絵画・彫刻・音楽といった個人的芸術や建築・グラフィック・映画といった協同的芸術など、 個人か協同かはともかくも、 こうした芸術の受益者・享受者がそのデザインに参加することはありえない。 まあ、 注文を付ける程度だろう。 しかし、 都市環境に関するデザインは、 考えてみるまでもなく、 どのような経緯・内容・形態であろうと「参加型」でしかない。 なぜなら、 都市の環境は多様で多重な要素が複合し、 それらが歴史的にも地域的にも連続して存在し、 多くの住民をはじめとする社会構成員の総体としての意志の結果が都市環境であるからだ。
その都市環境に関わる行為は常に物理的影響にとどまらず社会的影響をもつ。 特に「まちづくり」という地域の自律的継続的な環境改善運動においては、 その構成員の「参加」が必須要件である。 だから、 「住民参加のまちづくり」は21世紀社会の都市計画・まちづくりの中心課題である。 それは地方分権・地域主権の潮流にあって、 基礎自治体への法定都市計画の大幅な決定権限の移行の素因でもある。 また、 阪神・淡路大震災からの復興において、 市民の自律的なまちづくり活動が広く全国に注目され、 「震災ボランティア」と「市民まちづくり」が来るべきNPO社会時代の新たなキーワードとして登場し、 「市民参加」システムという流れを先取りした取り組みが、 震災復興の基本である。
「参加型デザイン」において、 何をデザインするのか、 誰が参加するのかは、 ほとんど問題ではない。 公園のデザインならば、 それを利用する近隣の人々、 管理する人々、 設置する人々などの参加である。 まちづくりのデザインならば(どのような範囲程度を「まちづくり」ではデザインというかは、 かなり異論がありそうだが)、 多くの住民、 商店街の店主達、 地元の企業など、 そのまちに関係するすべての構成員の参加が不可欠であり、 常識であり、 当然である。
では、 「参加型デザイン」においてこと新たに、 何が問題であるとして検討されねばならぬのか?
「実践」のレポート・トークは、 住民のまちづくりにおいて進められている参加型環境デザインの実践例を、 まちおこし・まちづくり協議会、 市街地再開発の実践担当者とコンサルタントによる対談で報告する。 兵庫県村岡町の「住民とのまちおこし」、 東灘区岡本地区の「参加型まちづくりの苦闘」、 震災復興六甲道再開発地区の「権利者参加の意味と限界」をそれぞれテーマに、 躊躇と困惑を解明する、 までは至らずとも、 肉薄する報告となろう。
「実験」のワークショップは、 実践レポートを受けて、 参加者が「公園づくり、 まちづくり、 再開発」の3つのワークショップを体験し、 提案にまとめる。 こうした疑似体験によって「参加型」とは何かを、 頭ではなく身体で知ることが目標となろう。
「課題」のディスカッションは、 「参加の方法と技術」「〈創造〉と〈公共〉のはざ間」「かたち・文化・政治」という三題噺で、 自由な討論を展開し、 「参加型デザイン」の本質を明らかにすることが期待される。
何処で何を選択して参加するかは、 自身の予測と判断に委ねられる。 それもまた、 「参加型デザイン」の主要な一部である、 という趣向でもある。
デザインのためのほとんどの情報を、 囲い込んでしまわない(ディスクロジャー)こと、 公開というほどのことではなく隠しだてしないという程度のことが、 大部分デザインについて素人である「参加する人々」に対するデザイナーの義務である。 デザインの何たるかを説明する必要まではないが、 デザインの基本としたものは何かを説明するぐらいは当然であろう。 少なくとも、 デザインを判断する基準ぐらいは提示できなければ、 都市環境をデザインする資格はない。 デザイナーの説明責任の範囲が問われることになろう。
もうひとつの地方分権・地域主権が「参加型デザイン」に何の関係があるのかとお思いであろうが、 参加の原点は権利である。 参加してみて、 何の権限も結果への権利もなければ、 それはアホというもんである。 どのような形式か程度かは問わないとしても、 参加したことの結果は明らかにされねばならない。
地域の要請が、 ブラックボックスのなかで混合撹拌され、 恣意的に抽出整形されて提示される。 それが、 これまでの都市計画法における形式的市民参加の姿であった。 結果への権利を保障されない参加は、 無意味である。 だから、 自律生活圏における都市環境形成への主権が何処の誰にあるかが、 「参加型デザイン」の根本課題である。
環境デザイナーは今、 「参加型ではロクな環境デザインにならん、 質の高い美しい環境デザインとは相入れない」とつぶやいている、 と思う。 ロクでもない、 美しくない都市環境を創ってきた責任は何処の誰にあるのか。 これからも創らざるを得ない状況に対し、 変革するシステム・プロセスへの努力が、 都市環境をデザインするということに他ならない、 と思う。 それが「参加型デザインを問う」本意である。 (990929記)
問題提起
参加型デザインをさぐる
(フォーラム委員長/まちづくり会社コー・プラン) 小林郁雄
「参加型デザイン」というテーマ
第8回フォーラムのテーマは、 「参加型都市環境デザインをさぐる−神戸からのまちづくり」である。 開催場所が神戸であり、 フォーラム委員長の私の専門が都市計画・まちづくりであるから「神戸からのまちづくり」で、 都市環境デザイン会議・関西ブロックが主催するから「都市環境デザインをさぐる」である。 だから、 今年のフォーラムのテーマの本題は「参加型デザイン」ということになる。
参加型デザインで何が問題か
そうした計画の決定や事業の執行における市民参加のシステムは、 さまざまに議論がすすんでいる。 にもかかわらず、 なぜ今、 都市環境デザインにおいて「参加型」が問われなければならないのか?参加による都市環境デザインはいかにあるべきか?それが、 このフォーラムの基本課題である。
それは、 いかに、 いつ、 どの程度参加するのか、 といった範疇の課題である。 主体・目的ではなく、 過程・状況(プロセス・シチュエーション)が問われるのである。 だから、 これまでの定型的設定や類型的解決が意味をなさず、 計画(プラン)や技術(テクニック)といった、 構想(デザイン)において本来基本となるべきものよりも、 過程(プロセス)が先行するところに、 設計者(デザイナー)にとって多くの躊躇と困惑が残るのである。 しかし、 それは参加する人々にとっての躊躇・困惑ではないことが、 問題をさらに複雑しているのである。
参加型デザインの実践・実験・課題
そうしたプロセスとしての「参加型デザイン」を突き詰めるのは一筋縄ではいかない。 群盲が象をなでるように、 多方面からのアプローチを試みることにした。 レポート&トークによる「実践」に学び、 ワークショップによる「実験」を体験し、 ディスカッションにより「課題」を理論化する。 同時並行してこれら3セッションが進められるので、 聴衆に徹する人はフォーラム会場の2階、 行動派は3階、 理論派は6階で「参加」することになる。
参加型デザインを問う本意
「参加型デザイン」を問うことは、 結局、 「情報公開」と「地域主権」に行き着くことになる、 と思う。
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