担い手づくりで見逃せないのが、 まちづくり協議会という中間組織の位置づけです。 行政があって議会があって議員がいて市民・住民がいる。 これでいいじゃないか、 何でわざわざそういうものが必要なのかと言われます。 しかし、 まちづくり協議会は代議制を否定するかというとそうじゃないと思うんです。 行き詰まっている代議制を否定するんじゃなくて、 補完するものとして、 中間組織が必要なんだと思います。
これを冒頭に申しました遠景・近景・中景にこじつけると、 やっぱり中景がない。 中景を作るには今の代議制だけでは無理だとすると、 中間組織としてのまちづくり協議会は必要だろうと言えます。 じゃあ中間組織であるまちづくり協議会ができればまちづくりはできるかというと、 決してそんなことない。 道半ばという感じがします。
豊中の場合もそうですが、 あくまでまちづくり協議会はボランティアです。 ボランティアでまちづくり事業ができないということは、 豊中でも実証されています。 それではどうするかというと、 自分たちが出資して自分たちのリスクでまちを良くしていこうという「まちづくり会社」が出てきます。
まちづくり会社はリスクを伴います。 まちづくり協議会はリスクを伴いません。 まちづくりの担い手には「自分がリスクを負ってもやるんだ」というシビアなものが要求されるだろうと思います。 何でそこまで要求されなきゃいけないんだという思いもありますが、 この方向だったらひょっとしたら展望が開けるんじゃないかと感じさせてくれる現場では、 必ずといっていいほど自分たちでリスクを負っています。
ただ、 まちづくり三法のなかの中心市街地活性化法でいうまちづくり会社(TMO)は、 多くが私がいうまちづくり会社とは縁遠い存在です。 特定商業集積法ができたとき、 まちづくり会社はこう作りなさいと言って補助金を出してやった。 その失敗の反省もなく同じことを繰り返しているだけです。 制度ができたから制度に乗りましたというのでは、 おそらく駄目でしょう。 ニーズがあるから制度がなくても作る、 あるいはニーズがあってたまたま新しい制度ができたから使うというように、 まずニーズが前提にあるのが当たり前の姿なのです。 そのニーズとは、 言い換えると、 まちを担っていく担い手づくり、 それが前提にないと駄目だということです。
二つの潮流がせめぎ合っていると言いました。 これはどちらが勝ってどちらが負けたという形には多分ならないんじゃないかと思います。 光と影の関係で、 光が強くなると影も濃くなるという関係が続いていくでしょう。 そういう中で私たちの生活を考えた場合、 コミュニティや地域社会の再建の必要性がますます重要になってきます。 それをベースにしたまちづくりの成功物語が出てくることを個人的に期待しています。 それが突破口になるんではないか、 と思っています。
リスクを背負う担い手づくり
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