれども、イエス様が来られて、十字架でご自分の命をもって、完全な犠牲となってくださった今は、お詫びのしるしはもう要りません。救われた喜び、「感謝」が、捧げ物に込められた本当の意味なのです。
(深谷牧師)

■ 2017年11月19日礼拝 「モーセの杖」

「モーセは逆らって、「それでも彼らは『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」というと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が地面に杖を投げると、それが蛇となったのでモーセは飛びのいた。」 (出エジプト4:1-3)

 モーセが同胞の信用を得られないと考える理由は、①エジプトの王子であったこと。②同胞を虐待するエジプト人を殺害し、逃亡者となったという過去がある。しかし主は、羊飼の杖を持つ現在の彼を信頼される。
(清水名誉牧師)

■ 2017年11月12日障がい者と共にある主日礼拝 「温かいいのちとあたたかい生命」

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」 (コロサイ3:16)

 止揚学園は知能に重い障がいをもつ人も、もたない人も家族のように歩んでいます。私は知能に重い障がいをもつ仲間たちと一緒に成長してきました。その中に準奈さんがいました。
 この九月、準奈さんは神様のもとに召されました。薄れていく準奈さんの意識を感じつつ、私はお祈りをしました。「神様は、優しく準奈さんを守ってくださいます。」準奈さんは、ウンウンと、頷いてくれました。
 頷きは、神様が私達と共にいてくださることを教え、励まされ、これまで準奈さんの方が私に寄り添ってくれていたことに、その時、気付かされたのです。
(福井 生 止揚学園園長)

■ 2017年11月5日幼児祝福式礼拝 「天の国と子どもたち」

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。・・・わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 (マタイ18:3,5)

 「大人はだれでもはじめは子どもだった。そのことを忘れずにいる大人はほとんどいない。」という、サン・テグジュペリの言葉が好きです。神様の愛を、世界の中に見つけられる、子どもの心を思い出すものでありたいなぁと思います。天の国から注がれる、神様の愛という祝福を、心からお祈りします。大人である、神の子どもたちにも・・・。
(深谷牧師)

■ 2017年10月29日プロテスタント500年記念礼拝 「御心に適った悲しみ」

「御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)

 使徒パウロはこの様に言っています。悲しみに「御心に適った悲しみ」と「この世の悲しみ」の二種類があるというのではありません。その悲しみを主のところに持っていくかどうかです。たとえ教会の中であったとしても、この世の次元にも劣るような悲しみがあります。問題はそれらをどうするかです。深い「悲しみ」に直面したとき、それを神様のところに持っていくときに、御心にかなう悲しみにしてくださるのです。その神を待ちましょう。
(榎本栄次師 関西セミナーハウス所長)

■ 2017年10月22日信徒伝道週間特別礼拝 「神の約束と励まし」

「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」 (創世記17:1)

 秋は、運動会やコンサート、特別な催し物など、この季節ならではの趣向を凝らした行事が、各地で開催されています。本日の礼拝では、日本キリスト教団の暦にならい、「信徒伝道週間特別礼拝」として、当教会のCS、青年会のOBで、現在はホスピス医として、第一線でお働きの細井順兄(香櫨園教会信徒)をお迎えしました。細井兄の証しを通して、どこに行くよりも大きな恵みの時となりますように。
 私たちに与えられる約束と励ましは、神様の愛に根ざしているのですから・・・。
(深谷牧師)

■ 2017年10月15日礼拝 「新しい命にされる」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

 聖書の中で、「これだけは覚えておきたいみ言葉」を挙げるとき、このヨハネ3:16を外すことはできません。なぜなら、キリスト教の最も大切な「救い」のメッセージが、この一言の中に凝縮されているからです。
 それは、「神様は、あなたを愛されている。その証拠は、イエス様の十字架。その贈り物は、永遠の命。」ということです。幼子が感じるような喜びを、私たちもまた、父なる神から、受け取ることができるのです。
(深谷牧師)

■ 2017年10月8日聖書学校日(献身者奨励日)礼拝 「実を結ぶ生き方」

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(マタイ13:8)

 種は聖書の御言葉であり、イエス様です。そしてまかれた土地は人の心です。良い土地に落ちれば、何十倍もの祝福の実を結びます。人は祝福の実を結ぶことを求めてつい方法やスキルを追い求めてしまうものですが、わたしたちの心、価値観を変えていくことが大切です。
 心を変えることは簡単ではなく、時間がかかります。しかし助け合いつつ、わたしたちのイエス様を受け入れる心が変えられるならば、豊かな実を結ぶのです。
(大阪西野田教会 髙橋順師)

■ 2017年10月1日世界聖餐日礼拝 「行き着くところは」

「行き着きところは、永遠の命です」(ローマ6:22)

私達の人生の行き着くところは…?
皆、寿命があります。長くて90年…。
が皆、死で全てが消え去ります。が
「永遠の命」がある「神の賜物」だと。
神はどうしたら分かるの。見えない神が。
「イエスによる命」だと。イエスとは?
どんな人? 何をした人? イエスは神?
何故、人間は死ぬの? 人間の責任…?
死から救われるって? どのようにして…?
イエスの死と復活と私たちの関係は…?
永遠の命に向かう希望を目指したい!
キリストの信仰が私たちの死ぬべき人生に何を与えるかを探って行きたい。 (井上喜雄師)

■ 2017年9月24日礼拝 「行け!モーセ」

「『見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』…神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』」 (出エジプト3:9-10,14)

 モーセがエジプトを出てミディアンの地に逃れ寄留の生活は40年に及び定着していた。しかし、神はモーセをシナイ山に呼び出し、イスラエル救出を命じられた。恐れる彼に主は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されている。 (清水名誉牧師)

■ 2017年9月17日合同記念礼拝 「呼びかける声」

主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 (サムエル上3:6-10)

  深谷牧師の説教

■ 2017年9月10日献堂10周年記念礼拝 「クリスチャンライフの最優先課題」

「あなたがたは、キリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」 (Ⅰコリント12:27)

 クリスチャンライフで最優先すべきこと。それは、聖日礼拝に出席することではない。教会奉仕や伝道、 宣教活動に従事することではない。祈ることではない。聖書を読むことではない。
 それは、キリストの御霊を受けた一人一人が、教会を、キリストの身体なる共同体として建てあげる!ことです。
 すなわち、各自がキリストの身体の肢体としてその分を果たし、互いを尊重し合うことなのです。 (上野の森キリスト教会牧師 重田俊仁師)

■ 2017年9月3日祈りの友礼拝 「不動の誓い」

「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」 (ヘブライ 6:19)

 聖歌494番「世のなみかぜに」の歌詞に、「錨を主に下ろしし今、風も波もいかで恐れん、代々の岩に錨下ろし、流るることあらじ」とあります。人生の拠り所を、イエス・キリストの救いに置いた生き方を、暴風の中でもしっかり港に繋がれた船に例えています。
 錨の存在の真価は、凪の日よりも嵐の荒れる中でわかります。わたしたちの内外に、騒がしい不安なこの時代に、「キリストの錨」をもつ人は、何と幸いなことでしょう! (深谷牧師)

■ 2017年8月27日礼拝 「成熟を目指して」

「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」(ヘブライ6:1-2)

 キリストの教えの「成熟」とは、一体なんでしょうか。それは、キリストの姿に近づくということだと言えるでしょう。「プロを目指しなさい」と、勧められています。イエス様という、世界最高の愛と恵みの指導者と巡り合えた者として、この方の示された生き方を目指す「成熟した者」を目指そうではありませんか。主の期待の眼差しに応えて! (深谷牧師)

■ 2017年8月20日礼拝 「祝福を与える方」

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」 (ヘブライ5:9-10)

 メルキゼデクは、創世記14章だけに登場する、謎めいた人物です。イスラエルの父祖・アブラハムに祝福を与えた、サレム(エルサレム)の王でした。アブラハムとその子孫が、彼の祝福から繁栄の道が開かれていったように、私たちは救い主キリストとの出会いから、祝福の道が開かれて行くのです。 (深谷牧師)

■ 2017年8月13日礼拝 「主の民イスラエルの苦難」

「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。…』エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」 (出エジプト 1:8-11)

 ヨセフの時代のエジプトはヒクソス王朝の頃(BC1700-1580)とされる。その後アモシスⅠが第18王朝創始者となり、新王朝による対イスラエル政策が厳しく変化したため、民は奴隷のように重労働で苦しんだ。神がこの民を救出されるのが本書前半である。 (清水名誉牧師)

■ 2017年8月6日礼拝 「試練の中で」

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受けて、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:15-16)

 72年前の今朝、広島の空は暗闇に覆われ、火の海と化した街は呻きに包まれました。黙想しながら、「共に被爆されたキリスト」というイメージが与えられました。
 信仰と希望は、わたしたちに復興と平和をもたらします。私たちが試練の中にいる時、神の愛のみ手は差し伸べられています。 (深谷牧師)

■ 2017年7月30日礼拝 「神の言葉は鋭い剣」

「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)

 500年のプロテスタント教会の歴史は、ラテン語だった聖書が翻訳され、み言葉が、ひとりひとりに手渡された時に、はじまりました。読書の対象ではなく、実行すべき教えとして神の言葉(=聖書)を受け止めるとき、他のありふれた慰めの言葉とは違う、魂を潤す恵みの水脈が、入り込んでくることを体験できます。鋭さは、私たちを励まし、希望を与えるための神の燃える愛なのです。 (深谷牧師)

■ 2017年7月23日礼拝 「最後まで」

「『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。--わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです--」 (ヘブライ3:13-14)

 「明日はわたしには わからないけど 明日を守られるイエスがおられる」昔、賛美のCDで聞いた歌詞を思い出します。
 ヘブライ書は、ぐだぐだしている子供の背中を叱咤激励して、目的の場所に導こうとするような、一種の「張り」がある書物です。
 キリストの救いと共に生きるなら、必ず幸いを得る道に至るー この約束を、あなたは既に聞いている、と励ましています。 (深谷牧師)

■ 2017年7月16日CS合同礼拝 「きみは友だち」

「あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:14)

 其枝幼稚園の「そのえだ」は、15章5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」から、名付けられました。この箇所は、イエス様が「最後の晩餐」という、お弟子たちと過ごした大切な夜に語られた言葉が記されているところです。
 人間が生きていく中で、一番悲しいことは、「ひとりぼっちになること」だと言われます。難しい言葉で「孤独」と言います。イエス様は「わたしが繋がっているよ、あなたの友だちだよ」と言ってくださいました。イエス様の名前を呼んでみましょう! (深谷牧師)

■ 2017年7月9日礼拝 「神の顧み」

「ヨセフは兄弟たちに言った。『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』……『そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。』」 (創世記50:24-25)

 創世記は丁度50章で終わっているが、その最後の主役者はヨセフであった。奴隷から大エジプトの宰相となって波乱に満ちた生涯をその地で終えた。彼が兄弟たちに遺したものは偉大な神の愛と顧みのメッセージであった。そのみ言の約束は、何世代も経て、やがてモーセの時代となって実現するに至った。 (清水名誉牧師)

■ 2017年7月2日祈りの友礼拝 「希望に満ちた家」

「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(ヘブライ3:6)

 近江八幡市に有名な「ヴォーリス建築群」があります。クリスチャンのヴォーリスは、その理念に「建物の真価は、その外装ではなく、内部にこそ現れる」と語ったそうです。
 とかく、私たちは外側のことに心を奪われます。しかし、本当は、内面にあるものが、見えるものを創っているのです。イエス様の愛が、十字架の犠牲が、私たちの魂に深く感じられる時、私たちは神の家の一部となり、主の愛が、希望の家の柱となるのです。 (深谷牧師)

■ 2017年6月25日弾圧記念日礼拝(四重の福音・再臨) 「ファンファーレ」

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、・・・更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」(黙示録21:1-2)

 75年前の6月26日、ホーリネス系の教会は一斉検挙を受け、134名の牧師たちが投獄されました。「キリストの再臨の時には、天皇も人間として裁かれると教えている、けしからん」という今では信じられないような理由でした。時代とともに権力や思想は移り変わります。しかし、聖書は「新しい世界」が訪れると希望の預言を宣言しています。 (深谷牧師)

■ 2017年6月18日礼拝(四重の福音・神癒) 「モーニング・グローリー」

「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10:52)

 朝が早くなりました。4時半頃には空がしらみはじめて、人々が眠っていても、鳥たちが歌い始めます。壮大なシンフォニーのような朝焼けが、ごく普通の日の朝なのに、まばゆく、けれども静かに、輝いています。
 まさしく「神の業」はそのように、私たちの日常に織り込まれて、豊かにあらわされています。二千年前と、空が同じように、今も私たちを癒し、力を与え、奮い起こしてくださいます。そして、最も大きな癒しの賜物は、イエス様の十字架です。バルティマイのように主の進む道に従っていきましょう。 (深谷牧師)

■ 2017年6月11日花の日・子どもの日礼拝 「子どもを真ん中に」

「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。』」 (マタイ福音書18:2-4)

 上記のみ言はマルコ9章、ルカ9章にもあり、いずれも弟子達の仲間争いがきっかけとなっています。いつの時代でも大人達は権力争いを繰返し、子供達は儀性となってきた。
 主は謙遜を学び子供達を大切にすべきことを教えられました。さらには、子供達に学ばねばならないと教えておられます。 (清水名誉牧師)

■ 2017年6月4日ペンテコステ礼拝(四重の福音・新生) 「ボーン・アゲイン」

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。…神は、その独り子をお与になったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ3:3,16)

 「君は愛されるため生まれた」という賛美歌があります。人生を巻き戻すことはできません。けれども、十字架と復活を信じる時に、「新しく生まれる」ことができるとイエス様は語られます。この世に生を受けた時、初めて母の胸に抱かれて、生まれた意味を知ったように、私たちに新しい「霊の誕生日」が与えられ、「神の子」とされるのです! (深谷牧師)

■ 2017年5月28日礼拝 「共に立つ大祭司」

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」 (ヘブライ2:17)

 男の子が見たと言う夢を思い出します。お母さんが熱湯でアリを退治しようとしています。男の子は「そっちへいっちゃだめだよー!」と叫ぶのですが、アリには通じません。そこで夢の中で男の子はアリになって、アリの言葉で教えてあげたと言うのです。
 イエス様は神の子でありながら、人となってこの世界に来てくださいました。そして大祭司として救いの道を示されたのです。 (深谷牧師)

■ 2017年5月21日礼拝 「救いの創始者」

「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」 (ヘブライ2:8)

 信じる、という言葉には、一種の賭けのような性質があります。「できると信じる」という時、そこには「今はそうではないけれど」という現実があるからです。今朝の箇所にも、信仰者の葛藤があります。神様の統治を賛美する詩編8編を引用しながらも、同胞が殺害され、失われてゆく事実に胸が張り裂けそうになっている人たち・・・。
 そんな苦しさに寄り添いながら、「イエス様がいてくださる」との言葉が、信じ続ける希望を与えてくださっています。(深谷牧師)

■ 2017年5月14日母の日礼拝 「母の祈り」

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」 (使徒言行録1:14)

 「母の日」は、米国ヴァージニア州ウェブスターの教会で催された一婦人の記念会に由来する。その人の名はジャーヴィスさん、26年間教会学校教師をされて召された。記念会の席上娘のアンナさんが捧げた一束のカーネーションが列席者の感動を呼び、毎年5月第2日曜日を「母に感謝する日」として守られるようになったという。1914年米国議会によって定められ今日世界中に広まっている。
 今日は主の母マリアの信仰と祈りを紹介し母を賜わった神様に感謝を捧げたい。 (清水名誉牧師)

■ 2017年5月7日祈りの友礼拝 「救いの知らせ」

「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され・・・」 (ヘブライ2:3)

 新約聖書27巻の中で、ヘブライ書は特別な存在感を持っています。学校の先生に例えるなら、生徒とひざをつきあわせて、放課後でも話し込むタイプです。名前を告げない初代教会の熱心な一教師が、悩みと失意の中におかれた人々に、「イエス様の救いは、確かなものだ、その証しは聖霊の業だ、この恵みに留まりなさい」と説得しているのです。 (深谷牧師)

■ 2017年4月30日礼拝 「喜びの油、滅びない衣」

「あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。…あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。」 (ヘブライ1:9,12)

 「雲の上にはいつも太陽が存在している」という言葉があります。当たり前のことですが、地上で大雨や嵐が吹き荒れている時、光り輝く太陽が黒雲の向こうにあるとは想像しにくいものです。
 私たちの日々の歩みの中にも、イエス様という祝福と不変の存在が、涙や痛みの向こうには、いつもいてくださることをヘブライ書は教えています。太陽のように輝いて! (深谷牧師)

■ 2017年4月23日第70回教会定期総会礼拝 「キリストの内に」

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブライ1:1-2)

 市原順先生が召天されて1年が経ちました。先生をお見舞いした時に、「ここから語りたい」と枕元に置かれていた「希伯来書」を思い出します。文語訳の「ヘブル書」注解でした。ヘブライ書は、イエス・キリストの姿を通して、読む人に力強い励ましを与えます。現実の苦難に、信仰による勝利を、主イエスが与えてくださると示しています。 (深谷牧師)

■ 2017年4月16日イースター礼拝 「春のかおり」

「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:11-18)

   深谷牧師の説教

■ 2017年4月9日棕梠の主日礼拝 「十字架上の言葉」

「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)

 主イエスは、十字架上で7つの言葉を遺されたと言われます。上掲の句はその最期の言葉です。かつては「すべてが終わった」と翻訳されていましたが、原意の「完成・成就した」を汲んで今は「成し遂げられた」とされています。
 ここに、十字架の出来事が、不慮の事故でも最悪のシナリオでもなく、予め準備された計画の実行であり、すべてを受け入れた愛の犠牲であったことがわかります。十字架の死は復活の朝を映す希望のシルエットです。イエス様が、私たちのために示してくださったのです。 (深谷牧師)

■ 2017年4月2日レントⅤ礼拝 「ヨセフの涙」

「ヨセフは父の顔に伏して泣き」(創 50:1)

 ヨセフは父の死を悲しんで泣いた。彼はまことに涙の人であった。兄弟と再会しては別室にて泣き、弟ベニヤミンと再会して泣き、父との再会ではその首にすがりついて泣き続けた。兄妹達との再度の謝罪にも涙した。
 主イエスもまた涙の人であった。ラザロの死に涙を流し(ヨハネ11:35)、ゲッセマネの園では苦しみもだえて祈られた(ルカ22:41、ヘブライ5:7)。そのわき溢れる涙の意味は何であろう。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(ヨハネ黙示 21:3,4)ためではなかろうか。 (清水名誉牧師)

■ 2017年3月26日レントⅣ礼拝 「イエスの逮捕」

「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。・・・イエスはペトロに言われた。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』」 (ヨハネ18:4,11)

 今年はヨハネによる福音書を通して、イエス様のご受難を覚えています。ヨハネは他の福音書にはない、威厳ある「わたしである」というキリストの言葉を書き残しています。裏切りと逮捕、十字架の苦しみと死は、「父が与えた杯」でした。しかし、その苦しみが、「何のためであるか」を主はご存知で、威光に満ちて雄々しく十字架の道を進まれました。その姿に、わたしたちもまた、父なる神の御心がある、ということを示されます。生涯の中の、闇と悩みの時も、神に見捨てられたのではないのです!(深谷牧師)

■ 2017年3月19日レントⅢ礼拝 「香油注ぎ」

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 (ヨハネ12:3)

 愛したい気持ちに急ブレーキがかかる時というのは、自分のしていることを嘲られたり、拒まれたりしないだろうかと不安になるときではないでしょうか。今朝の箇所は、聖書の中でも最も麗しい出来事のひとつです。マリアが捧げたナルドの香油は、主に向けられた感謝と献身のささげ物、そのものでした。主イエスの喜びをもって受け止めてくださった姿に、私たちの心も癒されます。(深谷牧師)

■ 2017年3月12日レントⅡ礼拝 「ヤコブの祝福の祈り」

「イスラエル(ヤコブ)はヨセフに言った。『お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。』・・・そして、ヨセフを祝福して言った。『わたしの先祖アブラハムとイサクがそのみ前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。』」(創世記48:11,15-16a)

 神はアブラハム、イサク、ヤコブの神としてイスラエルの歴史の中に生きておられた。
 ヨセフの子エフライムとマナセはヤコブの祝福を受けて族長に名を連ねられた。 (清水名誉牧師)

■ 2017年3月5日レントⅠ(祈りの友)礼拝 「復活の予告」

「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』…イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ2:19,21)

 受難節(レント)に入りました。復活節(イースター)まで約40日間は、主の十字架の苦難を偲び、贖いの意義を学ぶ季節です。
 今朝の箇所は「宮きよめ」と呼ばれ、柔和で優しい主イエスが怒りを露わにされた、珍しい記事です。その怒りは、形式的な儀式や、宗教による搾取に向けられたものでした。
 イエス様は自らの体を犠牲にすることで因習を終わらせ、復活によって新しい希望を私たちに示してくださったのです。(深谷牧師)

■ 2017年2月26日創立記念月間第4礼拝 「神への賛美」

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」(ロマ16:25)

 ロマ書も最後の頌栄に辿り着きました。ここに「宣教によって・・・」とあることに心を留めたいと思います。イエス様の愛を、救いの喜びを、私たちは誰から聞いたでしょう。それは身近にいて共に過ごした兄弟姉妹からです。偉大で立派な人物が福音を語るのではありません。この深遠な秘められた恵みは、私たち一人ひとりの言葉によって、伝えられているのです。 (深谷牧師)

■ 2017年2月19日創立記念特別礼拝 「本当の従順」

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」(ルカ6:46-47)

 本当に主イエスに従順な弟子というのは、主のお言葉に対して「主よ」、「アーメン」、「そのとおりです」などと、ただ相づちを打つ人ではありません。主のお言葉によって生き方が変えられる人のことです。
 生き方が変えられるほどに主のお言葉に従順であるなら、その土台の上に建てられた信仰はどのような風雪にも耐え、揺るぐことがありません。 (大井満牧師 日本キリスト合同教会板橋教会牧師、今年度京都ケズィク・コンベンション講師)

■ 2017年2月12日創立71周年記念日礼拝 「主よ、お話ください」

「主よ、お話しください。僕は聞いております。」(サムエル上 3:9)

 京都復興教会が、創立71周年を迎えたことを、主に感謝いたします。冒頭の聖句は、元旦礼拝から掲げている今年の聖句です。
 少年サムエルが、はじめて神の声を聞いたときに捧げた、唯一の祈りの言葉でした。「お祈り」を、多くの人は「願い事」と考えています。けれども本当は、祈りとは私たちの語りかけ以上に、神様からの語りかけを聴くことなのだとこの聖句は教えてくれます。そこに求められていることは、神への謙遜と聴従です。
 71年前に教会が創立されたとき、そこに集められた信仰の先達の、願いがあったことは確かですが、同時に、そこには神の御心に従っていく、という信仰の姿勢があったのです。「御心を聴く祈り」の1年をと願っています。 (深谷牧師)

■ 2017年2月5日創立記念月間第1礼拝 「父ヤコブとの再会」

「ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエル(ヤコブ)はヨセフに言った。『わたしはもう死んでも良い。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。』」(創世記46:29b-30)

 兄のユダが末の弟ベニヤミンの身代わりに奴隷となることを申し出ると、ヨセフはこらえきれなくなり自分の身をあかして泣いた。
 やがて帰国した兄弟達から、『ヨセフがまだ生きています』と聞いて、父ヤコブは気が遠くなったという。「野獣に食われて死んだ」とばかり思って22年。信じられないのも無理もなかった。夢のような再会である。 (清水名誉牧師)

■ 2017年1月29日礼拝 「神の家族として」

「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。」 (ロマ16:3-4)

 昨年亡くなられた、佐藤初女さんの「おにぎり」を一口食べる、それだけのために、多くの人がわざわざ青森の山の麓の「森のイスキア」を訪れました。悩みや苦しみがある人にとって、心の拠り所がある、ということは、どんな高価な物を持っていることよりも、嬉しいこと、ありがたいことなのだと教えられます。
 教会の交わりは、「神の家族」です。主の愛に触れて、重荷を降ろし、安らぐ場所が、ここに開かれているのです。 (深谷牧師)

■ 2017年1月22日礼拝 「協働の祈り」

「兄弟たち・・・愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、・・・平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」(ロマ15:30,33)

 壮大なロマ書も、ついに結びの祝福の箇所になりました。礼拝で例えるなら、最後の祝祷と報告の部分です。使徒パウロはここで、祝福と共に、ひとつの懇願を残しています。
 それは、「祈りのリクエスト」です。私たちも「祈りのカード」や「組会名簿」で、今週も祈りを合わせることでしょう。自分の名前が挙げられて、誰かに祈られている、その祝福が、日々私たちには必要なのです! (深谷牧師)

■ 2017年1月15日礼拝 「わたしを通して」

「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を努めているからです。」(ロマ15:15-16)

 ローマ書は15章13節までで、本論が終わりました。14節からは、まとめと締めくくりの部分になっています。著者パウロにとって、ローマの教会の人たちは未だ面識のない人たちでした。どうして、ここまで壮大な救済論を書き切ることができたのでしょう。それは最初に受けたキリストの光が、絶えず輝き、心を燃やされていたからなのでした。 (深谷牧師)

■ 2017年1月8日成人祝福式礼拝 「神は愛です」

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ12:6-7)

 酉年の新年を迎えて、先ずこのみ言が示されました。マタイ福音書では、「二羽の雀が一アサリオン」といわれていますから、五羽の中の一羽はおまけです。その一羽さえ、神はみ心に留めておられるというのです。さらに髪の毛一本残らず覚えられているとは驚くばかりです。神はそれほどに愛です。 (清水名誉牧師)

■ 2017年1月1日元旦礼拝 「祈りの生活」

「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております。」(サムエル上3:9)

 新年、あけましておめでとうございます。2017年に、主の祝福をお祈りいたします。
 冒頭の聖句は、旧約聖書の偉大な祭司サムエルが、はじめて神の声を聞いた時の一節です。以来、この「しもべ聴くべし、主よ語りたまえ」という言葉は、神への謙遜と聴従を表す言葉として愛唱されてきました。
 「お祈り」を、多くの人は「お願い事」と考えています。けれども本当は、祈りとは私たちからの語りかけ以上に、神様からの語りかけを聴くことなのです。今年から「神様の言葉を聴く祈り」を始めてみませんか。 (深谷牧師)