フォーラムに向けて
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プレフォーラム質疑応答

 

 

 本記録はプレフォーラムでの門脇、 長町氏の発表を受けて行なった質疑応答の記録です。

 この記録は大阪大学大学院の徳勢貴彦氏がテープから整理されたものを、 発言された方々が推敲されたものです。


はじめに

堀口(アルパック):

 お二人はプロダクトデザインに強いところで活躍されていますので、 ファッション的な部分をかなり意識しながら普段つくられておれるのではないかと思います。

 今年の秋のフォーラムでは、 ファッションとモードについて4人の方に喋っていただきます。 そのうち門脇さんの上司であるGK設計の宮沢さん、 長町さんの上司である松下電工の豊留さん、 それぞれ経験のある方もお呼びしています。 その前哨戦的なお話をしていただきました。

 それでは質疑応答にいきたいと思います。


デザインの地域性について

松久(大阪芸大):

 門脇さんは地域性ということで色々言われていましたが、 仕事をやっていて、 例えば関東と関西で地域性によって好みやデザインが違うということはあるのでしょうか。

門脇:

 私は6年間ほど東京におり、 今は大阪で8年くらいになります。 地域性にはならないかもしれませんが、 基本的に関西の方が色の数が多いといえます。

 お施主さんと話をしても、 出来上がっているものを見ても、 東京ではグレイッシュなモノトーンで空間が出来上がることが多いのですが、 関西ではそのようなことは薦めにくく、 お施主さんや自治体にもう少し色数を増やして欲しいと言われることが多いのです。 やはり関西人は派手なのかという印象を受けるところは若干あります。

松久:

 端的に言えば関西人はイタリア的で関東人はパリ的と言えるのでしょうか。

門脇:

 良く言えばそういうことでしょうね。

 GK設計がやる仕事はグレイッシュなものが多くなっています。 安藤忠雄さんは建築にあまり色を付けずに、 むしろ住み手が色を付けていくものだという考えをもたれています。 私はその考えに共感できるところがあり、 パブリックデザインはあまり彩りをつけるものではなく、 どちらかというと背景になるようなものを作らなければならないと思っています。 従って、 沿道の建物が賑わいをもっていれば、 それに調和的なものをもってくることが基本であると考えています。

 しかし、 関西ではバスシェルターなどにしても「派手な色にしよう」という考えもあり、 「GK設計がつくるものは面白くない」という意見をいただくことも多々ありました。

堀口:

 デザインの際にあまり色をつけないということは、 モードの変化という時系列的な問題ではなく、 東京でも大阪でも北海道でもどこに置いても安心できるデザインを目標にしているような気もします。

 日本中どこにでも置けるようなデザインを目指しているのか、 あるいはまちづくりや地域の文脈の中でのポジショニングを考えているのか、 どちらに力点があるのでしょうか。

門脇:

 発表でも説明しましたが、 高度成長期にはどこにでも置けるということ、 つまりひとつの方法としてのスタンダードスタイルをつくることが目標であったように考えられます。 それがバブル期になって、 「これではどこに行っても同じではないか、 観光に行っても面白くないのではないか、 地域の色を持つべきではないか」と言うことを問われる時代になったように感じられます。

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JRのサイン
 東京駅のJRのサインをご紹介しましたが、 これに倣い東北まで行っても同じようなサインが使われれるようになりました。 観光客の中には、 東北には木でつくられた昔ながらの看板があるという印象をもたれている人もおり、 東京と同じではつまらないという意見を耳にしたこともあります。 だからといって、 「こけしのまちだからこけしの像をつくる」というように、 地域の特色や郷土品を即物的にモチーフとしてもってくるべきではないように考えます。

 地域性とは、 素材としてはたとえ日本全国同じであっても、 ものの使われ方や形の本質は違うということであり、 元々地域のスタンダードが何なのかが重要であると思います。

 たとえば、 奈良のペデストリアンデッキでアルミ格子の高欄をつくった時、 案の定「なぜ木でやらないのか」という意見がでてきました。 耐久性や強度基準からアルミを採用しました。 しかし、 私が本当にそこで表現したかったのは、 格子で切られた風景とその空間体験でした。 奈良に住んでいる人は、 従来からそのようなスリット越しに空間や風景を見るということを体験されていると思います。 その原風景を環境デザインという形で次世代に残していくことは、 私達の使命のひとつではないのかと考えるからです。


誰がモードをつくるのか?

難波(兵庫県):

 誰がモードをつくるのでしょうか。

 私は行政におりますので、 良いデザインを良いデザイナーがつくっていくということ、 また、 悪いものをどのようにしていくのかということに興味があります。 良いデザインでつくられたものが悪いデザインに対してどのような影響を与えているのでしょうか。

 また、 関西でいえば新世界のような、 ごちゃごちゃしたところについてのデザインに対しても何かあるような気がするのですが。

門脇:

 個人的には新世界のような空間が悪いとは思わない部分もあります。 洗練された空間と相反する部分が都市空間の中にはあり、 そのような部分は独特の良いところをもっているため、 むしろ残していくべき空間要素であるとも考えています。 しかし、 率直に言いますと、 我々のチームはそのような場所の仕事をあまり得意としていないでしょう。 できれば関わりたくない。 ・・・(笑)

 最近パチンコ屋さんの設計の依頼がありました。 見に行くと、 昔ながらの雰囲気のあるパチンコ屋さんでした。 最近のデザイナーがつくるようなスキッとしたパチンコ屋ではなく、 昔ながらの派手なパチンコ屋のデザインをして欲しいとお施主さんに言われ、 とても困りました。

 たとえば新世界のような空間が残っていること自体は悪いことではないし、 是正しなければならないとも思いません。 そのような空間も都市には必要であると思います。 しかし、 これを何とかできないかと求められると「私は得意ではないな・・・」ということです。


グレアについて

難波:

 長町さんに質問ですが、 「グレア」のように光を外に漏らしてはいけないということについては、 光を扱っておられる方はどのように考えておられるのでしょうか。

長町:

 グレアとは「不快な」輝き・まぶしさですので、 当然ながらそれを改善することは重要なことです。 ある計画での光のあるべき姿というときに、 全て間接光であるべき場所、 概念、 計画もあれば、 点在する光で快活な感じを出すべきであることもあると思います。 事前に何をグレアと捉えるかというディスカッションがしっかりできることが重要だと思います。

 少し別の話ですが、 私が最近気にしているのはグレア以上に計画自体が照度で語られがちであることです。 例えば木の幹に光が当たることにより鉛直面照度が上がり、 安心感のある道ができていますが、 これは照度計算の中ではゼロに近い数値になってしまいます。 なかなか数値化できないものですが、 実際は光があるのですから、 明るさ感や印象がきちんとデザインされるようになる必要があると思います。 このことは大きく捉えればグレアをなくすことにもつながります。


デザインは頑張り過ぎではないか?

須谷(都市防災研):

 私が今まで街路照明の計画などに携わってきていつも思っていたのですが、 街の中でデザインが頑張り過ぎているのではないかと思うところをよく散見します。 これはストリートファニチャーにも同じことが言えます。 門脇さん、 長町さんのスライドを見ていても、 なぜこんなにデザインが頑張っているのかということをしみじみ感じていました。

 安藤忠雄さんは人工光を嫌がって自然光をうまく利用されていますが、 私もそれに非常に共感しています。

 お二人に質問ですが、 デザインする時に誰を意識されているのでしょうか。 つまり、 地元の住民、 または外部からの観光客など、 あるいはその両方ともを意識されているのか、 ということです。

 照明について具体的に言いますと、 自分のまちの鳥はフクロウだからフクロウを街路灯にぽつんと乗せるという非常に即物的なことをやっているところがありました。 私は「それはおかしい」と言うのですが、 「これは住民が納めてくれた税金でやっていて、 それで住民が喜んでくれたら良いのだから、 よそがどう言おうが関係ない」と言われたことがありました。 それはそれで良いのかとも思いましたが、 いずれにしても、 一般論ではお答えしにくいでしょうから、 具体的なストリートファニチャーのデザインや照明器具を挙げてお答えいただければと思います。

門脇:

 逃げた答えになってしまいますが、 全ての人に対してデザインを考えていますと言うのが適当かと思います。

 例えば住宅などでは施主が一人で明快ですが、 公共空間になりますと施主が特定できません。 以前、 西沢が「環境デザインは関係のデザイン」と言ったことがありました。 結局は住民、 観光客、 管理者、 行政の間の調整をどういうように紐解いていくかがデザインの鍵だと思います。

長町:

 私はメーカーのデザイン室におりますので、 モールライトや街路灯などのデザインが行われている、 正にその現場にいるわけです。

 広く一般的で常に使われるもの、 場所を想定せずに標準的につくられるものはできる限りデザインしない/しすぎない方が良いと思います。 特に環境デザインに関わる照明器具は、 ノンデザインになるべきであり、 メーカーも最近ではそのような流れが全体にあると思います。

 (ただ、 ここでいうノンデザインとは、 できるだけアノニマスかあるいはシンプルでかつディティールはデザインされていることがわからないほど周到におさめられたものを意味します。 )

 しかし、 今日までの日本ではデザインの成熟に従って、 デザインされ過ぎたものがプロダクトとして生まれているのも事実です。

 ただし、 住宅の中で使われるものや、 門脇さんの話のような地方自治体が自分の町のために必要なものがある場合には、 積極的なデザインを全て否定してしまうことは、 楽しみや愛情、 生活の喜びなどを切り捨ててしまうことになり、 やはりノーだと思います。

 優れた積極的なデザインには喜びや楽しみを生み出す力があると思うし、 そこに携わるデザイナーの能力が問われることではないかと思います。

 どこの町や自治体でもおこる話なんですが、 私の会社でも以前メロンのまちにメロンの照明器具を作ったということがありました。 リクエストがどれほどあったとしても、 直接的なメロンの街路灯をつくるのではなく、 きちんとそれを解釈しデザインするべきであり、 それによりまちの人からも愛されるものを作れたらと思います。


デザインの「進化」・「成熟」について

角野(武庫川女子大):

 ファッションやモードあるいは流行などには、 ある時にあるものが流行し、 それが例えば10年後や20年後にリバイバルされる、 あるいは、 ルネッサンスの時代のものがネオルネッサンスという形で参照されて出てくるという性質があるのではないかと思います。

 それが、 環境デザイン、 パブリックデザインの分野の中では、 万博の時に流行したものが再び流行する、 またはモチーフになって新しいものが作られるということがあるのでしょうか。

 図らずも長町さんは「進化」や「成熟」という言葉を使っておられましたが、 ファッションやモードというものに対して、 果たして「進化」や「成熟」という言葉を使っても良いものでしょうか。

 インダストリアルデザインのようなはっきりとした機能や目的のあるものについては「進化」や「成熟」という言葉を使っても良いと思いますし、 また作り手もそれを意識してデザインされていると思いますが、 「また出てくる」「繰り返す」「ある時代に確立されたものをもう一回持ってくる」ということは、 果たして「進化」とか「成熟」と言えるのかどうかということです。

 少し難しい問題ですので、 10月のフォーラムの機会にした方が良いかも知れませんが、 ご意見をお聞かせください。

 事例でも紹介しましたように、 モールライトや街路灯にヨーロッパのガス灯をモチーフにすることがあります。 様式美という意味で捉えると、 その街路灯が置かれる場所が「様式的であったほうが良い」という概念のもとに計画された場合は、 そのプロポーションを含めて伝統的な様式美をきちんともって設置されるべきだと思います。

 ただ、 照明器具はある意味工業製品であり、 エレクトリックなものです。 従って、 使われる光源や技術自身が外観とは無関係に進歩発達し、 伝統的な様式の中に最新のテクノロジーが搭載されて成熟していきます。 それがモードにつながる部分もあるのかと思います。

 

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昭和40年代の商店街
 
 紹介しました昭和40年代の商店街は確かに古いという感じがします。 しかし、 例えば今我々がどこかの古い街の商店街に行き、 そこにこのようなデザインの街路灯がついていたときに何を感じるかということなのです。 「これではダメだから今すぐ変えなければ」と思う以前に、 「何かいいな・レトロな情緒があるよな」と思うこともあり得るわけです。 そのへんが洋服のファッションと同じように語ることができず、 難しいところであると思います。


二人の報告についての感想

廣瀬(風土形成事務所代表/東北芸術工科大学・環境デザイン学科助教授):

 長町さんによるファッションとモードの定義を角野先生が「進化から成熟へ」という言葉で整理されたのがよかったと思います。

 洋服を例にとれば、 これは日本人にもかなり浸透しているものですから、 流行の繰り返しが生じるくらいの段階には達しています。 また、 そのような現象の発生は、 なんらか社会心理の変化にも起因しているといえましょう。

 これに比べ環境デザインは、 まだまだ一般に認知されていませんから、 流行が繰り返しあらわれるほどの段階にもありません。 したがって、 成熟を迎えるのもまだ先のことと想像されます。

 今日のお二人は、 デザインを取り巻く状況の変化について現場からご報告下さいました。 門脇さんはその社会的背景あるいは社会制度の変化についてお話しされ、 長町さんは屋外照明に対する人びとの感じ方の変化や技術の進歩について言及されたという違いはありますが、 それぞれの体験に基づき、 日本人の公共環境に対する意識の変化、 それは本当に少しずつながら進化から成熟へ向かってきていると評価することができるのかもしれませんが、 そういった変遷の過程を整理して下さったのだと受け取っています。

 10月のフォーラムに一般の方々も参加されるなら、 その辺りの認識を深耕し投げかけてみられると面白いのではないでしょうか。 現象の説明にとどめず、 なぜそうなってきているのかについて考察し、 我々は社会心理の変化をこう読んでいると示していただきたい。 また、 例えば景観材への投資比率はこう上がっているなどといった情報も交えて発表されれば、 一般の方々にとってなお興味深く感じられるのではないかとも思います。

 そういうことを試みていただけるならば、 同業者としてうれしいです。

門脇:

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矢羽根式サイン
 さっき私が紹介した中の矢羽根式サインについて補足しておきますと、 あれはデザインのリバイバルじゃないと思います。 昔はあのデザインが主流で、 万博の時にも頻繁に使われました。 しかし、 万博の時に使われた意味と今使われる意味はずいぶん違うように思います。 時代背景が代わって結果として同じスタイルのものが出てきたようです。 見たときはずいぶん懐かしいスタイルだなと思ったのが第一印象だったのですが、 多分、 財政難や案内対象物の増加に伴い、 マップ付きの高価なものより低コストでかつ即効性のあるものが欲しいという事情から、 このようなスタイルのサインが出てきたのだと思います。


フォーラムに向けて

堀口:

 最後に、 今日のテーマについて個人的な感想を言うと、 ファッションとモードで二元論的に説明できない部分は絶対にあると思っています。 昔の陳腐な看板を見て懐かしいと思う郷愁もあれば、 反対に斬新さを感じることもあります。 ですから、 都市環境デザインは必ずしもファッションやモードだけで全てを整理することは無理で、 機能的な変化にもとづく進化、 成熟とも言えるだろうし、 「奇抜だ」「懐かしい」とする目もあろうかと思います。 それが良いか悪いかは別として、 デザインを構成する要素にはそういうことがあると思います。 ですから10月はモードになりうるデザインとは何かについて議論が出来ればいいと考えています。 必ずしも、 ファッションとモードだけで全てを語るのは無理だと思いますので。

 では、 ここで10月のフォーラムをPRして終わることにします。 今年は10月25日に「都市環境デザインのファッションとモード」をテーマに開催します。 角野先生の問題提起、 大阪大学の鷲田先生の基調講演、 午後からGK設計の宮沢さん、 スペースビジョンの宮前さん、 松下電工の豊留さん、 桑沢デザイン研究所の森川さんによる「盛り場」についてのセッションを予定しています。 現場に強い人ばかりですので、 面白い話が聞けると期待しています。 みなさん、 是非お越し下さい。

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