私が広い意味でのまちづくりという分野に足を踏み込んで、 ざっと20年弱になります。 まちづくりにはいろんなアプローチの仕方があると思いますが、 私は商業のサイドからまちづくりに入っています。 まちづくりは多様な要素で成り立っていますから、 そろそろウエイトを変えていかなければいけないのですが、 どうしても商業サイドからまちを見る癖が抜けません。 その辺を含んでお聞きください。
また私は「まちづくり」という言葉が嫌いです。 言葉自体は広がりがあって優しい、 包み込むような言葉ですが、 そうであるがゆえに曖昧です。 何でもかんでも「まちづくり」といってしまえばエクスキューズされるという面があって、 あんまり好きじゃありません。
でも他に言い換えができなませんから、 仕方なしに「まちづくり」を今日も使います。
さて、 今一番ホットな人は皮肉なことに総理大臣の森喜郎です。 「神の国発言」が先日あって物議を醸していますが、 彼の神道政治連盟での発言要旨を見て私は結構面白いと思ったんです。 日本は天皇を中心とした神の国であるという発言ともう一つ、 八百万の神がいて一木一草に神がいる。 その現れとして鎮守の森があったじゃないか。 そういう世界に戻りましょうと二つのことを語ったんです。 アナクロの部分はともかく、 これをまちづくりと絡めてみると面白いんです。
私は団塊の世代ですから鎮守の森は私の心象風景、 原風景です。 鎮守の森のような、 地域の何かを象徴するものを中景と見ていいと思います。 それに対し天皇中心の国のくだりは遠景と見ることが出来ます。 そして、 私たちがよりよい生活をしようという考えるときにベースになる家庭が近景と言えます。
戦後の経済成長の中で、 若い人には中景の部分が完全に欠落してしまったと思うんです。 これは効率が悪いということで、 中景を徹底的に破壊してきた結果です。 このところ殺伐とした少年犯罪や家庭崩壊が起こっていますが、 そういう角度から見てみると、 近景すら壊れかかってきたのかと感じます。 小学校低学年の学級崩壊が大きな問題になってきているのも、 その現れかと思います。
それは、 数年前の神戸の小学生殺人事件の時にも感じました。 事件のあった西神ニュータウンは近代的なまちづくり、 都市計画がなされた街ですが、 17、 8年前に初めて行ったときに違和感を覚えたんです。 あそこにもやはり中景がありません。 駅を降りると、 駅前はきれいに整備され、 高層の建物に商業施設がきちっと張り付いています。 遠くを眺めると、 中層のマンションや戸建住宅が広がっています。 真ん中の部分がないわけです。
酒木薔薇聖人は通称タンク山という開発で残ったところにいりびたっていましたが、 彼にとってはそこが一つの逃げ場であり、 隠れ家であったと思うんです。 ところが、 この数少ない中景をなしているところが、 危険だということで鉄条網で囲まれ立入禁止になっている。 テレビを見たり現場に行ったりして、 中景がないことの問題をちょっと感じさせられました。
それでは国のかたち、 遠景はしっかりしてるかというと、 それもない。 そういうナイナイづくしで今日に来ています。
その一方で、 不況とはいえ世界第二の経済国となり、 多くの人は明日食べるご飯の心配をしなくていいという恵まれた状況です。 これは、 評価の仕方が非常に難しいと思います。 まちづくりが抱えている問題も、 そういうややこしい状況が背景にあるんじゃないかと思います。
中景を失った社会の危うさ
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