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アルベール・カミュの「幸福な死」の一節。
「その家を、 『世界をのぞむ家』と呼んでいた。 どこもかしこも風景に向かって開かれたその家は、 世界の色とりどりの乱舞の上できらめく、 大空に吊るされたゴンドラのようであった。 ずっと下の方の完全な曲線を描いた湾からは、 一種の爆発が、 草木と太陽をかき混ぜ、 松の木と糸杉を、 埃まみれのオリ―ヴの木とユーカリを、 家のすぐ下まで運んでくるのだった。 こうした贈り物のまっただなかには、 白いエグランチーヌやミモザが、 あるいはすいかずらが、 季節に応じて咲き誇っていたが、 たとえばすいかずらは、 夏の夕暮れの中に、 その香りを家の方々の壁から存分に立ちのぼらせていた」。
私はこの文を読むと元気が出る。 その描かれた情景を思い浮かべるだけで、 幸せになり、 勇気が湧き出るような気がしてくる。 もし人の欲望が条理であるとするならば、 世界は不条理そのものであり、 それ故に人は世界から疎外されたと思い込む。 カミュは言う。 「人は自分が世界から除外されたと信じている。 だがこうした身内の抵抗感が解けてなくなるには、 黄金色の埃にまみれたオリーヴの木がすっくと立ち、 朝の陽の光を浴びて目もくらむような海岸があるだけでじゅうぶんなのだ」。
「風景」の持つ力をこれほどまで力強く語った言葉を私は知らない。 風景は主体と世界の幸福な時を思い起こさせ、 世界と和解させる力を持つ。 「主体と世界の幸福な時」とはまさに「原風景」の“時”である。 この時を奥野健男は「世界と自分が同一化する、 完全に主客身分化の世界」(「“間”の構造」集英社)と呼んだ。 しかし、 カミュのイメージは奥野が語る「生誕の家」のイメージ(「文学のトポロジー」河出書房新社)の持つ、 現実世界の一切に背を向けて浸りこむ、 退嬰性とはなんと対照的であることか。 現実世界の不条理にまっすぐ立ち向かい、 一切を肯定しようとする「世界との和解」があり、 その契機としての「風景の力」が説かれているのだ。 風景は人に勇気を与え、 生きる力を与える。 そしてしばしばその風景は、 このような言葉に描かれた風景であったり、 アニメやファンタジー映画の中の風景であったりもする。 しかし何よりも現実の風景が、 より大きな力を持ち得るはずなのだ。
とするならば、 風景に関わる生業を持つ者にとって、 たとえたった一人にせよ、 自らの関わった風景が、 誰かに生きる希望と勇気を与えることができ、 その風景を振り返って「Et in Arcadia ego」と呟いてもらえるとしたら、 これほどの幸せはないであろう。
風景をめぐって
風景の力
ウエノデザイン 上野 泰
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