燈台が、漆黒の闇の中でも、遠くの沖まで光を照らし、水面に浮かぶ船員たちに陸地を示すように、父なる神様は、救い主イエス様の誕生を、遥か遠くの異教徒たちの世界にまで告げ知らせました。その世を照らすまことの光は、現代も消えることなく、あらゆる隔ての壁を打ち破り、世を照らしています。
そして、その同じ大きな光が、私たちの心を照らしてくださっているのです。
(深谷牧師)
深谷牧師の説教
マラキは波乱のない時代の預言者でした。この世代の人々は、誠実に生きる意味を見失いかけていました。そんな民に、マラキは、主は必ず来臨して、正義の審判と祝福を与える、と人々に告げました。そして、その数百年後、イエス・キリストが降誕されたのです。この預言は、今もなお有効です。主イエスが昇天されて二千年が経ちました。再び、本当の喜びとは何かを見失いそうになっている人々に、癒しのつばさと、最後の審きがおとずれることを聖書は語っています。
(深谷牧師)
マタイ福音書では、主のご降誕物語の主役にヨセフが登場します。婚約者マリアの受胎を知ったヨセフはマリアを気遣って密かに離縁しようと決心しました。そこへ夢に天使が現われ、マリアが聖霊によって身ごもったことを告げ知らせます。そのみ告げを聞いたヨセフは早速マリアを妻として迎えました。なお、このところで引用されているのが紀元前8世紀のイザヤの預言でした。神の遠大なる救いの歴史の実現です。
(清水名誉牧師)
福音は、過去の出来事だけではなく、むしろ将来に向けての約束をわたしたちに告げています。イエス様がクリスマスの日と同じように、再びこの世界においでになるという約束もその一つです。待降節の、喜びや期待は、いつか永遠の喜びと平和が訪れることの「ひながた」です。良き知らせである、み言葉に聞き、主を呼び求めましょう!
(深谷牧師)
収穫感謝祭の朝を迎えました。教会の暦では、今週が1年の締めくくりです。日々、積もっていく人の言葉や出来事、失望などが、一番大切なイエス様の励ましと、神様の愛と、慰めや赦しの恵みを覆ってしまっているかもしれません。心の中を整えて、クリスマスを待ち望むアドベントに備えましょう。永遠の喜びに満たされることを信じて!
(深谷牧師)
弟子達は、拍子抜けするほど、ごく普通の人たちでした。けれども、浅はかに、それを寄せ集めだった、などと考えることは間違いです。なぜなら、イエス様は彼らの任命に先立って、徹夜の祈りを捧げられたからです。
彼らは、教会の大切な礎となりました。使徒達が、イエス様の深い愛の祈りの中に呼び出されたことは、私たちも同じように、主の憐れみの中にとり扱われている一人一人であるということを、示しているのです。
(深谷牧師)
イエス様は上掲の句ののち、この人を「真ん中に立ちなさい」と招き、「手を伸ばしなさい!」と命じられました。それはすなわち、「安息日に生命を救うのと滅ぼすのと、どちらが至当であるか」という問いかけでした。これは、イエス様の宗教指導者たちへの挑戦でした。今朝は「障がい者と共に在る主日礼拝」です。私たちはこの日曜日、つまり安息日に、イエス様から何を語りかけられているでしょうか。幸いな道に歩みましょう。
(深谷牧師)
清水名誉牧師の説教
石はどこにでも見かけます。その石には価値はありません。皆さんも自身が何の価値もないと思われたことはないでしょうか?
仕事場にも、学校にも、家においても。
人は他人の価値を正確に計れません。
皆さんの価値を決めるのは神です。私たちの罪の代価としてイエスキリストをお捧げになった程の価値です。神はその価値を見出した人を探しておられ、各自の場所において、重要で、中心となり、かけがえのない存在へと変えます。皆さん、自信を持ってやっていこうではありませんか!
(永田直師 メーカーズチャーチ牧師、京都復興教会協力牧師)
旧約聖書のレビ記24章には、神殿の聖所に捧げる「供えのパン」についての規定が記されています。この聖別されたパンは、祭司のみが食べることを許されたものでした。
しかし、イエス様はご自身を「新しいぶどう酒」に例えられ、さらに今朝の箇所でも、儀式的制約を超えて新しい世界を開かれる言葉を残されました。「供えのパン」は「臨在のパン」とも呼ばれたそうです。知識や規則の束縛を超えて、むしろ信仰の先輩たちの主の赦しの中に歩んだ姿を思い出しつつ、豊かな道を、歩ませていただきましょう。
(深谷牧師)
主イエスが引用された聖句は、申命記6:5とレビ記19:18に明記されています。十戒が要求するところは神である主を愛することと隣人を愛することに尽きると言われます。「愛は律法を全うする」(ロマ13:10)
(清水名誉牧師)
キリストの、ある部分は素晴らしいと思って、自分の考えに取り入れている、というようなことを言われる方がいます。でもそれは、今朝の箇所に照らしてみれば、最高級のシャンパンを、ラッキョウを漬けたビンにでも入れるようなものだと言えるでしょう。
イエス様を信じる、ということは、神の愛と、罪の赦しと、永遠の命を信じること、新しい服を着ることだと言われます。これは今までの古い考え方にツギハギするには、余りに勿体無い喜びの源です。古い自分は脱ぎ去って、新しい恵みを受け取りましょう。
(深谷牧師)
イエス様が現代におられたら、「誰々と食事をしたらしい」「あんな場所に出入りしている」インターネットで次々と吊し上げられることでしょう。けれども、それは突き詰めれば、すべての人を招いているよ、と、イエス様が発信されているメッセージなのです。
わたしを救い主と信じて近づこうとする人がいるならば、わたしは必ず、受け入れてあげよう。誰がどう言おうと、たとえ十字架が待ち受けていようとも、共に食卓を囲もうと、招いてくださっているのです。
(深谷牧師)
深谷牧師の説教
中風の男の友人たちは、まさか二千年後も自分たちの行動が語り継がれるとは、思ってもいなかったことでしょう。イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われた時、この出来事は普遍的なメッセージになりました。
イエス様が与えてくださる「罪の赦し」は、すべての人の心の底にある渇きをいやす、救いの恵みです。主の目に尊いと宣言される、この喜びがまさしく「アメイジング・グレイス」なのです。私たちも、イエス様の愛を届ける者となろうではありませんか。
(深谷牧師)
1995年の阪神大震災後、当教会々堂の耐震診断が行われ震度6弱で倒壊の恐れとのこと。その後、協議を重ね10年後の創立60周年を目指し新築を決定。設計を旧会堂と同じヴォーリズ(石田忠範氏)に託した。ヴォーリズ氏とは近江八幡市の県立商業学校英語教師として米国より来日したが、伝道熱心のため解職。建築事務所を立ち上げ、滋賀県を中心に全国の教会、学校、大学を設計建築して伝道された。
緒形牧師はヴォーリズ氏の講演に啓発され千坪の土地の購入を決断されたという。
(清水名誉牧師)
イエス様が私たちに向けられる愛の手は、どんな障壁をも乗り越えるということが、今朝の箇所には証明されています。全身を不治の病に侵された人にさえ、イエス様は手を差し伸べて、「私の心だ、清くなれ」(新改訳)とことばをかけてくださいました。
年間聖句であるマタイ5章8節を思い起こします。私たちも同じように、「心を清くしてください」と願い求めようではありませんか。主はその願いを聞き入れ、その手足として、私たちを用いてくださいます。
(深谷牧師)
イエス様が「わたしを信じなさい」と声をかけられる時というのは、実は大抵、わたしたちが弱り果てている時、心がどんよりと曇っている時なのではないかと思います。
ペトロの応答は、態度という点では、あまり良いお手本ではないかもしれません。しかし、決断としては最良のものでした。しぶしぶでも良いのです。大切なことは、「でも、お言葉ですから」と、神の愛そのものであるイエス様に従っていくことなのです。
(深谷牧師)
「わたしは子供をだきしめ、背後の石垣の崩れかかるのを、傍らの死者のもたれかかるのを、支えて立っていたが、ふと自らの片足が重く機関銃に貫かれているのに気付いた。」荒川先生の口から生々しい戦争体験が語られ一同涙を誘われる。
二十数万の尊い人命が散った激戦の生き地獄の中で、同師はさらにわが子に死なれ、夫には捨てられる。生きる望みを失った絶望のドン底から、キリストの十字架によって救われた証しを力強くされ、一同感激を深くした。丁度沖縄夕顔が一株に三十余りの花を見事に開いて、先生を大いに歓迎していた。
(『週報』No.457 1967.9.3. "新川先生特集を終えてーあゝ 十字架の勝利" より 引用)
(清水名誉牧師)
レジャーを楽しむ季節がやって来ました。「レジャー」の語源は、本来、日常の労働や学びに、意欲を高め、より創造的な活動にするためのインスピレーションを得ることを指しています。イエス様のレジャーは、人里離れたところでの黙想でした。ここに神の国の福音は始まったのです。そう、最高のレジャーは「礼拝」ではないでしょうか。
(深谷牧師)
イザヤ書は、旧約聖書を代表する預言書です。その内容は「終末論」と呼ばれる、将来に向けて約束された神様の言葉が記されています。今朝の箇所は、平和主日礼拝に相応しい、平和の約束が書き記されています。
私たちは、この希望と確信を抱いて歩むよう、勧められています。世界の終わりを、絶望的に見るのではなく、み心が成就すると待ち望めと命じられているのです。
(深谷牧師)
「おもてなし」は、今や観光のキーワードになりました。今朝の箇所にも、イエス様をもてなした一人の女性の姿が登場します。
イエス様に癒していただいた人には、この人々をもてなす喜びと笑顔が備わるのだと教えられます。私たちも、イエス様に癒しをいただこうではありませんか。癒された人はどんな高級サービスにも勝る「もてなす人」とされ、さらに喜びがひろがって、笑い声がその人の周りを包むことでしょう。
(深谷牧師)
今朝の箇所は、イエス様の語られた「山上の説教」の一節です。「地の塩・世の光」と呼ばれて、親しまれています。
もしも心のポケットに言葉をしまっておけるなら、今朝のみ言葉はぴったりでしょう。大人でも、子どもであっても、生きる目的を見失って、暗闇に取り残されたような不安を感じる時があります。イエス様は、「あなたがたは世の光」と呼びかけてくださいます。その存在が光なのだと。その光を輝かせるために命を燃やしなさい、そうすれば、人々が、あなたのその姿を通して、神様の愛に目覚めるから、と招いておられます。
(深谷牧師)
モーセが授かった十戒は2枚の石の板に記されているが、1枚目は神との関係、2枚目は人との関係の内容である。ところで「父母(ちちはは)を敬え」は人との関係でないかと思われるが父母の愛と力の根源は神にあるからなのだ。
「母の日」は1914年米国議会で国の祝日に定められ、わが国では戦後(1945年)守られるようになった。最近は「父の日」(6月第3日曜)も行われているが、これも米国の一婦人が1940年に提唱したことにはじまる。
十戒では(3,300年以前)すでに父と母両方を敬えと命じている。母の日の由来もこのみことばに起因している。
(清水名誉牧師)
「おばけなんてないさ」という子どもの歌があります。ちょっと怖いな、ちょっと怖いな、という気持ちを、「おばけなんてうそさ!」と最後は吹き飛ばそうとする可愛い歌です。それは、あるいは世の中を渡る勇気を教えてくれているのかもしれません。
しかし、イエス様の言葉は全く違うアプローチで、私たちに生きる喜びを与えてくださいます。私たちを悩ませ、苦しめる悪霊を黙らせ、取り除いてくださるのです。十字架の血潮で洗い清め、慰めと解放を、癒しと回復を、その権威は与えてくださるのです。
(深谷牧師)
弾圧記念日礼拝を捧げるとき、私たちは、誰を「主」としてひれ伏すか、ということを問われます。昭和の大戦時、大規模な思想統制、宗教弾圧は、国民同士を不安にさせ、軍部の前にはひれ伏さねばなりませんでした。
今は「A.D.2019年」です。愛と正義で世を治める、主の御前にひれ伏しましょう。
(深谷牧師)
イエス様は、神様の祝福を、楽しい「たとえ話」で語られました。「種をまく人のたとえ」もそのひとつでとても有名です。
「神様は、私たちの心に、良いものをくださっています。感謝の心、大切なものを守りたいという願い、悪い習慣をやめる力、悲しい気持ちを祈ること、自分の間違いを認める勇気…。それらを育て続けることは、難しいことですが、やがて、必ず素晴らしい神様の祝福が、その人におとずれます」と。
(深谷牧師)
恵みの雨に打たれて、アジサイの花が、葉が、一枚一枚、キラキラと光っています。
「神癒」(Divine healing)とは、いやしの信仰と言い換えることができるでしょう。それは、イエス様が、わたしたちの体だけでなく、霊も魂も、つまりすべての領域を、完全な者として回復してくださるという約束です。
心の底にある、飢え渇きの叫びを、大胆に祈り求めませんか。主の愛のシャワーが、汚れを洗い流し、潤してくださいます。
(深谷牧師)
「ペンテコステ」とはギリシャ語の「第50」の意味で、旧約時代では「五旬節」として、大麦の刈入れ(過越祭)から50日目の小麦の刈入れ祭として守られてきました。
この日は主の復活日から50日目にあたり、主が約束された聖霊が弟子たちに降り、彼らは聖霊の力に満たされて力強く主の復活を証し教会が誕生しました。それゆえ教会暦では「降誕節」「復活節」(受難節)と並び、約8ヶ月間にわたって「聖霊降臨節(三位一体節)」として守られ重視されています。
(清水名誉牧師)
ホーリネスの信仰、といっても、聖書の時代から受け継がれた正統的な信仰と、異なる教えを説いているわけではありません。しかし、より信仰が生きて働く者となるように、という強い願いがこの教えにはあると言えるでしょう。今年はテサロニケの信徒への第1の手紙を通して、「四重の福音」を学びたいと思います。何事も、はじめが肝心、どこかおかしいな、と思ったら、その根本に立ち返ることです。「新生の恵み」イエス様に救われた喜びは、永遠に、恵みの源です。
(深谷牧師)
弱い私たちに、神は三つの贈り物をもって慰め励ましてくださいます。① 16節 信仰者の贈り物はしばしば、「えらい人~口語訳は尊い人」へ導きがあるというのです。心からのプレゼントは尊い方、イエスさまへと導く良い機会となるのです。② 22節 人間の最初のつながりは親子でなく夫婦でした。アダムにイブを与えられたのは神ご自身です。キリスト者の妻は神さまからの贈り物です。③ 24節 口語訳は「兄弟よりもたのもしい友」とあります。ダビデにヨナタンが与えられたように、真実な友を神さまは用意し与えて下さるのです。
(玉田耕治師 世界福音伝道団牧師)
この箇所は、イエス様が宣教を開始された初めの出来事です。故郷・ナザレの会堂で、この方は残念ながら理解されませんでした。しかしそれは、むしろその真実と限りない広がりを、私たちに証明しているのです。
誰にも理解してもらえないとき、イエス様は、遙かな時を超えて最大の友として、喜びと救いをもたらしてくださるのです。
(深谷牧師)
「母の日」の起源は、1908年米国ウェストヴァージニア州のウェブスタ―教会に始まると言われています。教会学校の教師であった、ジャ―ヴィス夫人の記念会で、娘のアンナさんが、生前母の好きだった、白いカーネーションを参列者に贈りました。幼い時教会学校で母から聞いた「父と母を敬え」という聖書の教えを、彼女なりにあらわした行為でした。校長のワナメーカー氏はこのことに大きな感動を覚え、地域にも働きかけて、5月第2日曜日を、母への感謝を捧げる日と定め、やがて祝日へと発展して現在に至ります。
(深谷牧師)
天地のあらゆるものを創造された主は、7日目に休息され、その日を祝福し聖別された。
イスラエルの民はその日を安息日として聖別し、すべての労働を休み礼拝を守っている。
主イエスは十字架に死なれ、7日目の安息日を墓の中に眠られ、8日目(第1日目)に復活されている。そこでヨーロッパの教会では8という数字を復活と永遠の命のシンボルとして八角形の洗礼堂を建てるところがある。
今日、一般的には日曜日を休むが、私達はこの日主が復活されたことを記念して聖別し礼拝をもって週の始まりとしたい。
(清水名誉牧師)
聖地イスラエル巡礼の一般的なコースは、まず自然豊かな美しいガリラヤ湖周辺から始まり、ヨルダン川を南下して、最後に首都エルサレムを巡ります。これはきっと、福音書のイエス様のご生涯をベースにしているのだと思います。4章から9章までは、「ガリラヤの春」と呼ばれるそうです。神の愛と奇跡の業、救い主の使命を確証するに至るイエス様と弟子たち、色とりどりの情景が、信仰の世界の豊かな彩りを伝えています。
(深谷牧師)
(深谷牧師の説教)
十戒の中の第一戒である。続く第二戒は「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節)として、天地創造主、唯一絶対の神以外の被造物を神として偶像礼拝することを禁じている。その厳しさは、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」に示されている。「熱情」は旧約原典(ヘブライ語)では「妬む」となっている。(口語訳、共同訳も同じ)神が妬まれるとは意外な気がするが、神はそれほどまでに、人が罪を犯して滅びることが無いようにと強く願っておられるのである。
(清水名誉牧師)
風見鶏の起源は、このペトロの記事に由来するという説があるそうです。その意味するところは、「挫折と失敗、赦しと恵み」です。この出来事は、ペトロの失敗を包み隠さず露わにします。しかし同時に、紛れもなくこのペトロを赦しと恵みで包んだ、イエス様のまなざしが、ここには刻まれています。人の破れは、神の光を射し出すのです。
(深谷牧師)
イエス様は、生まれた時から貧しい姿でした。やがて受難が始まり、その暴力は、ますます「救い主らしさ」を剥ぎ取っていきます。
しかし、「山上の変貌」で現された、天上での真の姿は、あの、みすぼらしい十字架の姿こそ、この栄光の全てを犠牲にした、真の偉大な姿だったのだと示しています。
(深谷牧師)
三番目の悪魔の誘惑の舞台は、あろうことか、聖なるエルサレム神殿の屋上でした。エルサレムは、やがてイエス様が十字架につけられた場所です。「時が来る」と、弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りによって、受難をお受けになられたのでした。私たちは生涯、誘惑から解放されないでしょう。しかし、試練に立ち向かい、常に悪魔に勝利された、イエス様の姿が、ここにあります。
(深谷牧師)
今朝の聖書の箇所は、66歳の誕生日の前夜、示されたライフ・メッセージ…。
◇わたしの人生で一番大きな出来事は何だろうか?それは言うまでもない、「主の贖い」の恵みの体験。19歳の洗礼の日!1969年12月21日。あの日、わたしは主イエスの十字架の血潮で贖われ、新しい日が始まった。深い罪意識、瞬間的に感じた主の贖いの血潮、あふれて止まらなかった涙…。
◇二番目の出来事は何だろう?その後の信仰挫折か?山谷の日雇い労務?信仰回復の喜び?神学校入学か?牧師になったこと?あるいは結婚?子供たちの誕生?求道者が洗礼を受けた日か?66年。感謝と喜びの洪水のような、愛に包まれて生きてきた!
◇三番目は?主が共におられる。「贖いと愛と臨在!」。ここに聖書66巻の粋がある!ハレルヤ
(深谷春男牧師:新宿西教会牧師、東京聖書学校旧約教師)
出エジプト記20章には、いわゆる「モーセの十戒」が記されている。神がシナイ山にてイスラエルの民と契約を結ばれたのである。十戒は神ご自身2枚の石の板に指で刻み込まれたとされている。(31:18,32:16)
神が十戒を通して結ばれた契約は、神と民との相互契約ではなく、神の民に対する一方的要求の契約である。しかし、神はその要求に先立って、救いと恵みがあったことを述べられているのである。
(清水名誉牧師)
聖書の語る悪魔は、トランプに印刷されているような姿では、実はありません。むしろその言葉は滑らかで、内容も魅力的です。しかし、その契約書の一番下に小さく破滅の条項が記されており、約束の栄光は、限られた時間である、それがサタンの本質です。
悪魔が狙うのは、弱い人ではなく強い人であり、不従順な人より恵まれた人なのです。悪魔の誘惑を退けた、イエス様の姿に倣い、試練を乗り越えて参りましょう!
(深谷牧師)
上掲の聖句は系図の最初と最後のみを記載しました。古代社会の系図の証明は、いわば、現代のDNA鑑定です。それは二つの側面があります。正統であるかの線引きと、想像を遥かに超える世界との繋がりの発見です。
ルカ福音書は系図をもって、主イエスが、私たちに救い主であることをしめしていますが、それは排他的な目的ではなく、全世界が神の愛に遡ることを伝えています。
(深谷牧師)
イエス様が洗礼を受けられたヨルダン川は、地球上で最も低い、海抜マイナス400mの川です。罪のない神の子であるにもかかわらず、私たちと同じように洗礼を受けられ、沈没船が横たわる海底よりもさらに深いところに、再創造・平和・神の愛と選びを示す、聖霊の鳩をイエス様がもたらしてくださいました。福音宣教の働きは、ここに始まります。
(深谷牧師)
ある少女が、今朝の「ベアティチュード」の中から、この言葉が一番好き、と選んだそうです。「心が清ければ、他のすべてのことをすることができるから」というのがその理由とのこと。今朝の教えは、すべてを可能にする心だということができるでしょう。
日々の歩みに、頭で分かっていても、心は不安で、共にいていくださる神様の姿を見失うことがあります。朝ごとに、主の栄光を仰ぐ、祈りとみ言葉に親しむ生活こそ、私たちの内側に、清々しい空気を送り込み、神の息吹が私たちを励ましてくださいます。
(深谷牧師)
ミディアンの祭司でモーセのしゅうとのエトロはモーセを訪問し、一つの助言をした。それは民全体を分割し、責任者を立てる事であった。これは今日の教会の組織化に通じている。当教会の「祈祷組会」もこれに通じるところがある。
(清水名誉牧師)
エジプトを出たイスラエルの最初の戦いはアマレクとの戦いであった。ヨシュア率いるイスラエル軍は、丘の上で手を上げ続けたモーセの祈りによって勝利することができた。
教会も個人も信仰の戦いがあるが、手を上げて祈れば必ず勝利することができる。どんな時でも、どんな場所でも、祈りの手を上げて勝利しよう。
(清水名誉牧師)
洗礼者ヨハネの、火を噴くような厳しい警告です。しかし意外なことに人々は、このヨハネの許にこぞって集まってきました。それは、そこに「救い」があったからです。ヨハネは人々に「祝福の道」を伝えているのです。その先に、主イエスの姿を待ちながら。
(深谷牧師)
本日、成人祝福式に集われた皆様とそのご家族に、また同じように成人となられる方々に、心よりお祝い申し上げます。イスラエルでは12歳が大人の仲間入りです。イエス様も都詣でをして、人生の節目を迎えました。
そこには、両親も驚くような、新しい世界に生きているイエス様の姿がありました。成人の日は、第二の人生の始まりです。その門出が、幼い日の神の愛に包まれた教会であることは、何と幸いなことでしょう。
(深谷牧師)
アンナは、80年以上神殿に仕えた老やもめでした。彼女が腰下ろしていたのは、祈りの織物、心の願いは民の慰めでした。その場所は、華やかさや、頼もしさとは、最も遠いところだったことでしょう。
しかし、幼子イエスを拝したとき、アンナの魂に喜びと賛美が溢れました。そこには、弱い者であったアンナを喜びで満たす、新しい光が温かく届けられていました。
(深谷牧師)