いつから風景が、 数字にかわったのだろうか。 歳を重ねた樹木も、 町並みの奥にある陽当たりも風通しも、 大地も建物も、 経済価値や環境指標に置き換えようとする。 数字がないと安心できない、 商売できない人が多くいるのだ。 町並みは、 建物の建ち並びである。 しかし、 個別の敷地単位で、 その環境性能や経済価値を数字に、 どれだけおきかえてみたところで、 町並みの性能や価値は、 その足し算では表現できない。 あらゆる数字を裏切り、 個々の空間が競合しながらも共存するときに、 風景は元気で美しい。
いつから建物は、 平面図の積層に還元される床の量と自己満足の立面の組合せにかわったのだろう。 2次元情報を組み合わせて、 何とかヴァーチャルに3次元情報を見せて、 説得しようとする。 しかし、 人が身体性を維持するかぎり、 人は空間のなかに存在するのであり、 時間と空間の移ろいを身体的に経験することでしか、 風景を感じるセンス、 読みとるセンスは育たない。
いつから風景は、 生きられる空間から分離され、 視覚情報になったのだろう。 生活や風土から切り離された色やかたち、 配列やパターンなど、 視覚情報として表現され、 分析されても、 それだけでは、 風景にならない。 視覚情報を合理的に操作したところで、 生き生きした町並みは生まれない。
いつから都市は商品になったのだろう。 建物は消費されるモノとなり、 その集合体である都市までもマーケットにゆだねられる。 町の営みや生活とは関係のない主体によって建物が供給されるようになり、 そのよりどころが、 数字であり、 情報であり、 その結果が、 建物や空間の商品化である。 モノとなった建築は、 あたかも私的所有物かのようにつくられる。 モノのデザインは、 とてもプライベートであっても良いのかもしれないが、 空間のデザインはとてもパブリックなのだ。 デザインは公共性を放棄したのだろうか。
人間の欲望に基づく都市生活の変化をとめることはできない。 しかし、 都市に関わるデザインは、 私的で個別の欲望を満足させるためにあるのではないはずだ。 都市を構成するひとつひとつの空間は、 私的であっても、 公的であっても、 都市の一部であるという認識と身の回りを意識する感性がなければ、 その欲望はただのわがままであり、 新しい文化の表現にはならない。 そこで生活し、 何らかの営みを続けるときには、 その場所やその場所に生きる人々との関わりを大事にするが、 土地で商売して売り逃げる建物をつくるときには、 わがままな欲望であっても何の痛みも生じない。 しかも、 そうした商品が売れるような文化レベルなのだ。
少しの我慢と、 競合しながらも共生するための関係性をつむぎなおす作業、 そして、 その関係性を社会的に説得すること、 関係性の表現が文化であることを空間のかたちで示すことが、 今、 都市に関わるデザインに求められる。
風景への手がかりが豊かななところでも、 状況は変わらない。 高密居住の歴史的な空間のかたちを維持している京都であっても、 関係性のつむぎなおしが求められている。 それは、 町家の奥座敷で庭の移ろいを眺める楽しみとマンションの窓から山並みを眺める楽しみを共存させる空間の組立て方、 それらが表現される町並みの持続のあり方を見つけだしていくことである。
そこで、 都市を緑で覆おうなど、 高密な建物の建ち並びの美しさである都市的町並みを否定するような安直なことは考えないほうが良い。 緑は風土として、 都市の空間構造を担う。 屋上緑化も修景緑化も空地の緑化も、 風土条件の創造とみることで都市環境の構成条件となるのであって、 空間構成のデザインではない。
近代に見失った都市の風景を取り戻すには、 立ち止まることから始まる。 これから長い時間をかけて建物や空間相互の関係性を修復していく必要がある。 今、 立ち止まるために必要な都市計画の変更はすればよい。 そこで発生するような短期的な既存不適格など気にする必要はない。 それを気にするのは数字で町をつくる人、 空間を売ろうとする人たちだけである。 ただ、 都市の元気を維持しながら、 風景をとりもどしていくためには、 都市で生き続けるための仕事や楽しみを生みだしていく必要があるのだが・・・。
風景をめぐって
風景を取り戻すために
大阪大学大学院 小浦久子
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