風景をめぐって風景は都市環境デザインの核心なのに
|
鳴海邦碩氏は「人間の感覚的な評価に答えられるまちづくり、 そしてそれを達成するための総合的なまちづくり、 それが〈都市環境デザイン〉である」と述べている(鳴海邦碩編、 都市環境デザイン会議関西ブロック著「13人が語る都市環境デザイン」学芸出版社、 1995)。 景観は目に見えるという意味で誰にも捉えやすく、 また議論しやすい。 だから総合的なまちづくりの突破口になるのではないかとの思いがそこにはあったと思う。
そこでの「景観」は、 物理的な側面に限定されたものであったはずがない。 たとえ景観という言葉を使っていても、 風景がそうであるように、 一人一人の心に捉えられるものだと考えられていたに相違ない。 だから、 風景デザインは、 今さら取り上げるのが不思議なほどに都市環境デザインにとって基本的なテーマであった筈だ。
にも関わらず、 その議論は低調ではなかったか。 今の都市の風景をどう見るのかをめぐってのフォーラム委員会での議論では、 「日本の都市風景はよくならない」「こんながんばっているのにダメだ」といった諦めさえ漂っていた。 しかも、 それが深刻な事態だとは思われていないように見えた。
第1回プレセミナーでは、 「いまなぜ風景モデルか「「時代が見たい風景とは」をテーマに報告・議論がなされたが、 時代が見たい風景を先取りしようとの真摯な議論は共有されなかったし、 風景モデルというやや歴史的な概念に懐疑を示しつつも、 それにかわるものは提示されなかった。
第2回プレセミナーでは、 この35年に蓄積された都市風景に美を見いだせないかが問われたが、 現代がつくりあげた風景のなかで、 たまたま出来てきた風景の断片から個人的に美しいと思うスライドを示し、 「私は美しいと思う。 あなたはどうか」と独白したに過ぎない。 これでは「いや、 思いません」と答えた途端に議論が途絶えてしまう。
「人間の感覚的な評価に答えられるまちづくり」を業として目指す以上、 もう少し確たる姿勢は出てこないものだろうか。
確かに井口氏が第2回で指摘したようにアート的な建築、 ビックプロジェクト、 町並み保全などに一定の成果があった。 だが、 この小冊子に投稿されてきた写真をみても、 とりわけビックプロジェクトはなかったかのごとく扱われている。 誇らしげに成果を示し、 込められた風景への思いが語られてものはほとんどない。 都市環境デザインの本質が深く風景と関わる筈という先ほどのロジックは、 まったくの嘘なのだろうか。
一方、 フォーラム委員会でも何度も指摘されたように、 そういったプロの側の低迷に反して、 世間では広い意味での風景への関心は高いし目は肥えてきている。 たとえば昔の法善寺の良さを再生してほしいという圧倒的な市民の声に、 それは端的に表れている。 エイジングのきいた美しい風景が、 今ほど夢見られた時代はない。 また建設と好況に沸いた20世紀後半がいよいよ過去のものとなりつつある今、 丸茂氏が以前より主張している「誰もが利用でき、 そこに居るだけで幸せになれる空間」、 お金には変えられないかもしれないが、 身体を心地好くしてくれる空間を守り、 育て、 創ることが今ほど求められている時はない。
何かで読んだが、 これからの日本はごく一部の世界企業戦士(高給取り)と、 後はまあローカルにボチボチやる人に分かれていくのだと言う。 ボチボチやっていても、 それなりに幸せな気分になれる時間や空間への希求。 それらは政治や経済の狭間でまだまだ日陰ものでしかないかもしれないが、 明らかに根を張り、 力を付けつつあるように思える。
言うまでもなく風景に普遍的な価値基準はない。 また原風景も心の深層に人類共通の何かがあるのかもしれないが、 証明はされていない。 だが、 現在を生きる我われの多くが「おお、 良いじゃないか」と思える風景があり、 「居るだけで幸せになれる」空間もある。 答えは一つではないが、 選ぶに値する選択肢は示すのがプロではないか。 都市環境デザインなんかじゃ食っていけないと言われる今だからこそ、 プロには自信をもって、 人間の感覚的な評価に答えられる風景像をつくって見せて欲しい。 それが出来なければ、 都市環境デザインと社会は、 金の切れ目が縁の切れ目になってしまうかもしれない。
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
学芸出版社ホームページへ