今日のみことば(2019年)
2019年の聖句「心の清い人々は、幸いである」(マタイ5:8)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2019年12月29日年末感謝礼拝 「燈台」

「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(マタイ2:1-2)

 燈台が、漆黒の闇の中でも、遠くの沖まで光を照らし、水面に浮かぶ船員たちに陸地を示すように、父なる神様は、救い主イエス様の誕生を、遥か遠くの異教徒たちの世界にまで告げ知らせました。その世を照らすまことの光は、現代も消えることなく、あらゆる隔ての壁を打ち破り、世を照らしています。
 そして、その同じ大きな光が、私たちの心を照らしてくださっているのです。
(深谷牧師)

■ 2019年12月22日クリスマス(アドベントIV)礼拝 「いのちのことば」

「初めに言(ことば・以下同)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音書1:1-14)

  深谷牧師の説教

■ 2019年12月15日アドベントIII礼拝 「天使のつばさ」

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」(マラキ3:20)

 マラキは波乱のない時代の預言者でした。この世代の人々は、誠実に生きる意味を見失いかけていました。そんな民に、マラキは、主は必ず来臨して、正義の審判と祝福を与える、と人々に告げました。そして、その数百年後、イエス・キリストが降誕されたのです。この預言は、今もなお有効です。主イエスが昇天されて二千年が経ちました。再び、本当の喜びとは何かを見失いそうになっている人々に、癒しのつばさと、最後の審きがおとずれることを聖書は語っています。
(深谷牧師)

■ 2019年12月8日アドベントII礼拝 「その名はインマヌエル」

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは『神は私たちと共におられる』という意味である。」 (マタイ1:23=聖書協会共同訳)

 マタイ福音書では、主のご降誕物語の主役にヨセフが登場します。婚約者マリアの受胎を知ったヨセフはマリアを気遣って密かに離縁しようと決心しました。そこへ夢に天使が現われ、マリアが聖霊によって身ごもったことを告げ知らせます。そのみ告げを聞いたヨセフは早速マリアを妻として迎えました。なお、このところで引用されているのが紀元前8世紀のイザヤの預言でした。神の遠大なる救いの歴史の実現です。
(清水名誉牧師)

■ 2019年12月1日アドベントⅠ礼拝(祈りの友礼拝) 「主の来臨の希望」

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52:7)

 福音は、過去の出来事だけではなく、むしろ将来に向けての約束をわたしたちに告げています。イエス様がクリスマスの日と同じように、再びこの世界においでになるという約束もその一つです。待降節の、喜びや期待は、いつか永遠の喜びと平和が訪れることの「ひながた」です。良き知らせである、み言葉に聞き、主を呼び求めましょう!
(深谷牧師)

■ 2019年11月24日収穫感謝・謝恩日礼拝 「同じ愛に、心を合わせ」

「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(フィリピ2:1-2)

 収穫感謝祭の朝を迎えました。教会の暦では、今週が1年の締めくくりです。日々、積もっていく人の言葉や出来事、失望などが、一番大切なイエス様の励ましと、神様の愛と、慰めや赦しの恵みを覆ってしまっているかもしれません。心の中を整えて、クリスマスを待ち望むアドベントに備えましょう。永遠の喜びに満たされることを信じて!
(深谷牧師)

■ 2019年11月17日礼拝 「弟子の選び」

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」(ルカ6:12-13)

 弟子達は、拍子抜けするほど、ごく普通の人たちでした。けれども、浅はかに、それを寄せ集めだった、などと考えることは間違いです。なぜなら、イエス様は彼らの任命に先立って、徹夜の祈りを捧げられたからです。
 彼らは、教会の大切な礎となりました。使徒達が、イエス様の深い愛の祈りの中に呼び出されたことは、私たちも同じように、主の憐れみの中にとり扱われている一人一人であるということを、示しているのです。
(深谷牧師)

■ 2019年11月10日障がい者と共に在る主日礼拝 「4回目の安息日」

「安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。」(ルカ6:6)

 イエス様は上掲の句ののち、この人を「真ん中に立ちなさい」と招き、「手を伸ばしなさい!」と命じられました。それはすなわち、「安息日に生命を救うのと滅ぼすのと、どちらが至当であるか」という問いかけでした。これは、イエス様の宗教指導者たちへの挑戦でした。今朝は「障がい者と共に在る主日礼拝」です。私たちはこの日曜日、つまり安息日に、イエス様から何を語りかけられているでしょうか。幸いな道に歩みましょう。
(深谷牧師)

■ 2019年11月3日幼児祝福式礼拝 「獅子の中のダニエル」

それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」(ダニエル6:17-23)

 清水名誉牧師の説教

■ 2019年10月27日礼拝 「家を建てる者の見捨てた石」

「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。」(マタイ21:42)(新改訳)

 石はどこにでも見かけます。その石には価値はありません。皆さんも自身が何の価値もないと思われたことはないでしょうか?
 仕事場にも、学校にも、家においても。
 人は他人の価値を正確に計れません。
 皆さんの価値を決めるのは神です。私たちの罪の代価としてイエスキリストをお捧げになった程の価値です。神はその価値を見出した人を探しておられ、各自の場所において、重要で、中心となり、かけがえのない存在へと変えます。皆さん、自信を持ってやっていこうではありませんか!
(永田直師 メーカーズチャーチ牧師、京都復興教会協力牧師)

■ 2019年10月20日礼拝 「お供えのパン」

「人の子は安息日の主である。」(ルカ6:5)

 旧約聖書のレビ記24章には、神殿の聖所に捧げる「供えのパン」についての規定が記されています。この聖別されたパンは、祭司のみが食べることを許されたものでした。
 しかし、イエス様はご自身を「新しいぶどう酒」に例えられ、さらに今朝の箇所でも、儀式的制約を超えて新しい世界を開かれる言葉を残されました。「供えのパン」は「臨在のパン」とも呼ばれたそうです。知識や規則の束縛を超えて、むしろ信仰の先輩たちの主の赦しの中に歩んだ姿を思い出しつつ、豊かな道を、歩ませていただきましょう。
(深谷牧師)

■ 2019年10月13日礼拝 「律法を全うする愛」

「律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」(マタイ22:35-40)

 主イエスが引用された聖句は、申命記6:5とレビ記19:18に明記されています。十戒が要求するところは神である主を愛することと隣人を愛することに尽きると言われます。「愛は律法を全うする」(ロマ13:10)
(清水名誉牧師)

■ 2019年10月6日世界聖餐日礼拝(祈りの友礼拝) 「新しいぶどう酒」

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカ5:38)

 キリストの、ある部分は素晴らしいと思って、自分の考えに取り入れている、というようなことを言われる方がいます。でもそれは、今朝の箇所に照らしてみれば、最高級のシャンパンを、ラッキョウを漬けたビンにでも入れるようなものだと言えるでしょう。
 イエス様を信じる、ということは、神の愛と、罪の赦しと、永遠の命を信じること、新しい服を着ることだと言われます。これは今までの古い考え方にツギハギするには、余りに勿体無い喜びの源です。古い自分は脱ぎ去って、新しい恵みを受け取りましょう。
(深谷牧師)

■ 2019年9月29日礼拝 「罪人の食卓」

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)

 イエス様が現代におられたら、「誰々と食事をしたらしい」「あんな場所に出入りしている」インターネットで次々と吊し上げられることでしょう。けれども、それは突き詰めれば、すべての人を招いているよ、と、イエス様が発信されているメッセージなのです。
 わたしを救い主と信じて近づこうとする人がいるならば、わたしは必ず、受け入れてあげよう。誰がどう言おうと、たとえ十字架が待ち受けていようとも、共に食卓を囲もうと、招いてくださっているのです。
(深谷牧師)

■ 2019年9月22日合同記念礼拝 「きたり開けや心の中に」

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』」(マタイ5:1-8)

 深谷牧師の説教

■ 2019年9月15日礼拝 「アメイジング グレイス」

「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」 (ルカ5:20)

 中風の男の友人たちは、まさか二千年後も自分たちの行動が語り継がれるとは、思ってもいなかったことでしょう。イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われた時、この出来事は普遍的なメッセージになりました。
 イエス様が与えてくださる「罪の赦し」は、すべての人の心の底にある渇きをいやす、救いの恵みです。主の目に尊いと宣言される、この喜びがまさしく「アメイジング・グレイス」なのです。私たちも、イエス様の愛を届ける者となろうではありませんか。
(深谷牧師)

■ 2019年9月8日献堂12周年記念礼拝 「キリストの体」

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」(エフェソ1:23 聖書協会共同訳)

 1995年の阪神大震災後、当教会々堂の耐震診断が行われ震度6弱で倒壊の恐れとのこと。その後、協議を重ね10年後の創立60周年を目指し新築を決定。設計を旧会堂と同じヴォーリズ(石田忠範氏)に託した。ヴォーリズ氏とは近江八幡市の県立商業学校英語教師として米国より来日したが、伝道熱心のため解職。建築事務所を立ち上げ、滋賀県を中心に全国の教会、学校、大学を設計建築して伝道された。
 緒形牧師はヴォーリズ氏の講演に啓発され千坪の土地の購入を決断されたという。
(清水名誉牧師)

■ 2019年9月1日祈りの友礼拝 「汚れに触れて」

「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」 (ルカ5:13)

 イエス様が私たちに向けられる愛の手は、どんな障壁をも乗り越えるということが、今朝の箇所には証明されています。全身を不治の病に侵された人にさえ、イエス様は手を差し伸べて、「私の心だ、清くなれ」(新改訳)とことばをかけてくださいました。
 年間聖句であるマタイ5章8節を思い起こします。私たちも同じように、「心を清くしてください」と願い求めようではありませんか。主はその願いを聞き入れ、その手足として、私たちを用いてくださいます。
(深谷牧師)

■ 2019年8月25日礼拝 「しかし、お言葉ですから」

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(ルカ5:5)

 イエス様が「わたしを信じなさい」と声をかけられる時というのは、実は大抵、わたしたちが弱り果てている時、心がどんよりと曇っている時なのではないかと思います。
 ペトロの応答は、態度という点では、あまり良いお手本ではないかもしれません。しかし、決断としては最良のものでした。しぶしぶでも良いのです。大切なことは、「でも、お言葉ですから」と、神の愛そのものであるイエス様に従っていくことなのです。
(深谷牧師)

■ 2019年8月18日礼拝 「殺してはならない」

「殺してはならない。」(出エジプト20:13)

 「わたしは子供をだきしめ、背後の石垣の崩れかかるのを、傍らの死者のもたれかかるのを、支えて立っていたが、ふと自らの片足が重く機関銃に貫かれているのに気付いた。」荒川先生の口から生々しい戦争体験が語られ一同涙を誘われる。
 二十数万の尊い人命が散った激戦の生き地獄の中で、同師はさらにわが子に死なれ、夫には捨てられる。生きる望みを失った絶望のドン底から、キリストの十字架によって救われた証しを力強くされ、一同感激を深くした。丁度沖縄夕顔が一株に三十余りの花を見事に開いて、先生を大いに歓迎していた。
(『週報』No.457 1967.9.3. "新川先生特集を終えてーあゝ 十字架の勝利" より 引用)
(清水名誉牧師)

■ 2019年8月11日礼拝 「レジャー・タイム」

「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。…イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』」(ルカ4:42-43)

 レジャーを楽しむ季節がやって来ました。「レジャー」の語源は、本来、日常の労働や学びに、意欲を高め、より創造的な活動にするためのインスピレーションを得ることを指しています。イエス様のレジャーは、人里離れたところでの黙想でした。ここに神の国の福音は始まったのです。そう、最高のレジャーは「礼拝」ではないでしょうか。
(深谷牧師)

■ 2019年8月4日平和主日礼拝(祈りの友礼拝) 「平和の預言」

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4-5)

 イザヤ書は、旧約聖書を代表する預言書です。その内容は「終末論」と呼ばれる、将来に向けて約束された神様の言葉が記されています。今朝の箇所は、平和主日礼拝に相応しい、平和の約束が書き記されています。
 私たちは、この希望と確信を抱いて歩むよう、勧められています。世界の終わりを、絶望的に見るのではなく、み心が成就すると待ち望めと命じられているのです。
(深谷牧師)

■ 2019年7月28日礼拝 「いやしともてなし」

「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」(ルカ4:39)

 「おもてなし」は、今や観光のキーワードになりました。今朝の箇所にも、イエス様をもてなした一人の女性の姿が登場します。
 イエス様に癒していただいた人には、この人々をもてなす喜びと笑顔が備わるのだと教えられます。私たちも、イエス様に癒しをいただこうではありませんか。癒された人はどんな高級サービスにも勝る「もてなす人」とされ、さらに喜びがひろがって、笑い声がその人の周りを包むことでしょう。
(深谷牧師)

■ 2019年7月21日CS合同礼拝 「みんなは光の子」

「あなたがたは世の光である。」(マタイ5:14)

 今朝の箇所は、イエス様の語られた「山上の説教」の一節です。「地の塩・世の光」と呼ばれて、親しまれています。
 もしも心のポケットに言葉をしまっておけるなら、今朝のみ言葉はぴったりでしょう。大人でも、子どもであっても、生きる目的を見失って、暗闇に取り残されたような不安を感じる時があります。イエス様は、「あなたがたは世の光」と呼びかけてくださいます。その存在が光なのだと。その光を輝かせるために命を燃やしなさい、そうすれば、人々が、あなたのその姿を通して、神様の愛に目覚めるから、と招いておられます。
(深谷牧師)

■ 2019年7月14日礼拝 「父と母を敬え」

「あなたの父母(ちちはは)を敬え」(出エジプト20:12)

 モーセが授かった十戒は2枚の石の板に記されているが、1枚目は神との関係、2枚目は人との関係の内容である。ところで「父母(ちちはは)を敬え」は人との関係でないかと思われるが父母の愛と力の根源は神にあるからなのだ。
「母の日」は1914年米国議会で国の祝日に定められ、わが国では戦後(1945年)守られるようになった。最近は「父の日」(6月第3日曜)も行われているが、これも米国の一婦人が1940年に提唱したことにはじまる。
 十戒では(3,300年以前)すでに父と母両方を敬えと命じている。母の日の由来もこのみことばに起因している。
(清水名誉牧師)

■ 2019年7月7日祈りの友礼拝 「権威ある言葉」

「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」(ルカ4:32)

 「おばけなんてないさ」という子どもの歌があります。ちょっと怖いな、ちょっと怖いな、という気持ちを、「おばけなんてうそさ!」と最後は吹き飛ばそうとする可愛い歌です。それは、あるいは世の中を渡る勇気を教えてくれているのかもしれません。
 しかし、イエス様の言葉は全く違うアプローチで、私たちに生きる喜びを与えてくださいます。私たちを悩ませ、苦しめる悪霊を黙らせ、取り除いてくださるのです。十字架の血潮で洗い清め、慰めと解放を、癒しと回復を、その権威は与えてくださるのです。
(深谷牧師)

■ 2019年6月30日弾圧記念日礼拝 「御前にひれ伏せ」

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)

 弾圧記念日礼拝を捧げるとき、私たちは、誰を「主」としてひれ伏すか、ということを問われます。昭和の大戦時、大規模な思想統制、宗教弾圧は、国民同士を不安にさせ、軍部の前にはひれ伏さねばなりませんでした。
 今は「A.D.2019年」です。愛と正義で世を治める、主の御前にひれ伏しましょう。
(深谷牧師)

■ 2019年6月23日花の日・こどもの日礼拝 「良い実を結ぶ人」

「『種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」(ルカ8:8)

 イエス様は、神様の祝福を、楽しい「たとえ話」で語られました。「種をまく人のたとえ」もそのひとつでとても有名です。
 「神様は、私たちの心に、良いものをくださっています。感謝の心、大切なものを守りたいという願い、悪い習慣をやめる力、悲しい気持ちを祈ること、自分の間違いを認める勇気…。それらを育て続けることは、難しいことですが、やがて、必ず素晴らしい神様の祝福が、その人におとずれます」と。
(深谷牧師)

■ 2019年6月16日礼拝(四重の福音・神癒) 「いやしの信仰」

「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところないものとして守り、…非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)(抜粋)

 恵みの雨に打たれて、アジサイの花が、葉が、一枚一枚、キラキラと光っています。
「神癒」(Divine healing)とは、いやしの信仰と言い換えることができるでしょう。それは、イエス様が、わたしたちの体だけでなく、霊も魂も、つまりすべての領域を、完全な者として回復してくださるという約束です。
 心の底にある、飢え渇きの叫びを、大胆に祈り求めませんか。主の愛のシャワーが、汚れを洗い流し、潤してくださいます。
(深谷牧師)

■ 2019年6月9日ペンテコステ礼拝 「真理の霊」

「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ福16:12)

 「ペンテコステ」とはギリシャ語の「第50」の意味で、旧約時代では「五旬節」として、大麦の刈入れ(過越祭)から50日目の小麦の刈入れ祭として守られてきました。
 この日は主の復活日から50日目にあたり、主が約束された聖霊が弟子たちに降り、彼らは聖霊の力に満たされて力強く主の復活を証し教会が誕生しました。それゆえ教会暦では「降誕節」「復活節」(受難節)と並び、約8ヶ月間にわたって「聖霊降臨節(三位一体節)」として守られ重視されています。
(清水名誉牧師)

■ 2019年6月2日祈りの友礼拝(四重の福音・新生) 「新しい日々」

「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(Ⅰテサロニケ2:13)

 ホーリネスの信仰、といっても、聖書の時代から受け継がれた正統的な信仰と、異なる教えを説いているわけではありません。しかし、より信仰が生きて働く者となるように、という強い願いがこの教えにはあると言えるでしょう。今年はテサロニケの信徒への第1の手紙を通して、「四重の福音」を学びたいと思います。何事も、はじめが肝心、どこかおかしいな、と思ったら、その根本に立ち返ることです。「新生の恵み」イエス様に救われた喜びは、永遠に、恵みの源です。
(深谷牧師)

■ 2019年5月26日春の特別特拝 「三つの贈り物」

「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう。」 (箴言18:14)

 弱い私たちに、神は三つの贈り物をもって慰め励ましてくださいます。① 16節 信仰者の贈り物はしばしば、「えらい人~口語訳は尊い人」へ導きがあるというのです。心からのプレゼントは尊い方、イエスさまへと導く良い機会となるのです。② 22節 人間の最初のつながりは親子でなく夫婦でした。アダムにイブを与えられたのは神ご自身です。キリスト者の妻は神さまからの贈り物です。③ 24節 口語訳は「兄弟よりもたのもしい友」とあります。ダビデにヨナタンが与えられたように、真実な友を神さまは用意し与えて下さるのです。
(玉田耕治師  世界福音伝道団牧師)

■ 2019年5月19日礼拝 「ナザレのイエス」

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 (ルカ4:18-19)

 この箇所は、イエス様が宣教を開始された初めの出来事です。故郷・ナザレの会堂で、この方は残念ながら理解されませんでした。しかしそれは、むしろその真実と限りない広がりを、私たちに証明しているのです。
 誰にも理解してもらえないとき、イエス様は、遙かな時を超えて最大の友として、喜びと救いをもたらしてくださるのです。
(深谷牧師)

■ 2019年5月12日母の日礼拝 「母の日によせて」

「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。」(エフェソ6:2)

 「母の日」の起源は、1908年米国ウェストヴァージニア州のウェブスタ―教会に始まると言われています。教会学校の教師であった、ジャ―ヴィス夫人の記念会で、娘のアンナさんが、生前母の好きだった、白いカーネーションを参列者に贈りました。幼い時教会学校で母から聞いた「父と母を敬え」という聖書の教えを、彼女なりにあらわした行為でした。校長のワナメーカー氏はこのことに大きな感動を覚え、地域にも働きかけて、5月第2日曜日を、母への感謝を捧げる日と定め、やがて祝日へと発展して現在に至ります。
(深谷牧師)

■ 2019年5月5日祈りの友礼拝 「聖なる主の日」

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト20:8)

 天地のあらゆるものを創造された主は、7日目に休息され、その日を祝福し聖別された。
 イスラエルの民はその日を安息日として聖別し、すべての労働を休み礼拝を守っている。
 主イエスは十字架に死なれ、7日目の安息日を墓の中に眠られ、8日目(第1日目)に復活されている。そこでヨーロッパの教会では8という数字を復活と永遠の命のシンボルとして八角形の洗礼堂を建てるところがある。
 今日、一般的には日曜日を休むが、私達はこの日主が復活されたことを記念して聖別し礼拝をもって週の始まりとしたい。
(清水名誉牧師)

■ 2019年4月28日第72回教会定期総会礼拝 「ガリラヤの春」

「イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」(ルカ4:14-15)

 聖地イスラエル巡礼の一般的なコースは、まず自然豊かな美しいガリラヤ湖周辺から始まり、ヨルダン川を南下して、最後に首都エルサレムを巡ります。これはきっと、福音書のイエス様のご生涯をベースにしているのだと思います。4章から9章までは、「ガリラヤの春」と呼ばれるそうです。神の愛と奇跡の業、救い主の使命を確証するに至るイエス様と弟子たち、色とりどりの情景が、信仰の世界の豊かな彩りを伝えています。
(深谷牧師)

■ 2019年4月21日イースター礼拝 「天国を仰ぎ見て」

「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」(マルコ16:6-7)

 (深谷牧師の説教)

■ 2019年4月14日棕櫚の主日礼拝 「ねたむ神」

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)

 十戒の中の第一戒である。続く第二戒は「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節)として、天地創造主、唯一絶対の神以外の被造物を神として偶像礼拝することを禁じている。その厳しさは、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」に示されている。「熱情」は旧約原典(ヘブライ語)では「妬む」となっている。(口語訳、共同訳も同じ)神が妬まれるとは意外な気がするが、神はそれほどまでに、人が罪を犯して滅びることが無いようにと強く願っておられるのである。
(清水名誉牧師)

■ 2019年4月7日レントⅤ礼拝 「主のひとみ」

「ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは…主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:60-62)

 風見鶏の起源は、このペトロの記事に由来するという説があるそうです。その意味するところは、「挫折と失敗、赦しと恵み」です。この出来事は、ペトロの失敗を包み隠さず露わにします。しかし同時に、紛れもなくこのペトロを赦しと恵みで包んだ、イエス様のまなざしが、ここには刻まれています。人の破れは、神の光を射し出すのです。
(深谷牧師)

■ 2019年3月31日レントⅣ礼拝 「山上の変貌」

「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(マタイ17:1-3)

 イエス様は、生まれた時から貧しい姿でした。やがて受難が始まり、その暴力は、ますます「救い主らしさ」を剥ぎ取っていきます。
 しかし、「山上の変貌」で現された、天上での真の姿は、あの、みすぼらしい十字架の姿こそ、この栄光の全てを犠牲にした、真の偉大な姿だったのだと示しています。
(深谷牧師)

■ 2019年3月24日レントⅢ礼拝 「神殿の屋根の端」

「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」 (ルカ4:12-13)

 三番目の悪魔の誘惑の舞台は、あろうことか、聖なるエルサレム神殿の屋上でした。エルサレムは、やがてイエス様が十字架につけられた場所です。「時が来る」と、弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りによって、受難をお受けになられたのでした。私たちは生涯、誘惑から解放されないでしょう。しかし、試練に立ち向かい、常に悪魔に勝利された、イエス様の姿が、ここにあります。
(深谷牧師)

■ 2019年3月17日春の特別伝道礼拝(レントⅡ) 「驚くばかりの神の愛」ー贖い、愛、臨在ー

「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。……わたしはあなたを愛し、…恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」 (イザヤ43:1,4,5)

 今朝の聖書の箇所は、66歳の誕生日の前夜、示されたライフ・メッセージ…。
◇わたしの人生で一番大きな出来事は何だろうか?それは言うまでもない、「主の贖い」の恵みの体験。19歳の洗礼の日!1969年12月21日。あの日、わたしは主イエスの十字架の血潮で贖われ、新しい日が始まった。深い罪意識、瞬間的に感じた主の贖いの血潮、あふれて止まらなかった涙…。
◇二番目の出来事は何だろう?その後の信仰挫折か?山谷の日雇い労務?信仰回復の喜び?神学校入学か?牧師になったこと?あるいは結婚?子供たちの誕生?求道者が洗礼を受けた日か?66年。感謝と喜びの洪水のような、愛に包まれて生きてきた!
◇三番目は?主が共におられる。「贖いと愛と臨在!」。ここに聖書66巻の粋がある!ハレルヤ
(深谷春男牧師:新宿西教会牧師、東京聖書学校旧約教師)

■ 2019年3月10日レントⅠ礼拝 「十戒」

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 (出エジプト20:2-3)

 出エジプト記20章には、いわゆる「モーセの十戒」が記されている。神がシナイ山にてイスラエルの民と契約を結ばれたのである。十戒は神ご自身2枚の石の板に指で刻み込まれたとされている。(31:18,32:16)
 神が十戒を通して結ばれた契約は、神と民との相互契約ではなく、神の民に対する一方的要求の契約である。しかし、神はその要求に先立って、救いと恵みがあったことを述べられているのである。
(清水名誉牧師)

■ 2019年3月3日祈りの友礼拝 「悪魔の誘惑」

「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカ4:1-2)

 聖書の語る悪魔は、トランプに印刷されているような姿では、実はありません。むしろその言葉は滑らかで、内容も魅力的です。しかし、その契約書の一番下に小さく破滅の条項が記されており、約束の栄光は、限られた時間である、それがサタンの本質です。
 悪魔が狙うのは、弱い人ではなく強い人であり、不従順な人より恵まれた人なのです。悪魔の誘惑を退けた、イエス様の姿に倣い、試練を乗り越えて参りましょう!
(深谷牧師)

■ 2019年2月24日創立記念第4礼拝 「イエスの系図」

「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、…エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。」(ルカ3:23,38)

 上掲の聖句は系図の最初と最後のみを記載しました。古代社会の系図の証明は、いわば、現代のDNA鑑定です。それは二つの側面があります。正統であるかの線引きと、想像を遥かに超える世界との繋がりの発見です。
 ルカ福音書は系図をもって、主イエスが、私たちに救い主であることをしめしていますが、それは排他的な目的ではなく、全世界が神の愛に遡ることを伝えています。
(深谷牧師)

■ 2019年2月17日創立記念第3礼拝 「イエスの洗礼」

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカ3:21-22)

 イエス様が洗礼を受けられたヨルダン川は、地球上で最も低い、海抜マイナス400mの川です。罪のない神の子であるにもかかわらず、私たちと同じように洗礼を受けられ、沈没船が横たわる海底よりもさらに深いところに、再創造・平和・神の愛と選びを示す、聖霊の鳩をイエス様がもたらしてくださいました。福音宣教の働きは、ここに始まります。
(深谷牧師)

■ 2019年2月10日創立73周年記念礼拝 「心を清く」

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)

 ある少女が、今朝の「ベアティチュード」の中から、この言葉が一番好き、と選んだそうです。「心が清ければ、他のすべてのことをすることができるから」というのがその理由とのこと。今朝の教えは、すべてを可能にする心だということができるでしょう。
 日々の歩みに、頭で分かっていても、心は不安で、共にいていくださる神様の姿を見失うことがあります。朝ごとに、主の栄光を仰ぐ、祈りとみ言葉に親しむ生活こそ、私たちの内側に、清々しい空気を送り込み、神の息吹が私たちを励ましてくださいます。
(深谷牧師)

■ 2019年2月3日創立記念第1礼拝(祈りの友礼拝) 「しゅうとエトロの助言」

「モーセのしゅうとは言った。『あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。…あなたは民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。』」 (出エジプト18:17-21)

 ミディアンの祭司でモーセのしゅうとのエトロはモーセを訪問し、一つの助言をした。それは民全体を分割し、責任者を立てる事であった。これは今日の教会の組織化に通じている。当教会の「祈祷組会」もこれに通じるところがある。
(清水名誉牧師)

■ 2019年1月27日礼拝 「祈りの手を上げよ」

「ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」 (出エジプト17:10-11)

 エジプトを出たイスラエルの最初の戦いはアマレクとの戦いであった。ヨシュア率いるイスラエル軍は、丘の上で手を上げ続けたモーセの祈りによって勝利することができた。
 教会も個人も信仰の戦いがあるが、手を上げて祈れば必ず勝利することができる。どんな時でも、どんな場所でも、祈りの手を上げて勝利しよう。
(清水名誉牧師)

■ 2019年1月20日礼拝 「バプテスマのヨハネ」

「ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。… 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」(ルカ3:7-9)(抜粋)

 洗礼者ヨハネの、火を噴くような厳しい警告です。しかし意外なことに人々は、このヨハネの許にこぞって集まってきました。それは、そこに「救い」があったからです。ヨハネは人々に「祝福の道」を伝えているのです。その先に、主イエスの姿を待ちながら。
(深谷牧師)

■ 2019年1月13日成人祝福式礼拝 「成人の日に寄せて」

「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭の慣習に従って都に上った。」(ルカ2:41-42)

 本日、成人祝福式に集われた皆様とそのご家族に、また同じように成人となられる方々に、心よりお祝い申し上げます。イスラエルでは12歳が大人の仲間入りです。イエス様も都詣でをして、人生の節目を迎えました。
 そこには、両親も驚くような、新しい世界に生きているイエス様の姿がありました。成人の日は、第二の人生の始まりです。その門出が、幼い日の神の愛に包まれた教会であることは、何と幸いなことでしょう。
(深谷牧師)

■ 2019年1月6日新年礼拝 「アンナの祈りー賛美と希望」

「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:37-38)

 アンナは、80年以上神殿に仕えた老やもめでした。彼女が腰下ろしていたのは、祈りの織物、心の願いは民の慰めでした。その場所は、華やかさや、頼もしさとは、最も遠いところだったことでしょう。
 しかし、幼子イエスを拝したとき、アンナの魂に喜びと賛美が溢れました。そこには、弱い者であったアンナを喜びで満たす、新しい光が温かく届けられていました。
(深谷牧師)