今日のみことば(2020年)
2020年の聖句「受けるよりは与える方が幸いである」(使途20:35)

 ※他の年の「今日のみことば」はこちら

■ 2020年12月27日年末感謝礼拝 「救い主の誕生を喜ぶ」

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ 2:29-30)

 ラテン語で「ヌンク・ディミティス」と呼ばれるこの讃歌を、画家レンブラントは辞世の作品テーマに選びました。この場面に心打たれる理由は、信仰の光が、暗く悩み多き生涯にも、温かな希望を与え続けてくれることを教えてくれるからでしょう。
 イエス様という、人生の拠り所と出会うことは、最も大きな祝福です。今朝の聖書の箇所は、私たちにそのことを温かな光で包みながら示しています。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年12月20日クリスマス礼拝(アドベントIV) 「羊飼いへの御告げ」

 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2章13-20節)

 深谷牧師の説教 説教の要旨はこちらをご覧ください。

■ 2020年12月13日アドベントIII礼拝 「独り子である神」

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ福音書1:14)

 ヨハネ福音書の書き出しの「はじめに言があった。」は創世記1:1に似ています。
「言」とは単なる人の言葉や言語ではなく、生きた人格的存在で「先在ロゴス(言)」といわれます。「初めに」とは「最初から」おられたという意味です。そのようなお方が、わたしたちを罪による滅びから救い出すために「父の独り子」として来られたのです。それは「神の愛」によります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)
(清水名誉牧師)

■ 2020年12月6日アドベントII礼拝 「ヨセフへの御告げ」

「(ヨセフが)このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」(マタイ1:20-21)

 ヨセフは正しい人で、辛い状況の中でも最善を考える情の人でした。しかし、神の愛は、ヨセフの情を遥かに超えて、全人類を罪から救う、完全に真実なものでした。この愛を証しするために、主イエスの父親として、ヨセフは用いられたのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年11月29日アドベントI礼拝 「マリアへの御告げ」

「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』」(ルカ1:30)

 マリアは、信仰による従順な応答の模範として、二千年間教会の中で語り継がれています。時に「神の恵み」は、私たちが自らの思いを飛び越えた先に、与えられます。驚きや、戸惑いも、マリアの本心でした。しかし、神の導きを確信し、その言葉を信じて受け止めたことによって、神の恵みの体験者として、彼女は救い主の母となりました。神の恵みに包まれる大切な鍵は、信仰を持って従順に神の言葉を受け入れ応答する、ということなのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年11月15日礼拝 「強く雄々しくあれ」

「主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。『立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。…わたしは…あなたと共にいる。…強く、雄々しくあれ。』」 (ヨシュア記1:1,2,6)

 「従者」の語は旧約に4種あるが、ヨシュアに当てられた語以外はみな複数の人達の事。彼は正に唯一のモーセの後継者であった。
 逆に「ヨシュア」の名は多く、「主イエス」の名もヘブル名はヨシュアである。名の意味は「ヤーウェ(主)は救い」である。今や重大な使命を授けられた彼は、主に「強く、雄々しくあれ!」と励まされている。
(清水名誉牧師)

■ 2020年11月8日障がい者と共に在る主日礼拝 「わたしの子羊を飼いなさい」

「ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛してることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。」(ヨハネ21:15b)

 心臓手術のための瀉血をしていた時、手術を終えた患者が言われました。「君の心臓手術は子供の時からのものだろう。心臓外科にはたくさんの心臓手術を受けるために子供がいる。成功して元気になったら、その家族を励ますのだぞ」と。手術後子供たちの部屋を訪ねました。そして退院して後、「京都心臓病児を守る会」に出席し、交流が始まりました。「喜びと悲しみ」の中で大勢の子供達と関わりを持たせていただいています。

 玉田耕治師(世界福音伝道会)

■ 2020年11月1日幼児祝福式礼拝 「祝福された人生」

「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』『どうか、あなたのお名前を教えてください』とヤコブが尋ねると、『どうして、わたしの名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。」(創世記32:29-32a)

    深谷牧師の説教(略)

■ 2020年10月25日礼拝 「眠れるイエス様」

「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」(ルカ8:23)

 寝顔には、不思議な力があります。一番無防備な姿であり、一番安らいでいる姿でもあります。イエス様は、弟子たちに眠っている姿をお見せになりました。それは「恐れなくて良い、私を信じなさい」という無言の励ましだったのです。
 私たちにも、同じように主は無言の励ましを与えてくださっています。それは決して私たちのことを分かってくださっていないのではありません。船を襲う嵐を、沈める権威を主は持っておられるからなのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年10月18日礼拝 「モーセの最後」

「主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。…あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。』」(申命記34:4)

 モーセはモアブの地で、ネボ山のピスガの山頂で約束の地を見渡した後、モアブの谷に葬られた。彼は死んだ時百二十歳だったが、目はかすまず、気力もうせていなかったとは驚くほかはない。旧約の律法の書は「モーセ五書」といわれている。預言者を代表とするエリヤと共に救い主イエス・キリストを証しする旧約の代表者である。(マタイ17:3、ルカ24:27)
(清水名誉牧師)

■ 2020年10月11日神学校日・伝道献身者奨励日礼拝 「祈りに生きる -運命に抗う道-」

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」 (ルカ18:1)

 運命――それはもはや人間が従いゆくしかない強大な力です。しかし、神様の御心・ご意思というのは、いわゆる運命主義とは全く違うものであります。
 ただその流れに身を委ねるだけではない。信仰はそうではない。祈りを無視されないお方と、祈りをもって向かい合って生きる。これが祈る生き方です。

 落合建仁師(金城学院大学准教授、宗教主事)

■ 2020年10月4日世界聖餐日礼拝 「主の母、兄弟」

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」 (ルカ8:21)

 今朝の聖書は、甘さのない、大人の味付けを感じる箇所です。たとえ肉親であってさえ、本当に理解できる事には限界があるという苦い現実が示されているからです。
 しかし同時に、それは信徒の交わりという、新しい恵みを示しています。み言葉に聞き、従っていくという生き方を選ぶ時、豊かな喜びと深い平安が備えられています。その恵みを分かち合う教会は、イエス様が、母よ、兄弟よと呼んでくださる新しい「神の家族」だと言われています。
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(深谷牧師)

■ 2020年9月27日礼拝 「明かりを灯せ」

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」(ルカ8:16)

 「あの人は輝いている」と言いますが、どうしてそう言うのか、改めて考えてみると不思議です。イエス様は、私たちの心に明かりを灯してくださる方です。それは、人間の隠された罪を赦し、愛と喜びで満たしてくださると言うことです。イエス様を心の扉を開いて、一番暗い部分にお迎えしようではありませんか。このともしびは、わたし達を内側から照らし、輝きとなってまわりを照らすことでしょう。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年9月20日合同記念礼拝 「憐れみの主」

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。(ルカ7:11-17)

 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年9月13日献堂13周年記念礼拝 「岩の上の教会」

「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」(ルカ6:47-48)

 献堂13周年になりますが、今も当時の事が忘れられません。07年1月に基礎工事が始まりました。土を深く掘り下げられるのを見た近所の人が「5階建てのビルでも建つのですか?」と驚いておられました。基礎の工事が3月頃まで続き、主のみ言葉通り建築は目に見えない土台が大切だと痛感しました。
(清水名誉牧師)

■ 2020年9月6日祈りの友礼拝 「神のことば」

「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。…』」(ルカ8:4)

 ルカ8章からは、ガリラヤ後期の活動に入ります。イエス様は、譬え話を多く語られました。今朝の箇所は、その中でも有名な「種蒔きのたとえ」です。「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)と主は言われました。それは一見、簡単に理解できるような内容でありながら、その本意を理解することが意外と難しいことを意味しています。しかし、熱心に耳を傾け求める人に、祝福が与えられると約束されています。
(深谷牧師)

■ 2020年8月30日礼拝 「多くの罪を赦されて」

「言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。」(ルカ7:47-48)

 罪の女、という不名誉な呼び方をされる、ひとりの人をイエス様は、深く取り扱われました。先生と呼ばれるファリサイ派のシモンの晩餐の招待よりも、この女性の深い罪の悔い改めを、主は喜ばれ、真実な愛で包み、彼女の魂に信仰による救いを与えられました。
 罪の悔い改めの涙と赦しこそ、真実の愛と出会う、恵みの機会になるのだと、今朝の聖書の箇所は私たちに告げています。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年8月23日夏期特別礼拝(聖会メッセージ) 「喜びをくださる方」

「受けるよりは与える方が幸いである」 (使徒20:35)

 何かを誰かにあげることがうれしいのは、人間が持って生まれた性質なのだ、とクリスチャン心理学者の碓井真史先生は言います。
 ソーシャル・ディスタンスという言葉が生まれ、言葉を控えよ、会食は止めよ、触ったものは消毒せよと、声高に叫ばれます。でも、人の喜びは、共に時間を過ごし、励ましと優しい言葉を交わし合い、プレゼントを贈り、近くに互いの温もりを感じて生まれます。
 私たちに最大の喜びをくださった方は、イエス・キリストです。この方に倣い、与える喜びに生きようではありませんか。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年8月16日夏期特別礼拝 「尽きることのない愛」

「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」 (ルカ19:9-10)

 罪人と呼ばれていた嫌われ者のザアカイは、イエス・キリストの噂を耳にしました。
 たとえどんなに罪深い者であろうと、熱心にイエス・キリストを捜し求めるときに、イエス様も熱心に罪人を愛して、捜し求めておられることに気づかされるのです。
 そして、イエス様はどんな障害物もものともせずに、必ず出会って下さいます。
(森田 学師 信楽キリスト教会伝道師)

■ 2020年8月9日礼拝 「モーセの祈り」

「『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方、…』と。どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」(民数記14:18-19)

 イスラエル12部族を代表する偵察隊がバランの荒野を出発、40日間の偵察を終えて各自報告した。結果ヨシュアとカレブ以外の10代表はカナン侵攻に反対し、共同体は2人を石で打ち殺そうとした。この時、主は栄光のうちに現れ、逆に共同体を疫病にて撃つ、と語られた時のモーセのとりなしの祈りである。モーセの祈りは聞かれ共同体は赦されるが40年間荒野でその罪を背負う事となる。
(清水名誉牧師)

■ 2020年8月2日平和主日礼拝(祈りの友礼拝) 「平和の君」

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を 患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:22-23)

 ナチス・ドイツに抵抗した告白教会の若き牧者ゴルウィツァーは、ヨハネが、疑いではなく、試みを受けていたのだと見ています。神のなさりかたが分からなくなり、どうしても尋ねたくなったのだと黙想しました。
 神の平和は、信仰者が試みの中で捧げる祈りに示されます。主との出会いとして。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年7月26日礼拝 「贖いの座」

「次に贖いの座を純金で作り … 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作った。」(出エジプト37:6-8)

 モーセはシナイ山で十戒に続き律法の細則を授かった。幕屋の規定が詳しい。上掲の規定は幕屋の中心をなす最も重要な箇所。
 大祭司が年に一度(7月)若い雄牛の血を携えて至聖所で民の罪の赦しを祈る所である。
 主イエスは永遠の大祭司として十字架上で自らの血を流し、わたしたちの罪の贖いとなられた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたという。(ルカ23:45)「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(ヘブ10:10) 「我贖われて自由にせられ」である。
(清水名誉牧師)

■ 2020年7月19日礼拝 「憐れみの主」

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」 (ルカ7:13)

 やもめとなった女性が、一人息子にさえ先立たれ、その葬儀の列に立っています。多くの村人が彼女を囲んでいますが、同情して、かける言葉もないでしょう。しかし、主イエスは違いました。この女性に「もう泣くな、起き上がれ」と声をかけられたのです。
 教会は、イエス様に連なる列だと言われます。それは、死からよみがえり、罪を赦し、永遠の命という御国を示す、救い主の行進です。この憐れみだけが「もう泣かなくてよい」と私たちに告げることができるのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年7月12日礼拝 「権威に従う」

「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。…ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(ルカ6:6-7)

 「権威への服従」と「広々とした恵みの世界」一見相反するイメージの言葉です。しかし、今朝の箇所で、実はこれは表裏一体であることが示されています。絶対服従の中で、鍛え上げられた軍人は、新しい恵みの平野を開いてくださる、イエス様の権威を、潔く告白することができました。無条件の信頼、それが広々とした恵みを開く信仰です。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年7月5日礼拝 「実際にやってみる」

「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」(ルカ6:48)

 「平地の説教」の最後の部分です。「教えたことを、聞くだけで終わらせず、実際にやってみなさい」と勧められています。愛敵の教えに始まる高度な教えを、私たちは、失敗せず完成させることはできません。しかし、その経験から、見捨てず励まし、必ず慰め、常に力づけてくださる主の愛を見いだすことができるのです。その信仰は私たちの岩となり、嵐から守ってくださるのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年6月28日礼拝(四重の福音・再臨) 「再臨の日」

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」(マラキ3:19)

 飛ぼうとする度に、棒で叩き続けられた鳥は、やがて健康なのに羽ばたくことができなくなったそうです。希望が適わなかった人は、やがて夢見ることを諦めます。しかし、もしその鳥が、恐怖の記憶から解き放たれて、もう一度羽を広げるなら、大空に舞い上がって、喜びさえずることでしょう。
 再臨は、聖書が私たちに約束する、喜びの日です。主を信じるものに与えられる、と告げられた恵みは、試練の先に、主から戴けるばら色に輝いく祝福の訪れなのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年6月21日弾圧記念礼拝(四重の福音・神癒) 「弾圧と神癒」

「すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。」(黙示録6:11)

 「なお、しばらく静かに待つように」という主の言葉を、神癒という観点から黙想して印象が変わりました。これは痛みを取り除かれて、安らぎを与えられた姿であると示されたからです。殉教者たちは勝利の白い衣を着て、「耐え忍ぶ者には喜びがある」と私たちに告げています。逆境に生きた先達の証しに心奮い立たされつつ、私たちの馳場を、賛美と共に走り抜けようではありませんか。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年6月14日礼拝(四重の福音・聖化) 「聖霊による愛」

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)

 主イエスは上記の二つの掟を引用し、律法の中で一番重要である、と教えられました。しかし、果してこの二つの掟を守ることができるでしょうか。自分の持っている力では、到底叶わないのではないでしょうか。それは、わたしたちの自己愛を隣人愛へと変える力です。聖霊による愛の力です。
(清水名誉牧師)

■ 2020年6月7日礼拝(四重の福音・新生) 「新生の恵み」

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)

 聖書が示す世界は、初めがあり、終わりがある、というものです。世界で起こることは全て一度限りであり、私たちの生涯もその中にあって生かされていると教えています。
 「新生」とは、イエス様を信じて、新しい命に生きる者となる、ということです。昔の自分のやり直しでも、何回も生まれ変わる運命を巡るのでもありません。祝福によって与えられた生涯を、天の御国を目指して歩むスタートライン、それが「新生」です!
 説教の要旨はこちらをご覧ください。
(深谷牧師)

■ 2020年5月31日ペンテコステ礼拝(家庭礼拝) 「喜びと愛の源」

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(IIコリント9:8)

 他の人のために、善い業に豊かになることで、その人は満たされるのだ、とパウロは言いました。それは、主イエスが歩まれた道であり(使徒20:35)神が喜ばれることです。
 お互いに距離をとる日常に、無意識のうちに、満ちあふれる豊かさの秘訣からも、私たちは遠ざかっているかもしれません。「良きサマリア人」となって、聖霊の火を燃え立たせていただこうではありませんか。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。また、説教の動画はこちらでユーチューブ配信しています。
(深谷牧師)

■ 2020年5月24日家庭礼拝 「神の家族」

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。」(Iヨハネ3:1)

 上掲の聖句はかつて教会で用いられていた口語訳です。学生の頃、私は「クリスチャン」と友達に言われるのに抵抗がありました。分不相応な評価をされているようで、落ち着かなかったからです。
 けれども、今はそれが、どれほど大きな恵みと喜びを、私にもたらすものであるかと感じています。「神の子」と呼んでくださる主は、どんなに大きな愛で私たちを包んでくださっていることでしょう。神の家族とされていることの恵みを、再び深く心に思い起こそうではありませんか。
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(深谷牧師)

■ 2020年5月17日家庭礼拝 「苦しみの丘を越えて」

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:17)

 デザインの勉強で「コントラスト(対比)」というテクニックを学びました。相反する性質を並べると、テーマがより鮮やかに伝わるという手法です。パウロが7節から語る信仰告白には、鮮やかなコントラストが繰り返し並べられています。それは「栄光」と「苦難」の対比です。
 キリストにあるとき、「衰えていく外なる人」と「日々新たにされる内なる人」は、相反する関係ではなく、「にもかかわらず」で繋がれて、永遠の栄光と、復活の希望が、そこに実現すると語られています。
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(深谷牧師)

■ 2020年5月10日家庭礼拝(母の日) 「母の日によせて」

「あなたの父と母を敬いなさい。」(出エジプト20:12)

 母の日の由来は、1908年米国ウェストヴァージニア州のウェブスターの町の小さな教会で行われた一婦人の記念会に始まる。その人の名はジャーヴィスさん、26年間日曜学校教師をされて1905年に召されたのである。娘のアンナさんが記念会の席上列席者にカーネーションの花束を贈り母のお話をされたところ、列席者の感動されるところとなり、毎年「母に感謝する日」を定めようと話し合った。そのことをデパート王ジョン・ワナメーカー氏が知られ、5月の第2日曜日に「母に感謝する日」をデパートを会場にして主催。1914年には米国議会が国の祝日に制定しました。
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(清水名誉牧師)

■ 2020年5月3日家庭礼拝 「クワイエット・タイム」

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)

 昨年8月に「レジャー・シーズン」と題して、今朝の箇所の並行記事(ルカ4:42-44)から説教をいたしました。最上のレジャータイムは、礼拝である、という内容でした。
 まさか1年後に、こんなかたちの大型連休を迎えるとはその時は思いもよりませんでした。しかし、私たちは改めて、人生に大切なレジャーが何であるかを示されています。それは、祈りの時間です。それも、一人で静まって祈る人に与えられる恵みの大きさを、イエス様のお姿は伝えています。クワイエット・タイム(静聴の時間)をぜひ日常に取り入れてみませんか。幸いな連休を!
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(深谷牧師)

■ 2020年4月26日家庭礼拝 「独りではない」

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)

「ステイ・ホーム(家にいよう)」という呼びかけの中で、連休が始まりました。セットに「ノット・アローン(独りではないから)」という言葉があったらいいなと思います。
 弟子たちが二階座敷に取り残される運命が迫った時、イエス様は、ただ「とどまりなさい」と言っただけではなく、「聖霊が遣わされる」と約束を与えてくださいました。
 聖霊が、わたしたちをイエス様の言葉を思い出させ「ここも神の御国なれば」と平和と喜びに引き上げてくださるのです。
 説教の要旨はこちらをご覧ください。また、説教の動画はこちらでユーチューブ配信しています。
(深谷牧師)

■ 2020年4月19日家庭礼拝 「鍵の内側」

「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(ヨハネ20:19)

 「平和があるように」という挨拶は、ヘブライ語で「シャローム」と言います。幼稚園では、毎日この挨拶をして家庭に戻ります。子ども達は、平和を届けているのですね。
 イエス様は、弟子たちの部屋の中に入り、三回(19,21,26節)も「シャローム」と言ってくださいました。主の言葉は、礼拝堂という建物の場所にだけ存在しているのではありません。むしろ、私たちの部屋の内側に、平和を届けるよ、と主は言ってくださいます。この恵みを携えて、扉を開けましょう!
 説教の要旨はこちらをご覧ください。また、説教の動画はこちらでユーチューブ配信しています。
(深谷牧師)

■ 2020年4月12日イースター礼拝 「主はよみがえられた」

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:15-18)

深谷与那人牧師の説教

■ 2020年4月5日棕梠の主日礼拝 「十字架上の祈り」

「イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。』」(ルカ23:34)

 パーム・サンデーを日本の教会では「棕梠の主日」と言いますが、実は葉の短い棕梠でなく、葉も柄も長い「なつめやし」です(ヨハネ12:13)。人々はこれを持って主を出迎えたのでした。しかし、その週のうちに事態は急変し主は十字架にかけられて死なれます。
 主は十字架上で七つの言葉を残されていますが、その第一声が上掲の「執り成しの祈り」でした。わたしたちを罪による滅びから救い贖うために、身代りとなって死なれたのです。すべてを成し遂げられて、最後は父なる神にその身をゆだねられたのです。
(清水名誉牧師)

■ 2020年3月29日レントⅤ礼拝 「心の宝箱」

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:45)

 この「倉」という語は「箱」とも訳され、東方の博士たちが幼子イエスに捧げた宝物の「箱」も同じ言葉です。
 博士たちは、宝の箱を開けて、今まで大事にしていた地上の宝を捧げ、主イエスとの出会いを喜び、恵みに溢れました。私たちの心の宝箱には、何をしまっているでしょうか。十字架の贖いと復活をしまう時、それ以外のものでは実らなかった、恵み豊かな実りが、その人生に新しく結ばれていきます。
(深谷牧師)

■ 2020年3月22日春の特別礼拝(レントⅣ礼拝) 「神が与えられる祝福」

「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』」 (ヨハネ21:6)

 イエス様が十字架にお架かりになった後、弟子たちは希望を失い、故郷で以前のように漁をしていましたが、魚は獲れず八方塞がりでした。そこに復活の主が現れ、お言葉に従った時、思いもよらない収穫を得たのです。
 人生の中では、いくら能力や経験があっても行き詰まることが多々あります。もうダメだと思える所に復活の主が共に立ってくださり、もう一度チャレンジするように声をかけてくださいます。主の御声に聞き従った時、主が大いなる御業を行ってくださいます。説教者ポール・リースが「握りしめたこぷしによってではなく、しがみつく手によって勝利を得る。」と語っているように、自分自身の経験に固執する事なく、主なる神に心を向けた所が祝福の場とさせて頂けるのです。
(佐々木良子師  ドイツ ケルン・ボン日本語教会牧師)

■ 2020年3月15日レントⅢ礼拝 「自分の量る秤」

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 (ルカ6:37-38)

 「秤」のイメージを用いて、イエス様は神の愛の地平を語っておられます。主は、わたしたちを悔い改めに導き、その先にある「神の赦しと愛」を示しておられるのです。
(深谷牧師)

■ 2020年3月8日レントⅡ礼拝 「十字架を目指して」

「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する事になっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ16:21)

 主はご自分の死と復活を三度予告され、弟子たちへその覚悟を促がされた。上掲はその最初で、イスラエル北部の水源地帯であるフィリポ・カイザリアにて。驚いて止めようとしたペトロを「サタン、引き下がれ」と一喝され、その決意の固さが伺える。二度目はガリラヤ地方で。三度目はエルサレム目前のエリコにて。この時十字架につけられることを明言されている。何故十字架なのか?
(清水名誉牧師)

■ 2020年3月1日レントⅠ礼拝 「愛敵の教え」

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。…しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」(ルカ6:31,35a)

 「聖愛の本質は、消極的には自己を愛しない事であり、積極的には仇を愛する事である」黒崎幸吉は、上掲の句をこのように注解しました。イエス様の教えは、逆説的な真理を私たちに告げています。簡単には呑み込めない、引力に逆らうような教えなのです。しかし、ここに私たちの知らない世界があり、そして祝福もある事を告げているのです。
(深谷牧師)

■ 2020年2月23日創立記念第4礼拝 「平地の説教」

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。…しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」(ルカ6:20,24)

 ウェスレーのこの箇所の注解を紹介します。『繁栄とは口に甘き毒であり、苦難はにがいが、いやしの良薬であるから、逆境と和解する考え方をしたいものである。また、世が私たちにほほえみかけ、目の前に広げられ、杯が溢れる時は、心はうきうきしている時は、注意を呼び覚ましたいものである。人々から聞くのは、自分たち自身の賛辞に過ぎない。(自然はこれを愛するのであるが)』(ウェスレー著作集 第1巻 新教出版社より)
(深谷牧師)

■ 2020年2月16日創立記念特別礼拝 「クリスチャン・ライフ」

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。(コロサイ3:12-16)( 抜粋 )

 ジョン・オズワルト師(第25回ケズィック京都大会講師)の説教

■ 2020年2月9日創立74周年記念礼拝 「喜びを与える人」

「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:35)

 人間の本能が求める第一は、与えられることの喜びです。しかし、もう一つの喜びがあります。それが、誰かのために行動することでもたらされる「与える喜び」です。
 上掲の聖句は、パウロの訣別説教の結びの部分です。迫害と試練の待ち受けるエルサレムに、敢えて身を捧げていく信仰者の姿がここにあります。教会は、この教えを受け継ぎ、行っていくよう求められているのです。
(深谷牧師)

■ 2020年2月2日創立記念第1礼拝(祈りの友礼拝) 「一つにされて」

「信者たちは皆一つになって」「心を一つにして神殿に参り」「喜びと真心をもって一緒に食事をし神を賛美していた」「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒言行録2:43-47)

 ここに世界最初の教会の姿があります。その特色は「皆一つになって」「心を一つにして」「一緒に」「一つにされた」などと繰り返して記されています。「教会(エクレシア)」とは「集められた(神の民)」という意味です。皆で相談し一緒に集まったのではありません。各々立場や考えや年令も異なりますが、主によって集められ、一つにされた信徒の群であります。
(清水名誉牧師)

■ 2020年1月26日新春特別礼拝 「主は備えられる」

「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」 ( 創世記22:13-18 )

 永田 直牧師(メーカーズチャーチ牧師、京都復興教会協力牧師)の説教

■ 2020年1月19日礼拝 「世界をいやす力」

「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(ルカ6:19)

 無病息災・家内安全・商売繁盛、これは、時代は変わっても、おそらく永遠に変わらない人間の願いでしょう。と、同時に、それが私にはこれが足りないと悩んだり、悲しんだりするのも変わらないかもしれません。
 イエス様は、確かにいやしの力を世界にもたらされました。しかし、それ以上に大きな祝福をもたらしてくださいました。それは、人間の欲求を根本から覆す、新しい教えでした。それは愛の教えであり、その完成が、十字架の贖いと復活の出来事なのです。
(深谷牧師)

■ 2020年1月12日成人祝福式礼拝 「主が共におられる」

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。」(箴言9:10)

 「主を畏れる」とは「主を畏れかしこむ畏敬のこと」です。いたずらに「神のたたりだ、災いだ。」と言って恐れる恐怖のことではありません。敬虔な気持や態度のことです。
 聖書の中のアブラハムをはじめとする父祖達の物語を通して学ぶことができます。その中から今朝はヨセフ物語を紹介します。
 彼は12人兄弟の11番目で父の寵愛を受け兄達に憎まれました。やがて彼はエジプトの奴隷に売られ数奇の運命をたどりつつ、やがて王に次ぐ宰相とされます。彼の生涯の中には主が生きて共におられたのです。
(清水名誉牧師)

■ 2020年1月5日新年(祈りの友)礼拝 「ミニストーリー」

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

 教会の関係する、社会活動、福祉、医療、教育、人権問題、伝道団体など、すべてを、ミニストリー (宣教活動)と呼びます。
 しかし、その中心はただひとつです。それは私たちの間に宿られたお方、イエス・キリストです。十字架の死と復活の出来事は、私たちの世を照らし、罪から救う、最大のミニストリー(神の使命を果たすこと)でした。
 イエス様が近くにいてくださる、この恵みを深く悟る1年でありますように!
(深谷牧師)