イエス様を拝みに来た博士たちは、マギと呼ばれる、異教の賢者たちでした。彼らは、先祖からの偉大な知恵を財産として、日常にひそむ、嘘と真実を嗅ぎ分け、ニセモノと本当の宝を鋭く見抜くことができました。世の中に流されない、その彼らが、命がけで礼拝したのがイエス様でした。
私たちが、求道するとき、献身する時、豊かに恵みを持って答えてくださる真実がここに、証明されているのです。
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(深谷牧師)
深谷牧師の説教
ヨセフは、「自らの心と意思が変えられる」という奇跡を体験しました。世の中の常識は、そんな夢は偶然だ、罪から救うなど気休めだと否定するでしょう。しかし、イエス様はその奇跡を実現されました。
信じる人に聖霊が働いて、救いの喜びを得る奇跡は、今も現実に起こります。
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(深谷牧師)
記述預言者のトップのイザヤは先ずはメシア預言をしている。メシア・ギリシャ語訳ではキリスト、油注がれた者、救い主である。
新約のヨハネ福音書1:18では「独り子である神」同 3:18は「神の独り子」と言われている。即ち他にはない「独り子」である。使徒4:12(口語)「この人による以外に救いはない。」と言われている。尚、イザヤは『平和の君』と唱えられる。とし、同時代の預言者ミカも『彼こそ、まさしく平和である』と述べている。(ミカ 5:4)
(清水名誉牧師牧師)
今朝のルカ1章の中で、キーワードは「沈黙」です。子供が与えられない数十年間の静かな家、神殿の中で香が焚かれる礼拝、そして突発的に耳と口が塞がれてしまった1年弱の期間。しかし、それは神の愛がザカリアとエリサベトに臨んでいることの証しです。
人間に対する神の応答は、沈黙の先にあります。約束が実現することを、子どものように希望と喜びをもって、待ち望むことができますように。
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(深谷牧師)
教会の暦では、今朝が1年の最後です。主に感謝を捧げ、新しい年に希望を祈ります。今年の標語は「御霊の啓導と充満」でした。振り返って充満を味わった体験を思い起こしましょう。
聖書は、恵みには応答しなさいと語っています。与えられた喜びは、神様のご用のために働くエネルギー源です。来年は「神の国の体験と献身」の年です。この佳き感謝と内省が、明日への命の糧となりますように!
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(深谷牧師)
同じ1ムナ(100万円)を受け取って、2人の僕はやる気を出しました。謙遜で忠実な、私たちの模範です。しかし8人は卑屈な精神の餌食となってしまいました。委ねられたものは同じでしたが、その受け止めかたによって、結果に大きな差ができたのです。
ある意味でイエス様は「過程ではない、結果が大事」と言われます。天の父なる神様が、与えてくださった賜物を、活かすことこそ、本当の謙遜で忠実な僕としての生き方です。
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(深谷牧師)
エリコの近くの道端で、盲人が物乞いをしている姿は、その地域の人々にとって普通の風景だったのでしょう。しかし、障がい者である本人にとって、それは彼自身の「本来の自分」ではありませんでした。そして、勇気を振り絞り、一生分の大声で叫んだのです。主は彼の人生を救われました。そして、周りの人々の目も開き、「共に在る」恵みを示されたのです。
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(深谷牧師)
深谷牧師の説教 説教の要旨はこちらをご覧ください。
預言者の革命の言葉と聞けば、輝かしく華やかな、良い知らせだと思うでしょう。しかし、実際は、災害警報のような厳しい神の怒りと、容赦ない裁きの到来がそこには記されています。そして、その大嵐の先に、新しい神の赦しと命の希望が約束されています。イエス様も、死刑囚となった後皇帝の冠をも振り払う、復活の主となって、栄光をあらわされました。「人にはできないが、神にはできる」という地平線を示されたのです。 主がエルサレムに入場される直前のこの場面には、革命のドラムロールが鳴りとどろいています。
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(深谷牧師)
「ラクダが針の穴を通れるか」という、有名な言葉のもとになった今朝の箇所です。人間が幸せになるということが、どれほど難しいことであるかという問題が扱われています。イエス様は、この非常に難易度の高い問題を、解決できる方法を示してくださいました。それが「神の愛を信じなさい」という単純なことだったのです。
ニコデモもマタイもザアカイも、この常識を覆す信仰を得たことによって、神の愛に触れた喜びと、永遠の命を受け取りました。私たちも彼らに倣いましょう。
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(深谷牧師)
上掲の聖句に、テグジュペリの言葉「大人はだれでもはじめは子どもだった。そのことを忘れずにいる大人はほとんどいない」を思い出します。大人が忘れている、本質的なことのひとつは、「そのまま信じて、受け入れる」という姿勢です。
子どもには、能力も経験も力量も足りないので、状況を受容する以外に、選択肢がありません。大人は逆です。しかし、神の国の救いという世界においては、まさに、子どもが大人のお手本です。本当の喜びや恵みは、努力、犠牲、知識や能力では、得られません。それは、ただ「信じて受け入れる」先に入口が必ずあるのです。
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(深谷牧師)
ニコデモは夜こっそりとイエス様を訪ねました。彼はパリサイ人、ユダヤ人議会の議員、熟年者、お金持ちでした。
彼がこっそりとイエス様のもとに来たことには理由がありました。
夜に行ったのは、人目に付かないため、自分の人生が残り少ないため、そして罪の赦しと永遠のいのちの確信がないためでした。ニコデモとイエス様の会話はかみ合っていません。しかし、イエス様は人の心の内をご存じでした。イエス様は、人はすべて新しく生まれる必要を説かれました。ニコデモは立ち去った後、イエス様のことばを何度も思い起こしました。十字架から降ろされたイエスのもとに、没薬と沈香を持って行きました。彼には十字架の意味が分かったのです。
(岡山敦彦師(アシュラム連盟副理事長)の説教)
ミカはアモスに続く文書預言者の一人である。エルサレムの南西、丘陵地帯の農村モレシテの出身。ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した。特にヒゼキヤ王の宗教改革に影響を及ぼしたのではなかろうか。
特に5章はメシアがベツレヘムから出ることを預言しているのは有名である。 「彼は立って、群を養う(良き羊飼として)」 「彼こそ、まさしく平和である。」預言者イザヤも「平和の君」と唱えられると。
(清水名誉牧師)
深谷牧師の説教
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ぐうの音もでない立派な祈りですが、彼は救われませんでした。なぜなら、彼は自分の行いを並べ、他人と比較してしまったからです。その祈りは、神様よりも、自分と他人の姿しか頭にありません。
救いをもたらす祈りとは、自分の小ささと弱さを認めて、「私を憐んでください」と神様に呼びかけることなのです。
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(深谷牧師)
新会堂が献堂16周年を迎えました。16年も経てば新会堂と言えないかも知れませんが、1954年に建てられた旧会堂に対する名称です。尚「会堂」は建物で、「教会」そのものでありません。しかし、主イエスは諸会堂で福音を宣べ伝え、聖書のみ言葉を教えられました。
そのように、会堂は礼拝、聖書の学び、信徒の交わり、福音の宣教のため大切です。
(清水名誉牧師)
赤ちゃんは、少しでもお母さんから離れると泣き出します。ほうっておかれると思うのでしょうか。自分の願い通りにならないと、「神様なんてあてにできない」と拗ねることは、この赤ちゃんに少し似ています。
イエス様が私たちに教えておられることは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということです。なぜなら、母が世界で一番、自分の子供を愛するように、神は世を愛しておられるからです。
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(深谷牧師)
「退院する日、看護士さんに自筆で短い感謝のハガキをあげたんです。そしたら、次の検診のとき、その看護士さんが駆け寄って来てくれて、会えて嬉しいわ、がんばってねって声かけてくれて。私も良かったなって思ったんです。」老健にお見舞いした姉妹の心温まるエピソードです。最近は少しずつ、身体まで回復して来ているそうです。
人生の出来事の向こう側に、神の愛を見いだす人は、賛美と感謝が心にわいて来ます。その喜びと平安が、実に力強くその人のうちに働いて、魂を救いへと導きます。主はそのことを喜んでくださいます。
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(深谷牧師)
異教世界に連れられた、シャデラク メシャク アベデネゴ。そして偶像を拝めと強要されたのでした。真の神だけを礼拝する彼らは、偶像に膝をかがめることなどできません。その結果待っていたのは、溶鉱炉でした。しかも普段より7倍もの火の勢いの中に。
三人を放り込んだ者たちは焼かれてしまいましたが火は彼らに危害を与えることはできませんでした。4人目のお方、主が共にいて下さったからです。信仰の試練はしばしば厳しく思われますが、その時にこそ主が共にいて下さるのです。
(玉田耕司師 世界福音伝道会牧師)
アモスは、最初の文書預言者として登場。南ユダ王国テコアの牧者(羊飼)であったが北イスラエル王国のため預言した。テコアはダビデ王の出身地ベツレヘムに近く、この辺りはユダの荒野といわれる牧羊地で、かのダビデ王も羊飼の少年であった。時代は変り北イスラエル王国はヤロブアムⅡ世の統治により繁栄をしていたが、主なる神への反逆の罪も増大していたのであった。アモスは火の出るような審きの預言をしている。しかし、最後には回復の預言も語っている。
(清水名誉牧師)
今朝の礼拝に集う方々も、私を含めて、殆どが戦争を知らない世代になりました。ある意味では幸せなことですが、「平和ボケ」の危険は高まっています。
終末思想は古今東西にありますが、聖書が語る終末は、禍と神の国の到来がくっついているのが他と違います。この地上に絶対の安全地帯はありません。ただ、十字架と復活という最大の受難と勝利を収められた主イエス・キリストへの信仰が、私たちの魂を燃やし続けます。
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(深谷牧師)
イエス様の宣教開始にあたり、天のお父様から語られた言葉です。順境の時だけでなく、逆境の時にも繰り返し思い出しては、「私は愛されている存在」との確信を握り直したことでしょう。
私たちにも世で苦難があることをご存知のイエス様は、「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブライ2章17節)お方です。試練の極みである十字架以来、私たちにも向けられた言葉となりました。「あなたは私の愛する子だよ」と。
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(山口英希師 宮崎清水町教会牧師)
東海道には53の宿場町がありました。旅人の肉体の疲れを癒す、一服の寛ぎの場所だったことでしょう。イエス様を信じて「天路歴程」を歩む私たちにとって、日曜日の礼拝は、1年間で53回巡ってくる、宿場町のようだな、と思いました。
天国までの道のりには、なんと躓きが多く、また忍耐力、精神力が求められることでしょう。イエス様は「主により頼め」と今朝も私たちを、励ましています。
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(深谷牧師)
幼い頃、伝道所で見たこのラザロの人形劇が、忘れられません。地獄でのたうちまわる金持ちの迫真の演技が、とても怖かったのです。人生は、今開いているページが全てはありません。将来を見据えるきっかけとして、起爆剤も時には必要です。
人生の次のページに、神様の恵みを期待できる信仰生活を歩みましょう。
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(深谷牧師)
エリヤは預言者の代表的存在。後継者エリシャはエリヤの霊の二つ分を求めて得た。二人の共通性は名前である。エリヤは「主は神である」。エリシャは「神は救いである」の意。性格は異なり、エリヤは激情的、エリシャは冷静な人の印象である。エリヤが前869~845の24年間、エリシャは前853~793の60年間と約2倍。エリシャの奇跡は8以上も起きていてエリヤの倍以上。エリシャはエリヤから二つの分を受けたのであった。
(清水名誉牧師)
イエス様の例え話の中でも理解する難易度が一番高いのが今朝の箇所です。今日だけで理解しようとせず、何回も黙想して、その深みを味わうことをおすすめします。カギは、人間にとって富の魅力はあらがえないほどの力であるということです。しかし、本当に私たちを幸せにするものは、神の愛です。
その二つのどちらに仕えるか、究極の選択を迫られたら、というお話なのです。
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(深谷牧師)
今から80年前の11月、竹入高先生は、「ああ、天国のようだ」という言葉を残して、天に召されたそうです。なんという幸せな言葉でしょうか。イエス様が、人生の終わりに、自分を迎えに来てくださると信じる人は、この平安をいただくことができるのです。わたしたちのできることは小さなことですが、ひとりでもこのイエス様の愛を感じることができるように、仕えてゆきましょう。
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(深谷牧師)
筋トレを始めて、毎日してはいけないことを知りました。「リカバリ」という何もしない日があって、筋肉は大きくなるのです!
信仰の世界でも、新生の恵み、聖化の成長の恵みの先に、行き詰まり(!)という躓きの状態があります。しかしそれは回復の恵みへの必要な期間です。神の愛は以前より大きくその人の心に迫ってくるでしょう。パウロ先生の言葉は、嬉しい励ましです。
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(深谷牧師)
四重の福音の2番目は「聖化」です。聖化は神学用語で一般的には「聖潔」(きよめ)と言われます。罪を赦されて救われるのみならず、潔められて神の栄光をあらわす生活をめざすのです。ウェスレーは「キリスト者の完全」について述べています。それは完全無欠ではなく、愛による完全のことです。
(清水名誉牧師)
ホーリネス信仰は「確証の教理」を大切にします。儀式や教義、組織を大切にする教会もありますが、「実際に恵みを味わう信仰」を強調するのがホーリネス教会です。
その、救いの側面として先ず挙げられるのが「新生」です。信じた者は、新しく生まれ変わると聖書は繰り返し告げています。そんなことがあるだろうか、と疑うのは当然ですが、この奇跡こそ、神の愛の偉大さの証しなのです。ハレルヤ
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(深谷牧師)
ペンテコステは「聖霊降臨日」とも呼ばれ、私たちに「聖霊体験」を求めることを勧められる主日です。それは、何よりも神の愛を深く心に悟ることを祈り求めることに他なりません。
何年も寝食を共にしながら、弟子たちは本当の意味で神の愛を悟り得ませんでした。しかし、「復活の証人です」と大胆に語る使徒たちの姿は、罪も死も、神の愛から私たちを引き離すことはできないという確信に満ちて、輝いています。
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(深谷牧師)
おそらく私たちの社会は、協力の精神より、競争の精神の方が強いと思います。二人の兄弟がいれば、「どちらが」優秀か、立派か、愛されているか、と考えてしまうでしょう。本当は「同じように」注がれている神の愛も、人間の目から見ると、「悪人の味方」「甘すぎるえこひいき」のように見えることがあります。
しかし、「同じように」愛したいという神の憐れみは、二人の息子に喜びを与え、恵みに満ちた食卓に招くのです。
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(深谷牧師)
母の日の由来。1908年米国ウェストヴァージニア州ウェブスターの教会で行われた一婦人の記念会に始まる。その人の名はジャーヴィスさん。その教会で26年間日曜学校(教会学校)の教師をされ、1905年に召された。その記念会で娘のアンナさんが列席者に贈られたカーネーションの花束が人々の感動を呼び、その地区の教会では毎年5月第2日曜日に「母に感謝する日」が行われた。これを知ったデパート王ジョン・ワナメーカー氏が大きく取り上げて全米に広がり、1914年米国議会は国の祝日に定めている。
(清水名誉牧師)
人生で、この息子のような歓待を受けた経験はあるでしょうか。おそらく、殆ど無いでしょう。しかし、聖書は驚くべき神の像として、「放蕩息子を抱きしめる、なりふり構わぬ父の姿」を書き残しました。
日常生活の中で、心配事で悩むような時、イエス様は、実は神様もまた、私たちを心配してハラハラしていると言われます。神の愛が、支えてくださると知る時、私たちは、やりなおせるのです。
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(深谷牧師)
私たちは、一生懸命、捜し物をすることがあります。しかし、イエス様が語る天の国の話では、実は、捜しているのは私たちではなく、神様なのだと言われています。捜されているのは、他ならない私たち人間なのです。
私たちは、その神様に見出された存在です。天国で天使たちの喜びとされているお互いなのです。この真実が、私たちを、幸いな人に作り変えていくのです。
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(深谷牧師)
今年のテーマである「充満の時」は、本当はクリスチャン・アシュラムの流れの中では、全プログラムの終了のセッションの時間を指しています。「開心の時」に共に分かち合った課題に対して、神様からどのような答えを受け取ったか、報告し、感謝と平安を受け取る時間です。
私たちもいよいよ様々な活動が再開される年度を迎えました。恵みと喜びが満ち溢れることを期待しましょう。
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(深谷牧師)
今朝の箇所で、イエス様は、天国の喜びを教えてくださっています。人間にとって、この世界で最高の喜びとは、愛に根ざした喜びだと示しているのです。そして、それは見失ったものを取り戻した喜びであり、その出来事を、共に分かち合う喜びなのだと語られています。
この聖書が示す喜びを、私たちが歩む道の焦点としてゆくなら、どんな試練も、乗り越えてゆくことができるでしょう。
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(深谷牧師)
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(深谷牧師)
十字架上では主の七言が語られている。その最初の言が上掲のとりなしの祈りである。世界に聖人と言われる人がいるが、世界中の人々の罪の身代わりとなって死なれた方、十字架につける人々のため祈った人はいない。
聖歌には「カルバリの十字架」と歌われるが聖書の中にその名はなく、ヘブライ語のゴルゴダの丘をラテン語にしたものである。「カルバリの十字架わがためなり!」
(清水名誉牧師)
信仰者の歩みは、「しかし」によって支えられているといえます。ペトロは自分のこれまでの豊富な経験や思いを捨て去り、「しかし、お言葉ですから」と、イエスさまの語りかけに従った時に、絶望から希望の世界を見せて頂きました。
私たちの人生も、努力しても労苦と虚しさしか残らない時があります。「しかし、お言葉ですから」と従って、神の恵みの世界へと導かれて参りたいです。
佐々木良子宣教師(ケルン・ボン日本語教会)
多様性という言葉が溢れる一方で、多くの人々が今までの当たり前が通用しなくなり、「世の中についていけない」と不安や怒りを感じているように思います。
「わたしが唯一の道だ」というイエス様の声は、大昔の古臭い言葉ではありません。むしろ、私たちに確信を与え、真理を求める探究心を呼び起こす若々しい響きがあります。人生のピントを合わせ、難しい時代も明るく照らして、わたし達が進む力を与えてくださる言葉なのです。
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(深谷牧師)
最後の晩餐の日、到着の客人の足を洗う下僕がいなかったので、何と主イエスが率先して弟子の足を洗われたという。神の御子たる救い主の何たる驚くべき行動であろうか。弟子の足を洗われると、「あなたがたも互いに足を洗わなければならない。」と命じられている。パウロはこの主の姿に倣い、「謙遜の限りを尽くした」と述べている。(使徒20:19=聖書協会共同訳)
(清水名誉牧師)
「♪飼い主、わが主よ 迷うわれらを?♪」幼い時に教会学校で歌った、子どもさんびか を思い出す箇所です。しかし、身代わり、命がけ、という言葉の響きは美しいですが、もし人間の羊飼いが、本当に一匹の羊のために死んでしまったら、残された群れは、それこそ狼たちの格好の餌食となることでしょう。
イエス様は、十字架で罪の購いとなって死んでくださっただけでなく、復活して永遠の命をもたらしてくださいました。だからこそ唯一の「良い羊飼い」なのです。
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(深谷牧師)
新会堂建築が行われた当時、夕拝でずっとこのネヘミヤ記を読み続けました。建設の経験を通して、主のみ業は、人間の思い通りにはならず、不断の祈りと決死の覚悟が要ることを学びました。そして、その乗り越えた先に、言葉に尽くせないような大きな主の栄光と、信仰の確信を与えてくださることも体験しました。遜って、神様が私たちを導いてくださることを信じていきましょう。
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(深谷牧師)
当教会は今年2月創立77周年を迎えたが、故清水ルイ姉は戦前の朱雀教会にて1939年12月に受洗。竹入高牧師の導きで入信し大阪の西野田教会牧師近畿部長の小出朋治牧師により嵐山保津川で受洗された。以来83年間の信仰生涯を貫き100才5ヶ月で御国へ。その間1949年清水二郎兄とご結婚。ご夫妻は教会の復興,伝道,建設に全力で尽くされた。ルイ姉は終身長老役員であった。感謝!
(清水名誉牧師)
創立77周年記念礼拝を迎え、二名の受洗者も起こされ、この幸いな時を心から感謝いたします。兄弟姉妹のお一人おひとりに、上よりの祝福をお祈り申しあげます。
様々な事情から、共に集い、食卓を囲むことが難しくなりました。しかし、省みて、どれほど今までそのことが大きな恵みであることを見逃していたことかと思います。
日々の当たり前の時間の中に、神様のくださっている幸せを見つけることができるなら、そこに恵みはあふれています。
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(深谷牧師)
パレスチナで塩といえば岩塩で、今も死海から取れるミネラルが豊富な良質な塩は、料理だけでなく、健康や美容の一級品として、イスラエルのお土産として大人気です。
人間は意外と繊細なバランスで保たれていて、体内の塩分が数グラム減るだけで、けいれんや頭痛、倦怠感が起こり、バテてしまいます。人間の0.3%は塩だからです。
もちろんイエス様は、料理や健康の話ではなく、あなた自身のもち味を、賜物として活かす事を強く勧めておられるのです。
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(深谷牧師)
なんと厳しい主イエスの言葉でしょうか。主の弟子となることは、すべてを捨てて従う覚悟が必要なのだと、ここにはっきり述べられています。しかし、それは血も涙もない非情な宣告なのではありません。主の弟子は、まずその人自身が束縛から解放され、自由になります。そして神の愛という最高のギフトは、手離したものの何倍もの恵みをもたらす源となるのです。
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(深谷牧師)
結婚式の案内状、同窓会の招待状、宴会の誘いは嬉しいものです。しかし「出席」の返事をした人たちが、いざとなったら次々に断ってきたというのが今朝のたとえ話です。
楽園での食事、と聞けば誰もが憧れるでしょう。しかし実際に優先順位をつけると、天の父なる神様の招きに応答する人は、ほとんどいないのだと、イエス様は鋭く指摘しておられます。私たちにも、招待状が届いています。待ち望みつつ、歩みましょう。
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(深谷牧師)
列王記はイスラエルとユダ王国の王の列伝というより、王達に神の言を語った預言者達の活躍が記されている。その筆頭がエリヤ。カルメル山上でバアルの預言者450人と対決して勝利した。バアルの預言者全員が民衆の手によって殺されている。これを聞いて怒った王妃イゼベルに命を狙われる。エリヤは直ちに逃がれてベエル・シェバからさらに40日40夜歩き続け神の山ホレブ(シナイ山)に達している。その時、エリヤは洞穴で主の言を聞いた。ダマスコ行きの命令である。
(清水名誉牧師)
深谷牧師の説教
近年は核家族化が進み、大家族で食卓を囲む光景は、ほとんど見られなくなりました。しかし、忘年会や新年会、共に汗した仲間や、親戚と集まる機会は、様々な対策を講じてでも持とうとする人々の思いがあります。
教会も信仰の共同体として、お互いのために祈り、交わり、励まし合うことが大切です。アシュラムの「充満」を心に留めながら、願わくば、共に集まる機会を持ち、天国から注がれる恵みが、私たちの心に充満することを体験できる幸いな年となりますように。
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(深谷牧師)