今日のみことば(2018年)
2018年の聖句「わたしたちは皆、あなたの御手の業」(イザヤ64:7)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2018年12月30日年末感謝礼拝 「今こそ、安らかに」

「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)

 クリスマス物語の最後に登場するのは、「聖霊の人」シメオンと、「祈りの人」アンナという二人の老人です。レンブラント最晩年の遺作『神殿での幼な子キリストと共なるシメオン』は、柔らかな上からの光が二人を静かに照らしています。今年も最後の日曜日となりました。主への感謝と賛美の祈りを持って、共に1年を締めくくりましょう。
(深谷牧師)

■ 2018年12月23日クリスマス礼拝 「飼い葉桶を覗いて」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:15-20)

 深谷牧師の説教

■ 2018年12月16日アドベントⅢ礼拝 「ピース オン アース」

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)

 街中にクリスマス・キャロル(賛美歌)が流れる季節になりました。人々の耳に、神様を誉め称える音楽が親しまれることを、とても嬉しく思います。世間に受け入れられているゴスペル・ミュージックは、ほとんどが英語の歌詞ですが、そこには福音(ゴスペル)の本質を表す言葉がちりばめられています。
 Happy(幸い)、Joy(喜び)、Glory(栄光)、そしてPeace(平和)…不思議な力を与えるこの言葉が、この世に肉となって来られたのがイエス・キリスト、そのお方なのです!
(深谷牧師)

■ 2018年12月9日アドベントⅡ礼拝 「僕(しもべ)の身分になり」

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

 上掲のみ言には、主が「僕(しもべ)」の身分となって来られたと記されています。ギリシャ語の原本では「僕(しもべ)」は「奴隷」の語が使われています。主イエスが、わたしたちの救いのために限りなく謙(へりくだ)って来られたのでした。
 主のご生誕を「ご降誕」といわれるように主は天から降って来られたのでした。
(清水名誉牧師)

■ 2018年12月2日アドベントⅠ礼拝(祈りの友礼拝) 「エッサイの木」

「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(ルカ2:4)
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」(イザヤ11:1-2)

 ルツの子どもにオベドが生まれ、その子孫にダビデ王が誕生しました。ダビデの父の名がエッサイです。その子孫14代目に、ヨセフの子、イエスが生まれます。この壮大な歴史は「エッサイの木」と呼ばれています。
 私たちの魂も、ルーツはここにあります。アドベントの季節、平安を祈ります。
(深谷牧師)

■ 2018年11月25日収穫感謝・謝恩日礼拝 「神の祝福」

「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられるように。」(ルツ4:14)
「忠実な人は多くの祝福を受ける。」(箴言28:20)

 先週に続き、ルツ記を開きます。姑のナオミが、苦難から平安への象徴であれば、嫁のルツは忠実さによる祝福の象徴であると言えるでしょう。人間同士が定めた民族や宗教の隔ての壁を、ルツは静かに、しかし忠実さという力強さを持って乗り越えてしまいました。神様の真実が、落ち穂を拾う少女を包み、私たちに恵みを証ししています。
(深谷牧師)

■ 2018年11月18日礼拝 「魂の逃れ場」

「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。」(ルツ1:16)

 戦争と混乱の士師記の世界から、今週と来週は、牧歌的な家族の、ルツ記の柔和な世界に、足を踏み入れることにいたしましょう。
 今朝はナオミに目を留めます。「喜び」という意味の名前ですが、彼女の生涯は苦難と悲しみの連続でした。故郷で飢饉に見舞われ、遠い異郷の地では夫も二人の息子も死に、全てを失いました。しかし、彼女の最大の生涯の喜びはその先にありました。故郷ベツレヘムへ帰る道に光が射しています。
(深谷牧師)

■ 2018年11月11日障がい者と共に在る主日礼拝 「主の僕(しもべ)の生涯」

「強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」(ローマの信徒への手紙 15:1)

 障害者週間に合わせて、京都教区は毎年の11月第2主日を「障がい者と共に在る主日礼拝」として守ってきました。
 上掲のみことばには使徒パウロによる弱い立場にある方々への配慮がうかがえます。
 今日の交読文のイザヤ書では「彼は叫ばず、呼ばず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく…」と主の僕の姿が描かれ、主もまた「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招かれています。
(清水名誉牧師)

■ 2018年11月4日幼児祝福式礼拝 「神共にいます」

「主の御使いは彼に現れて言った。『勇者よ、主はあなたと共におられます。』」(士師6:12)

 幼い頃に受け取るべき、最も大切な学びは「自分は愛されている」「世界は自分を受け入れてくれている」という自己認識だと言われます。何と単純な、そして何と伝えることの難しいメッセージでしょう!
 今日の聖書の登場人物ギデオンは、弱虫でしたが、勇者に変えられました。その奇跡を起こした邂逅の言葉は「神が共にいる」です。目で見えるところは不確かながら、人生を変える不思議なパワーがこの言葉にはあるのです。この優しさに、小さい人も、大人になっている人も、包まれますように…。
(深谷牧師)

■ 2018年10月28日礼拝 「平和の光を詠う」

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。… この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ1:68,78-79)

 今朝の箇所は「ベネディクトゥス」と呼ばれています。ラテン語で「ほめ讃えよ」という意味です。私たちの日常の中に訪れる、ささやかな祝福に感じる出来事は、大きな神さまの御業の一部であるということを、この物語は伝えます。そして、その出来事はまた、その先の未来に続きがあるということも。ザカリヤの讃美にわたしたちも心を合わせ、神の恵みを、ほめたたえましょう。
(深谷牧師)

■ 2018年10月21日ホ群講壇交換礼拝 「神さまと遠距離恋愛!?」

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある」(申命記30:14)

 神さまは目に見えません。
 それゆえ私たちは時に不安になり、時に疑ったり、動揺したりするのです。
 この祈りははたして聞かれるのか?いったい神さまはどこにいるのか?と。
 そうした思いというのは、きっと多くの人々が持ってきたものだったのでしょう。
 だからこそ聖書は私たちに神さまの居場所をつたえるのです。
 申命記30章も伝えます。神さまはどこか遠くにいるのではなく、実は私たちの近くにいてくださっていると。そうインマヌエルです!主は我らと共に!だから大丈夫!安心していきましょう!!
(奈良教会 栗原宏介牧師)

■ 2018年10月14日神学校日礼拝 「喜びの前触れ」

「月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」(ルカ1:57-58)

 ルカは「喜びの福音書」と呼ばれています。しかし、この福音書が告げる喜びは、必ず「世界のかたすみ」の悩める人々に、賛美と祈りに包まれて、与えられています。
 老夫婦ザカリアとエリサベトに与えられた恵みは、それまでの何十年の歳月をさえ、ばら色に塗り替えていったことでしょう。ふたりの力強い賛美は、救い主の到来という喜びの光が、どんな暗闇も打ち破る素晴らしい喜びであることを証ししています。
(深谷牧師)

■ 2018年10月7日世界聖餐日礼拝 「ヨルダン川を渡る」

「ヨルダン川の水は堤を超えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。」(ヨシュア3:15-16)

 CSでは、この8月から、モーセ物語を学んで来ました。今月からは待降節まで、モーセ没後、その信仰を受け継いで約束の国カナンに住んだイスラエルの歴史を紐解きます。
 ヨルダン川は、約束の地への最初のハードルでした。主は、あの紅海を分けたモーセと同じ奇跡をもって、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(1章)と宣言された臨在を示し、民は勇気づけられたのでした。
(深谷牧師)

■ 2018年9月30日礼拝 「御名を崇めて」

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1:46-47)

 「マグニフィカート」と呼ばれ、親しまれているのが、今朝の聖書箇所です。これはラテン語での冒頭「あがめる」という一語に由来します。ギリシャ語では「メガリューネイ」で、この原意は「大きくする」という意味です。「メガ」という言葉は今でも使われます。
 マリアの霊魂に、神の恵みは決して小さいものではありませんでした。「わたしの心に、神が大きくなりました」その告白が、魂を変えた賛美の本質です。私たちはどうでしょう。神より大きい存在はないのです!
(深谷牧師)

■ 2018年9月23日合同記念礼拝 「御国を来たらせ給え」

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)

 「主の祈り」には「御国を来たらせ給え」という一節があります。これは、死の恐れを取り除く、信仰告白です。信仰者にとって、臨終の時は、願いが叶った待望の日、それまでの日々は輝く完成に向かうカレンダーなのです。
 緒形先生が霊感を受けたというこの聖句は、私たちの霊も魂も体も、その終わりに近づくとき、イエス様の十字架と復活によって、ますます「非のうちどころのないものとしてくださる」という真理を私たちに示しています。
 主イエス・キリストの与えてくださった、救いの恵みを受け取る幸いはここにあります。死の波が迫ろうとも、神の愛を待ち望む人の心は、御国を待望する永遠の希望によって燃やされ、慰めと平安が与えられるのですから。
(深谷牧師)

■ 2018年9月16日礼拝 「命の岩清水」

「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」(出エジプト17:6)
「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書4:14)

 ホレブとシナイは同一の地名。ホレブは乾燥した地、シナイ山は聖なる山の意味。
 ここでモーセが杖をふり上げ岩を打つと清水が湧き出て民の渇きを癒されたという。
 主イエスはサマリアの地を訪れ、一人の女性に語っておられる。「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。」と。
(清水名誉牧師)

■ 2018年9月9日献堂11周年記念礼拝 「聖霊に満たされて」

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。…』」(ルカ1:41-42)

 不安でいっぱいのマリアを迎えたのは、溢れる喜びに満ちた大きなお腹のエリサベトでした。対照的な二人でしたが、同じ信仰の恵みを与えられた者として、その再会を喜び、思いは胸いっぱいに広がりました。
 教会は、週に一度、兄弟姉妹と再開する場所と言えます。私たちが共に交わす挨拶と、祈りと賛美のその真ん中に、イエス様がいてくださいます。祝福の基として!
(深谷牧師)

■ 2018年9月2日礼拝 「ブレイクスルー」

「『神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」(ルカ1:37-38)

 前回の洗礼者ヨハネの誕生の出来事に共通する、今朝の箇所のテーマは、神の恩恵と力に導かれた物語であるということです。
 おとめマリアは主イエスの母として、神に選ばれました。しかし、彼女が選ばれた理由は神の神秘として私たちには分かりません。わかることは、マリアが神の招きに従い、御力のかげに身を委ねたということです。
 私たちも、その心の王座、真ん中を神に明け渡すとき、奇跡の扉が開くのです。
(深谷牧師)

■ 2018年8月26日礼拝 「恐れと喜び」

「主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。』」(ルカ1:11-13)

 礼拝に出席して恐かった、という人はまずいないでしょう。しかし、老司祭ザカリアにとって、この日の神殿は、恐怖の念に襲われた日になりました。そして、それは言葉に表せないほどの喜びと感謝に変えられました。待ち望んでいた願いがかなえられたのです。
 私たちがイエス様と出会い、この方を知り、信じる時、ザカリアと同じことが起こります。奇跡は、今も起こるのです
(深谷牧師)

■ 2018年8月19日礼拝 「目撃した福音」

「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」(ルカ1:3-4)

 ヘブライ書が終わり、本日からルカによる福音書を紐解きます。ルカは使徒言行録も執筆しており、パウロに次いで新約聖書のなかで執筆した割合の多い著者です。エマオの途上や放蕩息子の例え話など、芸術的な美しい場面を数々残しました。その根底に流れるのは、終末の時代に、新しい平和をもたらした救い主イエス・キリストの証言です。
(深谷牧師)

■ 2018年8月12日礼拝 「命のパン」

「モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたがたに食物として与えられたパンである。』…イスラエルの家では、それをマナと名付けた。」(出エジプト記16:15,31)

 主はイスラエルの民のために、夕方にはうずらを、朝にはマナを降らせられた。こうして主は40年間にわたり民を養われたという。
 主イエスは『わたしは命のパンである。…わたしは、天から降って来た生きたパンである。』と語っておられます。(ヨハネ6:48)また、ペトロも『あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』(ヨハネ6:68)と述べています。私たちも命のパンであるみ言葉により日々養われるのです。
(清水名誉牧師)

■ 2018年8月5日平和主日礼拝 「敵を愛するということは」

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6:27)

 一番簡単に仲間を作る、悪い方法を知っていますか。それは共通の「嫌な人」を作ることです。その仲間は、大きな滝壺に向かう流れの船に乗っているようなもので、時間がたつほど、降りることは難しくなります。
 イエス様の教えは、いつの時代も「流行遅れ」で、人気がありません。しかし、繁栄と権力という世の流れをはずれて、「愛敵」というイエス様の十字架と復活を信じる道に歩むとき、その先に永遠の神の愛という清い岸辺に私たちはたどり着くのです。
(深谷牧師)

■ 2018年7月29日礼拝 「顔と顔を合わせて」

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、…はっきり知ることになる。それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 (コリントⅠ 13:12-13)

 バイブルキャンプに参加する子供たちは、友達との1年ぶりの再会に、ワクワクしています。私たちも、やがて御国で主イエスと再会します。この信頼と期待が、魂に無限の愛を満たします。さあ共に、キリストの体の部分として、天国の光を放ちましょう。
(深谷牧師)

■ 2018年7月22日礼拝 「主の栄光」

「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」(ヘブライ13:20-21)

 約2年間、読み続けてきたヘブライ書も、今朝で終わりです。上掲の聖句は、葬儀の際の終祷として用いられています。そこには、地上の生涯を御心に適うよう歩んだ人に、御国に引き上げてくださる復活の約束が、主の栄光の中に輝いています。ハレルヤ!
(深谷牧師)

■ 2018年7月15日CS合同礼拝 「神の愛がともに」

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(新改訳) (イザヤ43:4a)

 神学生時代に、『たいせつなきみ』(作:マックス・ルケード)という一冊の絵本と出会いました。パンチネロという主人公の人形が、自分を造ってくれた木彫り師エリと出会い、自信を取り戻す、心を揺さぶる物語です。
 今朝のみ言葉は、パンチネロと同じように、私たちにも「作者」がいる、と語りかけます。そして、その方は私たち一人ひとりを「たいせつなきみ」と想ってくださっているのです。その方こそ、父なる神様です。
(深谷牧師)

■ 2018年7月8日礼拝 「栄光を現す主」

「主はモーセに言われた。…『杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。…わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。』」 (出エジプト14:15,16,18)

 イスラエルはエジプト人から求めた金銀宝石や家畜を連れて意気揚々とエジプトを出発した。その数は壮年男子だけで60万人。昼は雲の柱、夜は日の柱に導かれて海辺に到着。ファラオは膨大な労働力を失ったことに気づき軍隊を率いて追撃するが、目の前の海が真っ二つに分かれてイスラエルは逃れることができ、主の栄光と勝利が賛えられた。
(清水名誉牧師)

■ 2018年7月1日祈りの友礼拝 「信仰のバトン」

「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。…恵みによって心が強められるのはよいことです。」(ヘブライ13:7,9)

 世界遺産に、長崎の「潜伏キリシタン遺跡」が登録されました。禁教と弾圧下にあって、信仰を貫いた先人の姿が、人々に感動を与えることでしょう。人生の中の最大の喜びは「出会い」であるとも言われます。命が輝いた信仰の先輩の姿を間近に見られることは、何と幸いなことなのでしょう。まぶたの奥に思い浮かぶ、敬愛する方々を包んでいる主の光は、私たちをも照らす恵みです。
(深谷牧師)

■ 2018年6月24日弾圧記念日礼拝 「1942年6月26日」

「愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。」(ユダ3)

 「宗教弾圧」という言葉は、過去の出来事、あるいは遠い国の話だと思っているかもしれません。しかし、私たちの教会には、75年前に紛れもない迫害を経験した先生とご家族、そして兄弟姉妹がおられたのです。その兄姉の証しを読ませていただく時、特別な励ましを私たちは受け取ることができます。それは誠に尊い信仰の遺産です。
(深谷牧師)

■ 2018年6月17日礼拝(四重の福音・神癒) 「神癒」

「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」 ( ルカ17:14-15 )

 病気の治療にも「診察、手術、静養」と段階があります。霊的な癒しにも「求め、いやし、本当の回復」とプロセスがあります。
 上掲のサマリヤ人は癒されて、神に栄光を帰するために主の許に帰って来ました。神癒の恵みは、その瞬間が全てではありません。むしろその真髄は、そこから始まる時の中で神様を賛美することにあるのです。
(深谷牧師)

■ 2018年6月10日花の日・子供の日礼拝 「少年の献げもの」

「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』…イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。」(ヨハネ6:8-11)

 五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を養われたという。この偉大な奇跡は四福音書に揃って記されていて他に例がない。この大きな主の恵みと祝福をもたらしたのは、一人の少年の素直な信仰と捧げものであったことを忘れてはならない。
(清水名誉牧師)

■ 2018年6月3日祈りの友礼拝(四重の福音・新生) 「新生」

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)

 聖書が示す世界観は、初めがあり、終わりがある、というものです。世界で起こることは全て一度限りであり、私たちの生涯もその中にあって生かされていると教えられます。
 「新生」とは、イエス様を信じて、古い自分に死んで、新しい命に生きる者となった、ということをあらわしています。
 やり直しも、繰り返しも要らない、与えられた生涯を、天の御国を目指して歩むスタートラインが、「新生」の恵みです!
(深谷牧師)

■ 2018年5月27日ペンテコステ特別礼拝 「希望に満ちるペンテコステ」

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」(使徒言行録2:2)

 使徒言行録は「聖霊の働き」と言われるほど、宣教の働きを導かれる聖霊さまの働きが書き記されています。ペンテコステは、聖霊さまが私たち人間に降って下さり、「教会」の誕生を示す時となりました。その聖霊さまは現在も私たちの所に来て下さり、共に歩んで下さっています。この聖霊さまと共に歩む時、私たちはどのようなことを体験するでしょうか。
 聖霊さまの働き、その業には様々なものがありますが、今日は特に、聖霊さまによって与えられる「希望」に注目したいと思います。希望の源である神の霊を宿す者とされた私たちは、どのような希望を抱き、現し、生きていくでしょうか。与えられた大きな恵みに目を向け、希望の光を現していきましょう!
(喬木教会 伊奈聡牧師)

■ 2018年5月20日ペンテコステ礼拝 「ペンテコステの恵み」

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」(使徒2:37-38)

 今朝はペンテコステです。弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことを祝う日です。特別な才能や感覚などを、教会では「賜物」と言います。個性によってその賜物は違います。しかし、誰もが受け取れる賜物もあります。それが聖霊、神の愛を知る思いです。
(深谷牧師)

■ 2018年5月13日母の日礼拝 「母ナオミの祈り」

「ルツは言った。『あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。』」(ルツ1:15)

 ルツ記はルツの姑ナオミの物語でもある。飢饉で身を寄せたモアブで夫に先立たれ、二人の息子も成人して結婚したが二人の嫁を残して死んだ。ナオミは二人の嫁に再婚を勧めるも、一人ルツはナオミを離れず共にベツレヘムへ帰郷。ナオミは落穂を拾うルツの幸せを祈る。やがてルツは親戚のボアズの好意を得て二人は結ばれる。ナオミは大きな慰めを受ける。ナオミの祈りはやがてイエス・キリストの系図へとつながる。「ボアズはルツによりオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」(マタイ1:5-6)
(清水名誉牧師)

■ 2018年5月6日礼拝 「輝くシオンの山」

「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊・・・です」(ヘブライ書12:22-23)

 ヘブライ書は、信じることに疲れ果てている人に、最後のスーパービジョンを示しています。それは、信仰者の行き着く先には天国の祝宴が待っている、という希望です。
 「シオンの山」とはエルサレムを指す言葉ですが、神が愛し、その平和が臨在する場所の象徴として、用いられています。
(深谷牧師)

■ 2018年4月29日礼拝 「聖なる生活を送る」

「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また…、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブライ書12:12-14)

 ヘブライ書の最骨頂「信仰によって生きよ」という11~12章のメッセージを過ぎ、少しずつ山をくだる箇所に差し掛かってきました。山登りの下山の時にも、峠を越えると、生活している町並みが見下ろせます。いつもの生活の中に、信仰を働かせなさい、と今朝の箇所は勧めます。罪を除き、神様が喜ぶ、まっすぐな道を歩んで行きましょう!
(深谷牧師)

■ 2018年4月22日第71回教会定期総会礼拝 「走り抜こう」

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ書12:1b-2)

 教会総会の朝、ヘブライ書12章のみ言葉を与えられたことを感謝いたします。私たちの歩みを振り返り、信仰の道に絡みつく雑草のような罪の思いを焼き捨てましょう。そしてイエス様が、人生に伴ってくださることを心に留めて、温かい道を歩みましょう。
(深谷牧師)

■ 2018年4月15日礼拝 「信仰を抱いて」

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ書11:13)

 ヘブライ書の11章は「救済絵巻の扇」です。次々と信仰者が実名で登場し、その生涯の輝きにスポットライトが照らされます。そして、その最後の部分に、私たちが書き込まれていることを気付かされるのです。
 それはつまり、今度はあなたが、目の前の嵐の中に、信仰を持って進んでゆく番なのだという、力強いメッセージなのです。
(深谷牧師)

■ 2018年4月8日祈りの友礼拝 「エジプト脱出」

「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ60万人であった。……イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった。 430年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。 その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。」 (出エジプト12:37,40-42)

 最後の大きな災害に、さすがのファラオもたまらずイスラエルの出発を許可した。人々はエジプト人から金銀の装飾品や衣類を得て出発。主は彼らの無事出発を寝ずの番をして守られた。今も主は、私たちの信仰の旅路を眠ることなく見守っておられる。
(清水名誉牧師)

■ 2018年4月1日イースター礼拝 「復活の朝」

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』 確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」 と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:1-10)

  深谷牧師の説教

■ 2018年3月25日棕櫚の主日(レントⅥ)礼拝 「十字架」

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23:34)

 教会学校で聞いて、今でも忘れられないお話があります。ある女の子のお母さんが、顔にひどい火傷の跡があり、女の子は年頃になるとお母さんと一緒に外を歩くのが嫌になった、しかし実はそれは、自分が赤ちゃんの時、火事の中から助け出した時に受けた傷の跡だった、という事を知って、その子はお母さんに心から詫び、その愛に感激した…。
 イエス様の十字架は、酷い姿です。しかしそれが私たちを救うためであったと知る時、神の愛の大きさとなり、迫ってきます。
(深谷牧師)

■ 2018年3月18日レントⅤ礼拝 「ゲッセマネの祈り」

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

 イエス様が十字架刑に架けられる前夜、悶え苦しみながら祈られた「ゲッセマネ」という場所は、「油絞り」という意味だそうです。樹齢の古いオリーブの木が茂る山中で、主イエスは、心を絞りだすように祈られました。しかし、最後には「御心のままに」と、すべてを神様に委ねて、それを三たび繰り返されたと記されています。(39、42、44節)
 神様のご計画にお委ねする、その信仰が、私たちに示され、教えられています。
(深谷牧師)

■ 2018年3月11日世界宣教を覚える礼拝(レントⅣ) 「知る力と見抜く力」

「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(フィリピ1:9~10)

 モーセが産まれた時、イスラエルの民にとっては最も暗い時代でした。(出エジプト記1~2章)それは彼をイスラエルの指導者として備える為に敢えてあり得ない状況を神が作られたのです。私たちには神のなさる全てが見えているわけではありません。神の定めは極め尽くせず、神の道は理解し尽くせないから神なのです。
(ケルン・ボン日本語教会 佐々木良子牧師 )

■ 2018年3月4日祈りの友礼拝(レントⅢ) 「主の過越」

「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。…災いはあなたたちに及ばない。」(出エジプト12:13)

 モーセはエジプト王ファラオに立ち向かい「イスラエルの人々を去らせよ。」と求めたが、ファラオは心を頑なにして拒否し続けたので主が下された災いは10回に及んだ。最後にエジプト中の初子が撃たれたが、イスラエルの家々は門の柱と鴨居に小羊の血を塗ったので災は過越された。この「主の過越」がイスラエルの建国の記念日となっている。
 わたしたちの救いのために、主は「神の小羊として十字架上に血を流されている。
(清水名誉牧師)

■ 2018年2月25日創立記念第4礼拝(レントⅡ) 「信仰の先輩たち」

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ書11:1)

 ヘブライ書の中でも、最も有名な聖句と言えば、上掲の箇所でしょう。パウロの第二コリント4章後半のみ言葉にも重なります。
 創立記念月間最後の礼拝です。72年という歩みは、奇跡の連続であったと言えるでしょう。初代牧師の緒形先生、殉教者となられた戦前の竹入先生、粟津兄、山口兄、塚本兄、貞安兄・・・一人一人の信仰によって、見えなかった現在の祝福が、実現しました。私たちもこの尊い信仰に生きましょう!
(深谷牧師)

■ 2018年2月18日創立記念第3礼拝(レントⅠ) 「光に照らされて」

「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。…わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保するものです。」(ヘブライ10:32,39)

 冬季オリンピックの選手たちの姿に、世界中の人々が、感動をもらったことでしょう。厳しい試練と苦しい練習に耐え、勝利を勝ち取った王者の歓喜は、古代オリンピックの時代から、永遠に変わることがありません。
 ヘブライ書は、信仰の道を辿る私たちを、この競技者の列に並ぶ者と見做して、天国の栄冠を目指して走り続けるように、励ましています。信仰の創始者イエスの瞳で。
(深谷牧師)

■ 2018年2月11日創立72周年記念礼拝 「御手の業」

「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 (イザヤ64:7)

 上掲の聖句は、今年の教会標語のみことばとして与えられた、預言者イザヤの「執りなしと嘆き」の中の一節です。
 私たちは、誰一人として、同じ人間はいません。しかしそれは、神の作品である故である、と聖書は語ります。「作者の意図」が解ると、その色彩は一層輝きます。私たちが、働きに喜びと充実感を得ている時、それはきっと、「賜物」をくださった創造主の想いが輝いている、ということなのです。
(深谷牧師)

■ 2018年2月4日創立記念第1礼拝(祈りの友礼拝) 「わたしは主である」

「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。…わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。』」 (出エジプト6:2-6)

 モーセとアロンのファラオとの交渉は難航し、かえって民には重い労役が課せられる結果となった。苦境に立たされたモーセに神は「わたしは主(ヘブライ名=アドナイ、天地の最高の位の名)である。」と力強く宣言してモーセを励ましておられる。
(清水名誉牧師)

■ 2018年1月28日礼拝 「心からの勧め」

「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:22-23)

 「人が本当に望むものは、慰めよりも励ましである」と聞いたことがあります。それは、ただ現実に寄り添ってくれるというのではなく、その先にある希望を指し示してくれる存在を、みんな一番探し求めているということなのだと思います。イエス様の血潮に贖われたことを信じて生きる道は、細く狭い道ですが、確かな希望に続く、愛に生きる道だ、今朝の箇所は私たちを励ましています。
(深谷牧師)

■ 2018年1月21日礼拝 「恵みの奥深くまで」

「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:11-12)

 現代人には縁遠い話に感じる箇所ですが、ヘブライ書が最も語りたかった核心部分が、今朝の内容です。それは、キリストが私たちの犠牲となられた、ということです。偶然に生きているのではなく、恵みによって生かされている。そこに、希望が生まれます。
(深谷牧師)

■ 2018年1月14日祈りの友礼拝 「新しい契約」

「主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』」(ヘブライ8:10)

 上掲の聖句は、旧約聖書エレミヤ書31章31節からの言葉を引用です。そして、そこに預言されている「新しい契約」こそ、イエス・キリストなのだと語っています。
 イエス様というお方は、外面的にはみすぼらしい敗北者のようです。けれども、この方は信じようと思う人の心に、確かな思いを刻みつけてくださるお方です。つらい現実との狭間で苦しんでいる魂に、不義を赦し、恵みと喜びを与えてくださるお方なのです。
(深谷牧師)

■ 2018年1月7日新年・成人祝福式礼拝 「命への道」

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。…あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:12,13,14)

 其枝幼稚園の名の由来は、ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」しかし、その先を見るとこの章のテーマが「愛」であることがわかる。その愛とは「友のために命を捨てる愛」だという。主が友と呼ばれるのは弟子たちであり、わたしたちではないか。主は十字架に死なれるほどわたしたちを愛しておられる。この愛がすべての人を、「命」へと導かれるのである。
(清水名誉牧師)