大阪芸術大学の松久です。 今回のフォーラムのテーマ「かたちと関係の風景デザイン」について、 その主旨を少し述べさせて頂きたいと思います。
都市そのものも、 日本とヨーロッパでは、 日本とアメリカよりも遙かに大きな違いがあります。 ヨーロッパの城塞都市は、 都市というものは“神の国”として、 あるいは“運命共同体”として存在していました。 一方日本やアメリカの都市では、 どこからどこまでが都市なのかはっきりしません。 実際に行ってみて初めて、 まるで違う都市だということがわかったわけです。
イタリア庭園は、 フィレンツェやローマといった都市の郊外のヴィラに点在しています。 私も車でいくつも庭園を見てまわりましたが、 庭園を見つけるのは難しく、 地図を片手にそれは一生懸命探しました。 そして、 そこで見た庭園に深く感動したわけです。
イタリアの庭園は必ず傾斜地に造られています。 露壇建築式などと呼ばれていますが、 いわゆるテラス式になっています。 それから幾何学庭園で、 左右対称の軸線があります。 また軸線を強調するためにカスケードという“流れ”を造っています。
何故このような庭園が造られたのでしょうか。 私はそのキーワードは「風景」だと思うのです。
14世紀後半から17世紀にかけてのルネッサンス時代より以前には、 ヨーロッパ人は「風景」というものを意識することがありませんでした。
中世の人々は城壁で囲まれた神の国に住んでいて、 キリスト教の教えでは「森には悪魔が住んでいる」と言われていました。 そこで、 森に光明を与えるために森林を伐採し、 畑を作って牧場をつくって町を創っていったという歴史があるわけです。
12世紀は大開墾時代と言われていますが、 ヨーロッパ中うっそうとした森だったものをどんどん開墾していきました。 イギリスでは数世紀後には9割方森が失われ、 現在の森はその後人工的に植えたものなのだそうです。 当時は環境はあったけれども、 それを風景として意識する事は無かったわけです。
中世の末期、 1300年代の中頃に忌まわしいペストによってヨーロッパの人口の1/4〜1/3が亡くなったと言われていますが、 それを生き延びてルネッサンスが芽生えてきました。 そのときになって初めて風景を発見したわけです。
中世には神が自分のすぐそばにあったものが、 その後、 地動説から天動説になるなど、 神学に対する不信感が芽生えたのです。
要するに価値観が大きく転換するという時代背景の中で、 自分たちの過去、 つまり古代ギリシャや古代ローマといった昔にもう一度還って、 自分たちを振り返ってみようという動きになったわけです。 そのときに「風景」というものが眼前に現れたのです。
ですからイタリア庭園は風景を見るための装置でした。 風景は「発見」されたわけです。
驚いた事に、 それまで宗教画の背景として風景が描かれる事はあったのですが、 風景画はありませんでした。 あるいは山に登って風景を愛でるということも無かったのです。 これもルネッサンス時代になって、 初めて風景を見るために山登りをするということが始まったのです。
このように、 風景は発見されなければ無視されるものということが出来ると思います。
ルネッサンス時代と同じように、 変換期といわれるときには何故か必ず風景が注目されます。 その後18世紀にイギリスで風景式庭園が生まれたときもそうでした。
それまでは庭園と言えばフランス式一色でした。 このフランス式庭園についても、 ベルサイユ宮殿で見られるような幾何学的な形は今日我々が見ると人工的な気がしますが、 彼らにとっては宇宙そのものを表したものでした。 天体が発見され、 宇宙の法則が発見されたときに、 それを自然そのものだと感じ、 表現したのがフランス式庭園ですから、 彼らにとってはそれが自然そのものだったわけです。
しかしイギリスの風景式庭園のブームによって、 幾何学式庭園が風景式へと全く反対に造り替えられたのです。 これも一つの大きな時代の転換だと思います。
アメリカでも同じように、 ランドスケープの父と呼ばれるフレデリック・ロウ・オルムステッドなどが「国立公園」を考案しました。
アメリカには建国以来200年の歴史しかありません。 自分たちのアイデンティティというべきものが人間が創った歴史としては無かったものですから、 それを何とか見つけたかったのです。 そのときに、 アメリカの広大な自然を自分たちのアイデンティティにしようということで、 国立公園という自分たちの壮大な風景が発見されたわけです。
風景というのは、 そういう意味で、 歴史的に見ても「発見されるもの」ということが出来るかもしれません。
日本においても三度「風景」がブームになったと言われています。
第1回目が明治27年頃、 これは明治維新の後の軽工業の発展が一段落したという時代でした。 第2回目が昭和10年代で、 これは重工業化され、 それが一段落ついた頃でした。 そして第3回目が1970年代、 これはそれまでの産業の歪みが公害といった形で噴出し、 成長の限界などと呼ばれた時代でした。
日本においてもこういった時代の変換期に、 もう一度風景を見直そうとする動きが生まれてきたように思います。
現在の日本を見てみますと、 これは明らかに時代の大きな変換期だと言えるでしょう。 今までの産業が行き詰まって、 これからは健康や環境、 情報、 観光、 芸術といったソフトな産業が新しいと言われています。 これは一つの大きな時代の変換期なわけです。 こういったときに風景をもう一度見直そうというのは正しい判断だと思います。
ところで、 最近の風景に関する盛り上がりは、 専門家が盛り上げているというよりも、 むしろ市民達が自分たちの身の回りの風景に関心を持ち出して起こったものだと言えます。 なんとか自分たちの身の回りの生活にもっと潤いを持たせたい、 もっと快適な空間が欲しいということで、 市民達から盛り上がってきたのです。
五十嵐敬喜さんの『美しい都市を創る権利』という本が出版されましたが、 この中で今までの建築基準法とか都市計画法といった都市法は、 合法ではあるけれども不当な風景を創ってきたのではないかと言っています。
全国一律同じ基準で地域特性を全く考えないこういった法律が、 日本のどこへ行っても街が同じようなってしまったという不当な現実をつくってきたのではないか。 それを改めるには、 いっそのこと憲法の中に「美しい都市を創る権利」という条文を入れてはどうか、 それによって世の中が変わっていくのではないかという大胆な提案が書かれています。
実際に海外を見まわすと、 ドイツ、 イタリア、 スペインなど多くのヨーロッパの国々には憲法にそのような条文があります。
このように一つの大きな時代の変動が見られます。
風景デザインの対象とするものは総合的なものです。 場所も多様な場所がありますし、 価値観もその評価軸が多様です。 つまり風景デザインは“多様さ”を一つの特徴として持っているわけですが、 その中にもある種の秩序性、 それも全体の秩序性が求められる、 そういった性格のものではないかと思います。
「かたちの風景デザイン」とは「都市風景を素材や形態あるいはスタイルの問題として捉えようとする態度」、 一方の「関係の風景デザイン」とは「ルールや作法と呼ばれるコミュニティやエコロジーといった自然と人間のシステムの反映としての都市風景を読み解こうとする態度」と言えるのではないかと思います。 このタイトルは私が考えたのではなく、 今回のフォーラム委員会で何度も議論をした結果、 こういったテーマでやるとわかりやすいのではないか、 ということで決めたものです。
もちろん、 二つのテーマは決して真っ向からぶつかるものではなく、 どんな状態でもかなり重なっているものだと思いますが、 こうした二つの問題、 視点から見ると話がわかりやすいし色々問題点が見えてくるのではないかと考えて、 このようなタイトルをつけました。
オギュスタン・ベルクという私の好きな哲学者がいるのですが、 彼は「日本の都市風景の状況は急激な近代化の後遺症であって過渡的なものにすぎない」と述べています。 そして実質的な改良というかたちが現れたらどんどん良くなっていくのではないかという、 楽観的な見方をされています。
やり方によっては希望の持てる方向に向かえるのではないかと思いますので、 今日は何かそういった知恵をパネラーの方から拝借できればと思います。
問題提起
〈風景喪失〉から都市再生のための風景デザイン
大阪芸術大学 松久喜樹
風景をテーマにした理由
私が「風景」に目覚めたのはヨーロッパの庭園に関心を持ったことがきっかけでした。 実際にイタリアに行って見た「風景」が日本のものとまるで違ったのです。
都市における〈かたちと関係の風景デザイン〉とはなにか
次に「かたちと関係の風景デザイン」について少しご説明したいと思います。 これは初めて聞く人はわかりにくいと思います。
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