クリスマス物語の最後に登場するのは、「聖霊の人」シメオンと、「祈りの人」アンナという二人の老人です。レンブラント最晩年の遺作『神殿での幼な子キリストと共なるシメオン』は、柔らかな上からの光が二人を静かに照らしています。今年も最後の日曜日となりました。主への感謝と賛美の祈りを持って、共に1年を締めくくりましょう。
(深谷牧師)
深谷牧師の説教
街中にクリスマス・キャロル(賛美歌)が流れる季節になりました。人々の耳に、神様を誉め称える音楽が親しまれることを、とても嬉しく思います。世間に受け入れられているゴスペル・ミュージックは、ほとんどが英語の歌詞ですが、そこには福音(ゴスペル)の本質を表す言葉がちりばめられています。
Happy(幸い)、Joy(喜び)、Glory(栄光)、そしてPeace(平和)…不思議な力を与えるこの言葉が、この世に肉となって来られたのがイエス・キリスト、そのお方なのです!
(深谷牧師)
上掲のみ言には、主が「僕(しもべ)」の身分となって来られたと記されています。ギリシャ語の原本では「僕(しもべ)」は「奴隷」の語が使われています。主イエスが、わたしたちの救いのために限りなく謙(へりくだ)って来られたのでした。
主のご生誕を「ご降誕」といわれるように主は天から降って来られたのでした。
(清水名誉牧師)
ルツの子どもにオベドが生まれ、その子孫にダビデ王が誕生しました。ダビデの父の名がエッサイです。その子孫14代目に、ヨセフの子、イエスが生まれます。この壮大な歴史は「エッサイの木」と呼ばれています。
私たちの魂も、ルーツはここにあります。アドベントの季節、平安を祈ります。
(深谷牧師)
先週に続き、ルツ記を開きます。姑のナオミが、苦難から平安への象徴であれば、嫁のルツは忠実さによる祝福の象徴であると言えるでしょう。人間同士が定めた民族や宗教の隔ての壁を、ルツは静かに、しかし忠実さという力強さを持って乗り越えてしまいました。神様の真実が、落ち穂を拾う少女を包み、私たちに恵みを証ししています。
(深谷牧師)
戦争と混乱の士師記の世界から、今週と来週は、牧歌的な家族の、ルツ記の柔和な世界に、足を踏み入れることにいたしましょう。
今朝はナオミに目を留めます。「喜び」という意味の名前ですが、彼女の生涯は苦難と悲しみの連続でした。故郷で飢饉に見舞われ、遠い異郷の地では夫も二人の息子も死に、全てを失いました。しかし、彼女の最大の生涯の喜びはその先にありました。故郷ベツレヘムへ帰る道に光が射しています。
(深谷牧師)
障害者週間に合わせて、京都教区は毎年の11月第2主日を「障がい者と共に在る主日礼拝」として守ってきました。
上掲のみことばには使徒パウロによる弱い立場にある方々への配慮がうかがえます。
今日の交読文のイザヤ書では「彼は叫ばず、呼ばず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく…」と主の僕の姿が描かれ、主もまた「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招かれています。
(清水名誉牧師)
幼い頃に受け取るべき、最も大切な学びは「自分は愛されている」「世界は自分を受け入れてくれている」という自己認識だと言われます。何と単純な、そして何と伝えることの難しいメッセージでしょう!
今日の聖書の登場人物ギデオンは、弱虫でしたが、勇者に変えられました。その奇跡を起こした邂逅の言葉は「神が共にいる」です。目で見えるところは不確かながら、人生を変える不思議なパワーがこの言葉にはあるのです。この優しさに、小さい人も、大人になっている人も、包まれますように…。
(深谷牧師)
今朝の箇所は「ベネディクトゥス」と呼ばれています。ラテン語で「ほめ讃えよ」という意味です。私たちの日常の中に訪れる、ささやかな祝福に感じる出来事は、大きな神さまの御業の一部であるということを、この物語は伝えます。そして、その出来事はまた、その先の未来に続きがあるということも。ザカリヤの讃美にわたしたちも心を合わせ、神の恵みを、ほめたたえましょう。
(深谷牧師)
神さまは目に見えません。
それゆえ私たちは時に不安になり、時に疑ったり、動揺したりするのです。
この祈りははたして聞かれるのか?いったい神さまはどこにいるのか?と。
そうした思いというのは、きっと多くの人々が持ってきたものだったのでしょう。
だからこそ聖書は私たちに神さまの居場所をつたえるのです。
申命記30章も伝えます。神さまはどこか遠くにいるのではなく、実は私たちの近くにいてくださっていると。そうインマヌエルです!主は我らと共に!だから大丈夫!安心していきましょう!!
(奈良教会 栗原宏介牧師)
ルカは「喜びの福音書」と呼ばれています。しかし、この福音書が告げる喜びは、必ず「世界のかたすみ」の悩める人々に、賛美と祈りに包まれて、与えられています。
老夫婦ザカリアとエリサベトに与えられた恵みは、それまでの何十年の歳月をさえ、ばら色に塗り替えていったことでしょう。ふたりの力強い賛美は、救い主の到来という喜びの光が、どんな暗闇も打ち破る素晴らしい喜びであることを証ししています。
(深谷牧師)
CSでは、この8月から、モーセ物語を学んで来ました。今月からは待降節まで、モーセ没後、その信仰を受け継いで約束の国カナンに住んだイスラエルの歴史を紐解きます。
ヨルダン川は、約束の地への最初のハードルでした。主は、あの紅海を分けたモーセと同じ奇跡をもって、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(1章)と宣言された臨在を示し、民は勇気づけられたのでした。
(深谷牧師)
「マグニフィカート」と呼ばれ、親しまれているのが、今朝の聖書箇所です。これはラテン語での冒頭「あがめる」という一語に由来します。ギリシャ語では「メガリューネイ」で、この原意は「大きくする」という意味です。「メガ」という言葉は今でも使われます。
マリアの霊魂に、神の恵みは決して小さいものではありませんでした。「わたしの心に、神が大きくなりました」その告白が、魂を変えた賛美の本質です。私たちはどうでしょう。神より大きい存在はないのです!
(深谷牧師)
「主の祈り」には「御国を来たらせ給え」という一節があります。これは、死の恐れを取り除く、信仰告白です。信仰者にとって、臨終の時は、願いが叶った待望の日、それまでの日々は輝く完成に向かうカレンダーなのです。
緒形先生が霊感を受けたというこの聖句は、私たちの霊も魂も体も、その終わりに近づくとき、イエス様の十字架と復活によって、ますます「非のうちどころのないものとしてくださる」という真理を私たちに示しています。
主イエス・キリストの与えてくださった、救いの恵みを受け取る幸いはここにあります。死の波が迫ろうとも、神の愛を待ち望む人の心は、御国を待望する永遠の希望によって燃やされ、慰めと平安が与えられるのですから。
(深谷牧師)
ホレブとシナイは同一の地名。ホレブは乾燥した地、シナイ山は聖なる山の意味。
ここでモーセが杖をふり上げ岩を打つと清水が湧き出て民の渇きを癒されたという。
主イエスはサマリアの地を訪れ、一人の女性に語っておられる。「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。」と。
(清水名誉牧師)
不安でいっぱいのマリアを迎えたのは、溢れる喜びに満ちた大きなお腹のエリサベトでした。対照的な二人でしたが、同じ信仰の恵みを与えられた者として、その再会を喜び、思いは胸いっぱいに広がりました。
教会は、週に一度、兄弟姉妹と再開する場所と言えます。私たちが共に交わす挨拶と、祈りと賛美のその真ん中に、イエス様がいてくださいます。祝福の基として!
(深谷牧師)
前回の洗礼者ヨハネの誕生の出来事に共通する、今朝の箇所のテーマは、神の恩恵と力に導かれた物語であるということです。
おとめマリアは主イエスの母として、神に選ばれました。しかし、彼女が選ばれた理由は神の神秘として私たちには分かりません。わかることは、マリアが神の招きに従い、御力のかげに身を委ねたということです。
私たちも、その心の王座、真ん中を神に明け渡すとき、奇跡の扉が開くのです。
(深谷牧師)
礼拝に出席して恐かった、という人はまずいないでしょう。しかし、老司祭ザカリアにとって、この日の神殿は、恐怖の念に襲われた日になりました。そして、それは言葉に表せないほどの喜びと感謝に変えられました。待ち望んでいた願いがかなえられたのです。
私たちがイエス様と出会い、この方を知り、信じる時、ザカリアと同じことが起こります。奇跡は、今も起こるのです
(深谷牧師)
ヘブライ書が終わり、本日からルカによる福音書を紐解きます。ルカは使徒言行録も執筆しており、パウロに次いで新約聖書のなかで執筆した割合の多い著者です。エマオの途上や放蕩息子の例え話など、芸術的な美しい場面を数々残しました。その根底に流れるのは、終末の時代に、新しい平和をもたらした救い主イエス・キリストの証言です。
(深谷牧師)
主はイスラエルの民のために、夕方にはうずらを、朝にはマナを降らせられた。こうして主は40年間にわたり民を養われたという。
主イエスは『わたしは命のパンである。…わたしは、天から降って来た生きたパンである。』と語っておられます。(ヨハネ6:48)また、ペトロも『あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』(ヨハネ6:68)と述べています。私たちも命のパンであるみ言葉により日々養われるのです。
(清水名誉牧師)
一番簡単に仲間を作る、悪い方法を知っていますか。それは共通の「嫌な人」を作ることです。その仲間は、大きな滝壺に向かう流れの船に乗っているようなもので、時間がたつほど、降りることは難しくなります。
イエス様の教えは、いつの時代も「流行遅れ」で、人気がありません。しかし、繁栄と権力という世の流れをはずれて、「愛敵」というイエス様の十字架と復活を信じる道に歩むとき、その先に永遠の神の愛という清い岸辺に私たちはたどり着くのです。
(深谷牧師)
バイブルキャンプに参加する子供たちは、友達との1年ぶりの再会に、ワクワクしています。私たちも、やがて御国で主イエスと再会します。この信頼と期待が、魂に無限の愛を満たします。さあ共に、キリストの体の部分として、天国の光を放ちましょう。
(深谷牧師)
約2年間、読み続けてきたヘブライ書も、今朝で終わりです。上掲の聖句は、葬儀の際の終祷として用いられています。そこには、地上の生涯を御心に適うよう歩んだ人に、御国に引き上げてくださる復活の約束が、主の栄光の中に輝いています。ハレルヤ!
(深谷牧師)
神学生時代に、『たいせつなきみ』(作:マックス・ルケード)という一冊の絵本と出会いました。パンチネロという主人公の人形が、自分を造ってくれた木彫り師エリと出会い、自信を取り戻す、心を揺さぶる物語です。
今朝のみ言葉は、パンチネロと同じように、私たちにも「作者」がいる、と語りかけます。そして、その方は私たち一人ひとりを「たいせつなきみ」と想ってくださっているのです。その方こそ、父なる神様です。
(深谷牧師)
イスラエルはエジプト人から求めた金銀宝石や家畜を連れて意気揚々とエジプトを出発した。その数は壮年男子だけで60万人。昼は雲の柱、夜は日の柱に導かれて海辺に到着。ファラオは膨大な労働力を失ったことに気づき軍隊を率いて追撃するが、目の前の海が真っ二つに分かれてイスラエルは逃れることができ、主の栄光と勝利が賛えられた。
(清水名誉牧師)
世界遺産に、長崎の「潜伏キリシタン遺跡」が登録されました。禁教と弾圧下にあって、信仰を貫いた先人の姿が、人々に感動を与えることでしょう。人生の中の最大の喜びは「出会い」であるとも言われます。命が輝いた信仰の先輩の姿を間近に見られることは、何と幸いなことなのでしょう。まぶたの奥に思い浮かぶ、敬愛する方々を包んでいる主の光は、私たちをも照らす恵みです。
(深谷牧師)
「宗教弾圧」という言葉は、過去の出来事、あるいは遠い国の話だと思っているかもしれません。しかし、私たちの教会には、75年前に紛れもない迫害を経験した先生とご家族、そして兄弟姉妹がおられたのです。その兄姉の証しを読ませていただく時、特別な励ましを私たちは受け取ることができます。それは誠に尊い信仰の遺産です。
(深谷牧師)
病気の治療にも「診察、手術、静養」と段階があります。霊的な癒しにも「求め、いやし、本当の回復」とプロセスがあります。
上掲のサマリヤ人は癒されて、神に栄光を帰するために主の許に帰って来ました。神癒の恵みは、その瞬間が全てではありません。むしろその真髄は、そこから始まる時の中で神様を賛美することにあるのです。
(深谷牧師)
五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を養われたという。この偉大な奇跡は四福音書に揃って記されていて他に例がない。この大きな主の恵みと祝福をもたらしたのは、一人の少年の素直な信仰と捧げものであったことを忘れてはならない。
(清水名誉牧師)
聖書が示す世界観は、初めがあり、終わりがある、というものです。世界で起こることは全て一度限りであり、私たちの生涯もその中にあって生かされていると教えられます。
「新生」とは、イエス様を信じて、古い自分に死んで、新しい命に生きる者となった、ということをあらわしています。
やり直しも、繰り返しも要らない、与えられた生涯を、天の御国を目指して歩むスタートラインが、「新生」の恵みです!
(深谷牧師)
使徒言行録は「聖霊の働き」と言われるほど、宣教の働きを導かれる聖霊さまの働きが書き記されています。ペンテコステは、聖霊さまが私たち人間に降って下さり、「教会」の誕生を示す時となりました。その聖霊さまは現在も私たちの所に来て下さり、共に歩んで下さっています。この聖霊さまと共に歩む時、私たちはどのようなことを体験するでしょうか。
聖霊さまの働き、その業には様々なものがありますが、今日は特に、聖霊さまによって与えられる「希望」に注目したいと思います。希望の源である神の霊を宿す者とされた私たちは、どのような希望を抱き、現し、生きていくでしょうか。与えられた大きな恵みに目を向け、希望の光を現していきましょう!
(喬木教会 伊奈聡牧師)
今朝はペンテコステです。弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことを祝う日です。特別な才能や感覚などを、教会では「賜物」と言います。個性によってその賜物は違います。しかし、誰もが受け取れる賜物もあります。それが聖霊、神の愛を知る思いです。
(深谷牧師)
ルツ記はルツの姑ナオミの物語でもある。飢饉で身を寄せたモアブで夫に先立たれ、二人の息子も成人して結婚したが二人の嫁を残して死んだ。ナオミは二人の嫁に再婚を勧めるも、一人ルツはナオミを離れず共にベツレヘムへ帰郷。ナオミは落穂を拾うルツの幸せを祈る。やがてルツは親戚のボアズの好意を得て二人は結ばれる。ナオミは大きな慰めを受ける。ナオミの祈りはやがてイエス・キリストの系図へとつながる。「ボアズはルツによりオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」(マタイ1:5-6)
(清水名誉牧師)
ヘブライ書は、信じることに疲れ果てている人に、最後のスーパービジョンを示しています。それは、信仰者の行き着く先には天国の祝宴が待っている、という希望です。
「シオンの山」とはエルサレムを指す言葉ですが、神が愛し、その平和が臨在する場所の象徴として、用いられています。
(深谷牧師)
ヘブライ書の最骨頂「信仰によって生きよ」という11~12章のメッセージを過ぎ、少しずつ山をくだる箇所に差し掛かってきました。山登りの下山の時にも、峠を越えると、生活している町並みが見下ろせます。いつもの生活の中に、信仰を働かせなさい、と今朝の箇所は勧めます。罪を除き、神様が喜ぶ、まっすぐな道を歩んで行きましょう!
(深谷牧師)
教会総会の朝、ヘブライ書12章のみ言葉を与えられたことを感謝いたします。私たちの歩みを振り返り、信仰の道に絡みつく雑草のような罪の思いを焼き捨てましょう。そしてイエス様が、人生に伴ってくださることを心に留めて、温かい道を歩みましょう。
(深谷牧師)
ヘブライ書の11章は「救済絵巻の扇」です。次々と信仰者が実名で登場し、その生涯の輝きにスポットライトが照らされます。そして、その最後の部分に、私たちが書き込まれていることを気付かされるのです。
それはつまり、今度はあなたが、目の前の嵐の中に、信仰を持って進んでゆく番なのだという、力強いメッセージなのです。
(深谷牧師)
最後の大きな災害に、さすがのファラオもたまらずイスラエルの出発を許可した。人々はエジプト人から金銀の装飾品や衣類を得て出発。主は彼らの無事出発を寝ずの番をして守られた。今も主は、私たちの信仰の旅路を眠ることなく見守っておられる。
(清水名誉牧師)
深谷牧師の説教
教会学校で聞いて、今でも忘れられないお話があります。ある女の子のお母さんが、顔にひどい火傷の跡があり、女の子は年頃になるとお母さんと一緒に外を歩くのが嫌になった、しかし実はそれは、自分が赤ちゃんの時、火事の中から助け出した時に受けた傷の跡だった、という事を知って、その子はお母さんに心から詫び、その愛に感激した…。
イエス様の十字架は、酷い姿です。しかしそれが私たちを救うためであったと知る時、神の愛の大きさとなり、迫ってきます。
(深谷牧師)
イエス様が十字架刑に架けられる前夜、悶え苦しみながら祈られた「ゲッセマネ」という場所は、「油絞り」という意味だそうです。樹齢の古いオリーブの木が茂る山中で、主イエスは、心を絞りだすように祈られました。しかし、最後には「御心のままに」と、すべてを神様に委ねて、それを三たび繰り返されたと記されています。(39、42、44節)
神様のご計画にお委ねする、その信仰が、私たちに示され、教えられています。
(深谷牧師)
モーセが産まれた時、イスラエルの民にとっては最も暗い時代でした。(出エジプト記1~2章)それは彼をイスラエルの指導者として備える為に敢えてあり得ない状況を神が作られたのです。私たちには神のなさる全てが見えているわけではありません。神の定めは極め尽くせず、神の道は理解し尽くせないから神なのです。
(ケルン・ボン日本語教会 佐々木良子牧師 )
モーセはエジプト王ファラオに立ち向かい「イスラエルの人々を去らせよ。」と求めたが、ファラオは心を頑なにして拒否し続けたので主が下された災いは10回に及んだ。最後にエジプト中の初子が撃たれたが、イスラエルの家々は門の柱と鴨居に小羊の血を塗ったので災は過越された。この「主の過越」がイスラエルの建国の記念日となっている。
わたしたちの救いのために、主は「神の小羊として十字架上に血を流されている。
(清水名誉牧師)
ヘブライ書の中でも、最も有名な聖句と言えば、上掲の箇所でしょう。パウロの第二コリント4章後半のみ言葉にも重なります。
創立記念月間最後の礼拝です。72年という歩みは、奇跡の連続であったと言えるでしょう。初代牧師の緒形先生、殉教者となられた戦前の竹入先生、粟津兄、山口兄、塚本兄、貞安兄・・・一人一人の信仰によって、見えなかった現在の祝福が、実現しました。私たちもこの尊い信仰に生きましょう!
(深谷牧師)
冬季オリンピックの選手たちの姿に、世界中の人々が、感動をもらったことでしょう。厳しい試練と苦しい練習に耐え、勝利を勝ち取った王者の歓喜は、古代オリンピックの時代から、永遠に変わることがありません。
ヘブライ書は、信仰の道を辿る私たちを、この競技者の列に並ぶ者と見做して、天国の栄冠を目指して走り続けるように、励ましています。信仰の創始者イエスの瞳で。
(深谷牧師)
上掲の聖句は、今年の教会標語のみことばとして与えられた、預言者イザヤの「執りなしと嘆き」の中の一節です。
私たちは、誰一人として、同じ人間はいません。しかしそれは、神の作品である故である、と聖書は語ります。「作者の意図」が解ると、その色彩は一層輝きます。私たちが、働きに喜びと充実感を得ている時、それはきっと、「賜物」をくださった創造主の想いが輝いている、ということなのです。
(深谷牧師)
モーセとアロンのファラオとの交渉は難航し、かえって民には重い労役が課せられる結果となった。苦境に立たされたモーセに神は「わたしは主(ヘブライ名=アドナイ、天地の最高の位の名)である。」と力強く宣言してモーセを励ましておられる。
(清水名誉牧師)
「人が本当に望むものは、慰めよりも励ましである」と聞いたことがあります。それは、ただ現実に寄り添ってくれるというのではなく、その先にある希望を指し示してくれる存在を、みんな一番探し求めているということなのだと思います。イエス様の血潮に贖われたことを信じて生きる道は、細く狭い道ですが、確かな希望に続く、愛に生きる道だ、今朝の箇所は私たちを励ましています。
(深谷牧師)
現代人には縁遠い話に感じる箇所ですが、ヘブライ書が最も語りたかった核心部分が、今朝の内容です。それは、キリストが私たちの犠牲となられた、ということです。偶然に生きているのではなく、恵みによって生かされている。そこに、希望が生まれます。
(深谷牧師)
上掲の聖句は、旧約聖書エレミヤ書31章31節からの言葉を引用です。そして、そこに預言されている「新しい契約」こそ、イエス・キリストなのだと語っています。
イエス様というお方は、外面的にはみすぼらしい敗北者のようです。けれども、この方は信じようと思う人の心に、確かな思いを刻みつけてくださるお方です。つらい現実との狭間で苦しんでいる魂に、不義を赦し、恵みと喜びを与えてくださるお方なのです。
(深谷牧師)
其枝幼稚園の名の由来は、ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」しかし、その先を見るとこの章のテーマが「愛」であることがわかる。その愛とは「友のために命を捨てる愛」だという。主が友と呼ばれるのは弟子たちであり、わたしたちではないか。主は十字架に死なれるほどわたしたちを愛しておられる。この愛がすべての人を、「命」へと導かれるのである。
(清水名誉牧師)