今流行りのセクター論では「公共」「パブリック」といいますが、 「公共」は一緒くたではなく「公」と「共」がると思います。 今までは「公」と「私」に分けてきましたが、 ほんとうは「公」と「共」と「私」があって、 その中の「共」のレベルが中景にあたるんじゃないかと思います。 去年一年間取り組んだ日経流通新聞の連載も「共」の部分をつくる、 それを「まちづくり」と称して悪戦苦闘している人達、 あるいはその取り組みを紹介していったわけです。
「中景の回復」を「コミュニティの再建」と言い換えても良いと思いますが、 これは言葉で言うのは簡単でも、 実行するのはではありません。 心象風景の中に中景がないのは、 私達の日常生活の中にそういうニーズがないということだからです。
たとえば関西21世紀戦略と称して『日経』で文化人と経済人が一緒になって近い将来の関西のあり方を提言しています。 そこで「大阪をはじめとして上方では官に頼らず、 民がまちをつくっていく伝統がある」と言っています。 私はそれは過去のことだと思うんです。 建築家の安藤忠雄さんは「大阪の人間くらいまちの問題に関心を持たない人間はいない」と言っています。 官に頼らずに民でという伝統が本当にあるとすれば、 大阪市民がまちづくりに関心を持ってしかるべきなんですが、 現実には決してそうじゃない。 それは何も大阪人だけではなく、 生活上のニーズがそこにないからだと思うんです。 それを作っていかなきゃいけないのですが、 これは容易ならざることだろうと言えます。
中景の回復=コミュニティの再建に
ニーズがあるのか
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
学芸出版社ホームページへ