神の御子ともあろうお方が飼い葉桶のなかに寝かされたという。丁度その頃に行われた世界的な住民登録が原因。そのためヨセフとマリアはナザレから120キロも離れたベツレヘムへとむかって旅立つのである。辿り着いたところ宿屋の部屋は満員であったという。
ルターは聖書を飼い葉桶にたとえている。神の御子キリストが、貧しい人間の言葉の中に宿り、証しされているからである。
(清水名誉牧師)
「クリボッチ」という言葉があります。「クリスマスにひとりぼっち」という意味です。しかし、聖書は「神はいつもあなたと共にいる」と約束を語っています。孤独は、その共にいる神様に対して、その人の方が背を向けている姿なのだと示しているのです。
イエス様がわたし達に語りかけるなら、「あなたの『クリボッチ』につき合うよ」でしょう。もし、イエス様を心開いて迎えるなら、暖かく懐かしい安らぎが心に戻るでしょう。クリスマスの星は暗闇に輝いています。
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(深谷牧師)
天使の受胎告知にマリアは戸惑ったが、天使に励まされてみ言葉を受け入れている。
マリアは早速ユダの山里に親族のエリサベトを訪れて挨拶した。エリサベトは聖霊に満たされ声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。・・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」現在ガリラヤのナザレに告知教会、ユダの山里には訪問教会がある。
(清水名誉牧師)
今朝の箇所は新約聖書の最初の1ページです。そこには、イエス・キリストの系図が記されています。俗に聖書通読の壁となるページですが、読み込んでみると、次元の違う新しい疑問や謎が新たに浮かんでくる箇所でもあります。そして、その最大の謎は、やはり「処女降誕の奇跡」に帰結するでしょう。
聖書は私たちに慰めと希望を語ります。しかし同時に、それは常識を打ち破る力強さも含んでいます。この信仰に生きる時、人生の苦難が神の奇跡に変わり始めます。
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(深谷牧師)
皆既月食と惑星食のダブルが話題になり、何百年という時間軸にロマンを感じました。人間には、いつも二つの世界が選べるようになっていると思います。ひとつは儚い人生、無理せず目の前のことに集中し、不確かなことは求めない生き方です。けれども、もう一つは、はるかかなたに輝く神の救いが、自分にも与えられると信じ続ける生き方です。
ベツレヘムの星は、過去の出来事です。しかし、同じ救いの喜びが、私たちの内にも与えられると告げられているのです。
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(深谷牧師)
14章は台所の匂いが漂っている箇所です。地上の食卓を囲みながら、イエス様は天国の宴会の姿を教えられました。信仰の喜びは、天国の宴会を開催するホストになることだと、私たちにチャレンジを与えておられます。イエス様が来られるパーティーは、小さくされた者、へりくだる者が用意した、共に感謝を捧げる喜びの食卓なのです。
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(深谷牧師)
京都教区は毎年11月第2主日を「障がい者と共に在る主日礼拝」として守っている。
イエスさまは身体の不自由な人、心の病気をいやされている。今日の医療と福祉の働きをされた。「因果応報」などと言って過去の罪を裁くのではなく、現在ありのままを受け入れて一人一人を大切にされている。
(清水名誉牧師)
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(深谷牧師)
日曜日には病院は開いていません。それは誰でも知っています。しかし、日曜日でも病気にはなります。痛み、苦しみに定休日はありません。イエス様は、上掲の句を掲げて、神の愛には制限がないことを示されました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」(マタイ11:28)と招かれる主は、救急車よりも早く駆けつけて、私たちを見つめ、手を取り、癒し、それぞれの場所に力づけて遣わしてくださるのです。
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(深谷牧師)
北王国イスラエル7代目の王に悪名の高いアハブが登場すると、敢然と立ち向かったのが預言者エリヤであった。神の怒りの審判で数年(3年6ヵ月=ルカ 4:25)雨が降らないと預言している。エリヤは王の怒りを避けてケリト川のほとりに逃がれ、その川の水を飲み、烏が運ぶパンと肉で養われている。
列王記は歴代の王の列伝のようであるが、実はその王達と対決した預言者の書である。その代表的預言者がエリヤであった。
(清水名誉牧師)
古今東西、キツネもめん鳥も、物語や童謡に登場する、身近な生き物です。しばしば、キツネは賢いけれどズルい厄介者、めん鳥は愚かなほど犠牲的な強い愛情、それぞれのシンボルとして扱われます。
この箇所でまさしく神の愛は、雛を集めるめん鳥だと言われています。翼の下に集められることを、キツネは嘲笑い、あわよくば、親鳥もろとも食い尽くしてやろうと脅すかもしれません。しかし騙されてはいけません。最後は愛が勝つのです。
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(深谷牧師)
きょうは教団の定めた神学校日であるので、そのことを覚えて、ルカ伝5章のレビ(マタイ)の召命からお話したい。
私たちキリスト者は、実は、皆主イエスに呼ばれた者たちだ。では、何のために主イエスは私たちを呼ばれたのか。
①充実した人生への招き
②新しい使命への招き
③使命共同体(教会)への招き
主イエスに呼ばれて、主イエスに従うところに、真に充実した人生がある。同時に、主は目的を持って私たちを呼ばれた。それは、新しい使命を与えるためだ。そして、主イエスに従う道は、孤独な道ではなく、同じ使命を与えられた仲間たちと共に行く喜びに満ちた道である。
(島 隆三師)
神のミッションというと、新約聖書でイエスの弟子たちや使徒パウロから始まったと考える人が多いです。しかし、神のミッションの始まりは、旧約聖書のアブラハムからです。創世記12章で、神様はアブラハムをハランでの生活から、主が示されるところへ行くようにと召されています。この従順な一歩によって、神は全世界を祝福されたのです。
(タン・ショーン師)
深谷牧師の説教
茶室の入口は「にじり口」と呼ばれる二尺一寸、60cmほどしかありません。誰もが腰を屈め、何も持たずにくぐらなければなりません。武士の刀ですら、持って入ることはできません。実は今朝の箇所が、このにじり口の由来だと言われています。
イエス様は、天国の入口は普通の人が入りたいと思うような構えではないと教えられました。神の前に謙虚になり、御心に適う道を歩むよう努めること、これが神の国の入口だと教えられたのです。十字架の傷穴の向こうに、光明が射しています。
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(深谷牧師)
ソロモンが神殿奉献の祈りを捧げました。その祈りの内容は先ず謙虚です。次に自身とイスラエルの民の祈りが聞き届けられるように。第3は罪の赦しととりなしの祈りでした。
当教会は1954年にここ田山町に最初の会堂を献堂。2007年に現会堂を献堂しました。会堂の目的は①礼拝を捧げる。②は共に集まって祈り合い交わりをなす事。③は地域の方々に鐘を鳴らしてお招きし伝道することです。塔の十字架はJR線の窓からも見えるように立っています。(献堂15周年礼拝にて)
(清水名誉牧師)
ダイナミックな神の国の拡大が、ふたつのたとえで語られています。ローマ・カトリック教会誕生以来、キリスト教は世界中に信者を有する一大宗教となりました。また、思想、教育、医療、芸術など、あらゆる分野において、練りこまれた形でキリスト教は現代社会に大きな影響を及ぼしています。天地創造以来の、巨大なエネルギーが、今も私たちを動かしています。
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(深谷牧師)
主イエスがこの世界にもたらした、癒しの力が語られている場面です。癒し、という言葉にはホンワカしたイメージがあるかもしれませんが、医療従事者の姿に分かるようにそれはまさしく戦いです。癒しとは解放の喜びであり、賛美の響きなのです。このことを私たちは見失ってはいけません。
どんな最悪の事態も、イエス様が示された神の憐れみによって、グッドタイミングだ、ということができるのです。
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(深谷牧師)
この例え話のぶどう園の主人は、父なる神、園丁はイエス・キリスト、ぶどう園はこの世界を表していると言われます。
私たちが実を結ぶ者となるよう、主イエスは憐れみと忍耐をもって、最後のチャンスをこの世に与えてくださいました。それが、全人類の罪の身代わりと言う命と引き換えの十字架の死だったのです。
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(深谷牧師)
ソロモン王の後を継いだレハベアムは民の要求に対し、長老達の意見を退け、若者達の提案した厳しい回答を行った。結果ユダ族(ベニヤミン族を含む)を除くイスラエルの民は反発し、南北に分裂する結果となった。しかし、この事は、先に預言者アヒヤが予告した通りであった。(11:26-38)
(清水名誉牧師)
平和ということの本当のありがたさを知っている人は、逆説的ですが、戦争の悲惨さを体験した人だと言えるでしょう。同じように、救われた喜びを知っている人は、自分の罪深さを、真実に受け止めた人だと言えます。
今が平和だからと言って、未来もそうだとは決して言えません。歴史は繰り返されます。平和を願う祈りが、形だけのものにならないためには、私たち一人ひとりの悔い改めが伴わなければなりません。魂を救う神の憐れみを受け取りましょう。
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(深谷牧師)
世の中には、お金で解決できる問題もありますが、できない問題もあります。神との和解は、その後者です。聖書は、最後の審判があることを語っています。そこに必要なものは悔い改めです。反省というよりは方向転換です。「受けるよりは与えるほうが幸いです」というイエス様の招きに応じ、罪と死から救い出してくださったイエス様を信じることです。神との和解がもたらす平安は、他の何物によっても替えがたい喜びと感謝をその人にもたらします。
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(深谷牧師)
「先手必勝」という言葉があります。悪のはびこる世界の中で、主の愛と正義の兆しを探し、今の時を見分けなさい、と聖書は語っています。それが、私たちが罪に打ち勝つ道なのです。疫病や飢饉が起こり、国が争い、偽預言者が現れ、人民の心が冷える時代、終末の世は私たちの社会でもあります。しかし、最後には主が平和を宣言されると約束されています。その兆しを見出し、悔い改める者は幸いなのです。
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(深谷牧師)
西洋絵画に見るキリストは、どちらかと言うと女性的です。しかし、今朝の箇所を読むと、映画『ロッキー』のテーマソングが似合う、孤独で勇敢で硬派なイメージが浮かびます。この言葉の真意は、十字架への道ということです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)主は、その愛ですべての人を罪から救い、魂を新たに作り変えるお方なのです。
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(深谷牧師)
ダビデ王の後を継いだソロモン王は民を正しく裁く知恵を求めた。主は殊の外喜ばれている。早速二人の女性の申し出に見事な裁きを行いその名声が天下に知れ渡った。ダビデ王のなし得なかったエルサレムの神殿建設。諸外国との交易による繁栄。積極的外交政策により長く戦争のない平和な時代を築いた。
正に王の名「ソロモン」が「平和」を意味しているにふさわしい。王の名は箴言、コヘレトの言葉、雅歌にも伺える。
(清水名誉牧師)
今朝の箇所は、「四重の福音」の最後でもある「再臨」がテーマです。再臨は、私たちに、人生の焦点を問いかけます。この広い世界で、長い歴史の中で、ちっぽけな存在である私が、「神様から愛されている光」として生きなさい、大きな使命をこの再臨の信仰は私たちに求めています。
心かよう人との再会が、私たちの力の源となるように、イエス様が会いに来てくださる信仰が、再臨の希望だからです。
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(深谷牧師)
ホ群が弾圧を受けた日から、今朝でちょうど80年を迎えます。この節目の年に、主イエスの言葉を心に留めましょう。それは「神の国を求めなさい」という招きです。
私たちを「小さき群」と知りつつも、空の鳥、野の草でさえ美しく装ってくださる神様は、必ず一人ひとりに目を留め、力づけてくださると約束しています。ハレルヤと信仰を持って賛美しましょう!
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(深谷牧師)
今朝の聖書の箇所は、私たちの命は、神様からの預かり物であるという視点を語っています。人よりも健康だ、体力に自信がある、元気いっぱい!それは素晴らしいことです。しかし、今どんなに健康でも、必ず命をお返しする日はやって来ます。
与えられた豊かさを、信仰と愛とよき業のために用いることが、豊かな人生を送る秘訣です。神癒の信仰で、私たちも生き方の健康診断、セルフチェックをしましょう。
「受けるより与える方が幸いです。」
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(深谷牧師)
ダビデの名は旧約のルツ記以降新約の黙示録に至るまでに1,500回程記される。「ダビデの星」「・・・の都」「・・・の王座」「・・・の家」「・・・の鍵」等。新約の「・・・の子」「・・・のひこばえ」(黙5:5)等。ダビデが偉大であったことが知られる。しかし、巨人ゴリアトを打倒した彼もバテシバの美しさの誘惑に最大の罪を犯してしまった。預言者の指摘に涙の悔改めをしている。詩編51編はその祈。
(清水名誉牧師)
今朝の箇所は、いわゆるペンテコステの記事ではありませんが、聖霊について語られています。聖霊の恵みは、ペンテコステの中心的な主題です。それは私たちの内に実際に生きて働かれる神の力です。
代々の聖徒たちは、この聖霊の働きに心燃やされて偉大な働きをされました。その生き方を批判することは、聖霊の冒涜です。
自らの力を超えて、神の恵みが私を生かしている、と言う新しい生き方の表明は、その人のうちに、必ず深い平安と、喜びの賛美を湧き上がらせることでしょう!
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(深谷牧師)
己の力のみを頼りとして、世界を見上げる人生には、全てが大きく恐ろしく見えることでしょう。
イエス様は、私たちに大きく飛躍した世界の地平線を示されました。それは、すべてのものが覚えられ、数えられているという視点です。すべてのいのちが見つめられ、生かされている、という言葉は、私たちに深い喜びを、与えてくださいます。
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(深谷牧師)
イエス様は、世界中のすべてのもので、隠し通せるものはく、どんな秘密も明るみに出される、と言われました。だから、表面的な評価を、正しさのすべてとする生き方は、注意しなさいと鋭く言われました。むしろ、心の内側に救いを受けていることを大切にしなさいというメッセージです。
小さなことを膨らませ、些細な問題を山火事のような大騒ぎにする「パン種」が、世界中に存在しています。必ず、すべてが明らかにされるという主の約束に、慰めを受け、穏やかな光の内を歩みましょう。
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(深谷牧師)
詩編の150編を調べて見るとダビデの詩が73もありほぼ半数を占める。中でも23編は有名で多くの人に愛されている。
先ず1節では少年ダビデが羊飼だったことを想起させる。4節では彼が経験した死と災の危険の中、主が共におられたことが証しされている。主は愛の鞭と杖でその臨在を示されていたのであった。
初代園長村江茂枝先生は闘病生活の中で、「笞(しもと)と杖の恵」の手記を書かれている。
(清水名誉牧師)
複雑な環境や、親子関係が多くなった現代、「母の日」なんて時代遅れでしょうか。いえいえ、実はそれらは古代の聖書物語に、すでに見られるのです。そこに、神がどのように介入されているかを見る時、私たちは驚かされます。律法の定めさえ超えて、犠牲を強いられた母子に助けのみ使いを送っておられるからです。神の愛は、すべての痛みを負う人に及んでいます。
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(深谷牧師)
イエス様はファリサイ派の人々を、見せかけだけの行いは、器の外側だけを拭いているようなものだと、露骨な言葉で批判されました。そして、内側を清めるためには、正義の実行と神への愛を行いなさいと勧められました。困っている人を助け、お互いをねぎらい、感謝を伝えましょう。執り成し祈りましょう。私たちも、間違った清さという災いから遠ざかりましょう。
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(深谷牧師)
トレーニングが続く秘訣は「実際にそのことで良い変化を感じること」だと思います。
「静聴の恵み」は1、2回ではあまりその効果が分からないかもしれません。しかし、楽器の練習や体質改善と同じで、積み重ねていく中で、自分でも驚くような霊的な成長を体験することができます。
どんなときも、心の中にキラキラと輝く命の水が、生ける泉が湧いている人は、何と魅力的で幸いなことでしょう。
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(深谷牧師)
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(深谷牧師)
力強い覚悟のペトロだが、主が捕えられて大祭司の家に連行されるに及び、主が予告されたように、三度も主を否んだ。その時鶏が鳴き、主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは思わず外に出て激しく泣いた。
(清水名誉牧師)
最も幸せな人生とは、誰かを幸せな気持ちにさせた人生だと言えるでしょう。「仕える心」は、そのために欠かせません。
自分自身を優しく取扱ってもらった経験があってこそ、「仕える心」は、湧いてきます。洗足、そして十字架には、私たちを、救い出すために、へり下ってくださったイエス様の愛の姿があります。
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(深谷牧師)
アラバスター(雪花石膏)に入ったナルドの香油は、当時の年収額に相当する高級品だったそうです。持続性のある強い香りで、十字架のキリストからも芳しい香りが漂ったことでしょう。罪の贖いとなられたキリストに、最も相応しい捧げ物となったのです。ナルドの壺という贈り物に込められた愛と感謝の犠牲こそ、最も美しく大切なことなのだと示されています。
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(深谷牧師)
イエス様が「祈り」と言われるとき、それは真剣な神様との対話を指しています。
どんなに周囲の目には程度が低く映っても、その本質を見過ごされることはありません。むしろ、自分の思いや人間の理屈が、祈りの本質を妨げてしまうことがなんとあることでしょう。春の嵐が、チリを吹き飛ばしています。私たちの心には、神がその対話を求めて迫っています。
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(深谷牧師)
ペリシテ軍の中から一人の巨人が現れイスラエル軍代表との一騎打を申し出た。背丈は約3m、着ている鎧は60kg、槍の穂先だけで7kgもあったという。父の使いで戦場の兄達に見舞の食物を届けに来た少年ダビデは巨人との戦いを自ら申し出た。川岸から滑らかな5つの石を拾い、その1つ目の石を巨人の額に命中させて打倒してしまった。英雄ダビデ物語の始まりである。しかし、彼自身は万軍の主が共に在す事を証ししている。
(清水名誉牧師)
夜道を照らすライトのように、どんな時でも離れずに一緒にいてくれる存在があれば、どれだけ心強いことでしょう。イエス・キリストは世の光であると聖書は語っています。(ヨハネ1:9) 真っ暗な世界でも、輝き続けている人がいることは、大きな希望と勇気を与えられます。十字架の死に至るまで忠実で、死を打ち破り復活された方は、イエス様しかおられません。ゴルゴダの丘のシルエットは、私たちの心に輝くともし火となって、曇りを取り払い、目に光を与えます。そして輝きを放つ者にしてくださるのです。
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(深谷牧師)
議員バッジや、クラブの会員証のような、「救いのしるし」は存在しません。けれど、人間である以上、信仰の世界にも同じような「目に見えるしるし」を求めてしまう誘惑を感じることがあります。
イエス様は、救いのしるしは、ご自身であるとお示しになりました。それは神の言葉、聖書を通して、私たちにも同じように示されています。み言葉を聞いて、守る人の中に、喜びや平安、勇気や慰めとなって、救いが訪れるのです。これ以上のものはありません。
嘆き悲しみ、暗闇の多い「邪悪な時代」にあって、十字架と復活で罪と死を打ち破られた主に、祈り続けてまいりましょう。
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(深谷牧師)
幸いな人、という言葉が聖書の中には繰り返し使われています。これはいわゆる世の中の「成功している人」の姿とは違います。なぜなら、この人は、心の貧しい人であり、悲しんでいる人であり、義に飢え渇いている人である、と言われているからです。
何が幸いなのかというと、神の愛に出会っていること、心の中に命の泉が湧きあがること、罪の赦しと永遠の命という救いを得ていることです。平和の子として歩むことを、主は何よりも望んでおられるのです。
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(深谷牧師)
ユダヤ人には「仮庵祭」という祭りがあります。いわゆる収穫祭ですが、家の前にほったて小屋(仮庵)を作り、食事を振る舞い、歓談しながら家族や仲間のきずなを深めます。子どもたちは、先祖の偉大な出来事を聞き、神に感謝することを学びます。コロナ禍で、キャンプ人口が増え、リトリート(退修)の価値が見直されています。聖書は、命の泉の源はイエス様であると語っています。日常の中で、目の前のことから離れ、信仰と希望と愛に心を留める時間を持ちませんか。
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(深谷牧師)
主はイスラエル初代の王サウルを退け、新しい王を選ぶため、サムエルをベツレヘムへと遣わされた。エッサイの息子達の中から王を選ぶためであった。やがて招かれた七人の息子達は身を清めてサムエルの前に出た。しかし、その中に選ばれる人はいなかったので『息子はこれだけですか。』と尋ねると『末の子が残っていますが、今羊の番をしています』と父の答。その少年ダビデが選ばれて第二代目の王とされることとなった。
(清水名誉牧師)
私たちが神の愛を信じて、洗われた器となったなら、今度はそれを用いなければなりません。もし、神の愛を信じても、それだけで何も行動に移さないならば、それは肥沃な土壌を、雑草だらけにしてしまうようなものなのです。何もしないなら、はじめないほうがましだ、と主は言われます。
手入れされて、健やかに色とりどりの花が咲いている、素晴らしい庭の眺めを想像しましょう。神の愛は私たちをそのようにすると約束してくだっているのです。
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(深谷牧師)
私たちが、頼みとしているものは何でしょう。また逆に、最も恐れているものは何でしょう。イエス様は、私たちに「恐れるな」と語りかけてくださっています。なぜなら、神様が私たちとどんな時でも共にいてくださるからです。
イエス様は、心ない中傷や批判によって、攻撃されましたが、むしろ、それによってその奇跡のわざは、聖霊の働きであり、神の国のしるしであることが証明されました。主への信頼こそ、最善なのです。
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(深谷牧師)
王となったサウロとイスラエル軍は、ヨルダン川東ギレアドのヤベシュに侵攻したアンモン人を打破った。また、周囲を取り巻くペリシテ(現パレスチナ)との戦いでは、王子ヨナタンの活躍もあって勝利を収める事が出来た。しかし、アマレクとの戦いでも勝利したが戦利品の一部を持ち帰って主の言に背いた。主はサウルを王とした事を悔いられた。
(清水名誉牧師)
深谷牧師の説教
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アシュラムの5つの原則にならう二年目の今年は、「御言葉への静聴と立証」がテーマです。神様からの語りかけに、心を澄ませるときに、不思議な力が湧いてくることを、この静聴の恵みは教えています。
それは聖霊の働きであり、「あなたといつも共にいる」と約束してくださる神様が与えてくださる希望です。この1年間、私たちの心が、いつもこの恵みに潤されているなら、なんと幸いなことでしょう。
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(深谷牧師)