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手のひらに載る都市
ヒマラヤ山岳部における都市の原型

詩人

佐々木 幹郎

 ムスタン王国はネパール王国の中で唯一、 自治王国として認められている小さな国家である。 ヒマラヤの山岳部にあって、 チベット国境と接している。 首都であるローマンタンの標高は三千八百メートル。 「ローマンタン」とはチベット語で、 「薬草の豊かな土地」という意味を持っている。 住民たちが話す言葉はチベット方言で、 ラサの標準語は通じない。 全員がチベット仏教徒である。 現在六十四歳になる国王が死ぬまで、 この地域はネパールの中で特別の「王国」として存続することになっている。 政治、 経済的にはネパールに従属しているが、 宗教や生活文化のすべてにおいて独立しており、 遠からず滅亡する王国。 それがムスタンである。

 わたしたちは都市と言えば、 先進的な文明国の町並みを想像する。 だが、 後進国ネパールの中でも最も遅れた地域の一つ、 ムスタン王国の首都ローマンタンも、 都市である。 ただし、 この都市にたどり着くまでに、 わたしたちは山岳部の小さな飛行場から、 北へ向かって馬で三泊四日の旅をしなければならない。 徒歩だと六日間かかる。 困難な山道を越えて、 初めてローマンタンを遠望した人は、 誰もがここを「最果ての都」だと実感する。

 イタリアの仏教学者ジュゼッペ・トゥッチは一九五二年に外国人として初めてこの地を訪れた。 彼は峠の上からローマンタンを最初に見たとき、 こんなつぶやきを洩らしている。 「地平線の彼方に消えていくこの高原では、 この宇宙の孤独のなかでは、 山々でさえ小さな丘に見えるこの広大無辺な拡がりのなかでは、 人間とはいったい何なのだろう」。

 いったい、 人にこのような感慨を与える都市とは何だろうか? ローマンタンは周囲を城壁で囲まれ、 門が一つあり、 夜になると閉められる。 城壁の中には王宮があり、 寺院があり、 民家が密集している。 この町に電気や水道はない。 車もなく、 交通のすべては徒歩か、 馬にたよっている。 しかし、 ローマンタンは昔から、 チベットとネパール、 インドとの交易ルートの基点に位置し、 また、 チベット仏教の経典翻訳センターとして機能し、 学術都市として十三世紀から栄えてきたのである。

 現在はそのすべての機能が停止し、 廃墟同然の姿を見せている。 その都市の中で、 人々は十三世紀と変わらない生活を続けている。 猛烈な砂ぼこりと、 空気が薄く乾燥しきった大地。 近年の天候不順により、 水飢饉は深刻だ。 しかし、 人々はこの土地を去らない。

 「住み合うたのしみ、 往き合うあやしさ」ということで言えば、 先進国のどんな情報都市よりも、 わたしはヒマラヤ山岳部の都市の中にこそ、 それがあると思う。 「住む」ということは人間にとって何なのか? そこで「往き合う」とはどういうことなのか?

 ローマンタンの住居は、 すべて住民たちの手によって作られている。 女性たちが泥をこね、 干乾し煉瓦を作り、 積み上げ、 その上に手で泥を塗る。 王宮も寺院も、 個人の家も同様だ。 ローマンタンの郊外、 チョセール村では、 現在も穴居生活をしている人々がいる。 おそらくムスタン王国が成立した頃に掘られたと思われる無数の洞窟。 その洞窟に、 一九六〇年前後にチベットから亡命してきた人々が、 今も住んでいる。 崖の上には十三世紀の砦の跡があり、 そこから自然崩壊した巨大な岩石がいくつも村の広場に転がり落ちている。 人々はその岩の間を行き来し、 山の上から見ると村の広場は、 枯山水の庭園だ。

 ムスタン王国の自然は、 宗教的な配置とともにある。 インドからチベットへ仏教が伝わる前、 まず最初にこの王国に寺院が作られた。 その最も古い寺院に至るまでの山道の要所に、 いくつもの巨大なモニュメントがある。 悪霊を退治し、 その内臓を埋めたという二百メートルあまりの壁は、 独立して荒野の真ん中に立っている。 チベット語でサマール(赤い土)と呼ばれる村では、 赤い巨大な岩山の中に無数の洞窟が口を開け、 かつての住居や寺院の面影を残す。 赤色はチベット仏教では、 文殊菩薩のシンボルカラーである。 現在も信仰の対象となっていて、 その岩山の下に信者たちによって捧げられた無数の石のケルンも、 赤く彩色されている。 その素晴らしい造形感覚と、 巨大な自然を背景とした細やかな配置。 現代美術やインスタレーションのアイディアは、 ことごとく、 このヒマラヤの地の無名の人々の手によって、 人知れず、 とっくの昔にイメージされ、 創造され、 越えられているのだ。 「現代」とは何なのだろう?

 ムスタン王国。 そこにわたしたち人類が住む、 都市の縮図を見ることができる。

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