現実のまちが見えないから、仮想のまちを夢に見る現実という言葉は三つの反対語をもっている、と見田宗介はいう。〈理想と現実〉〈夢と現実〉〈虚構と現実〉というふうに。そして戦後の日本人のリアリティ感覚は、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と、ほぼ15年毎に変化して来たという。
仮想のまちが誘うから、虚構のまちがつくられる
虚構のまちでは飽きるから、本当のまちが欲しくなる
本当のまちをたずねると、失われたまちが現れる
失われたまちが招くから、レトロなまちがつくられる
レトロなまちではツラいから、現実のまちにたちかえる
現実のまちが見えないから、仮想のまちを夢に見る
……
僕を含めてJUDIのメンバーの多くは、生活者としても職業人としても、生きることの技法を「夢の時代」に身につけた世代といえるのではないか。ビートルズ、ヒッピー、フォークソング、学園闘争、……。「夢の時代」とは「理想の時代」から「虚構の時代」への平穏な過渡期ではなく、むしろ理想に生きることにも、虚構に生きることにも徹しきれない、不安定に浮遊する心情の時代だったような気がする。「理想」が現実を志向し、「虚構」がなまの現実を排除するとすれば、「夢」は現実を浮遊するとでもいうべきか。
都市や環境の問題にかかわる僕らの仕事に引き寄せていえば、「理想を実現する計画」の時代から、「虚構を演出するデザイン」の時代へ、たしかに時代は回転したようにもみえる。僕らの前には、焼け跡のリアリティから出発し、近代都市の理想を信じてその実現に邁進できた〈理想〉世代がいた。僕らのあとには、虚構のまちに魅惑されることを素直に受け入れ、自らも軽く浅く演じて見せる、リアリティの呪縛の吹っ切れた〈虚構〉世代がいる。そして〈夢〉世代の僕らは、いや僕は、現実のまちにも虚構のまちにも浸りきれずに、終わりのないうたを歌って来たように思う。
うたを終わらせる方法はあるのだろうか。メビウスの輪を脱け出て、新たな都市環境デザインにいたる道はどこにあるのだろうか。ここに収録されたJUDI会員の真摯な取り組み、実践と論考の数々が、そのための貴重なヒントを与えてくれるに違いない。
1997年10月
第6回都市環境デザインフォーラム・関西
実行委員会を代表して
丸茂弘幸(関西大学)