写真1左 多摩永山(1978)/整列する標準化された集合住宅群 |
写真1右 八王子(1960)/画一的な戸建住宅群 |
私は「都市」は、 全体として整合性を持った“単体”ではないし、 写真1のような“単一要素の集合体”でもないと理解しています。
むしろ「都市」本来の姿は、 全体としての整合性を持たず、 ある場合ではその各部分でコンフリクト(conflict)を生ずるような、 全体に矛盾を含んだものであり、 時として相反する利害関係を持つ、様々な歴史と文化を持った多様な“部分”の集合体であるのでは ないかと考えています。
写真2左 新宿(2000) |
例えば高層ビルや住宅地、 街路沿いの建物などが、 それぞれ違った様式や形態で存在しています。 また、 これらはそれぞれ違った担い手が違った歴史や生活様式、 あるいは違った文化を持って、 都市の中でときとして争い、 ときとして補完しあい共存しています。
今までの都市の考え方では、 例えば「低層住宅街は、 いつかは高層ビル群に進化するはずだ」と一方向に進化するように言われてきました。 しかし決してそうではなく、 「低層住宅街を担っている主体および文化と、 高層ビル群を担っている主体および文化は違うのだ。 現実の都市の中では、 大きな力を持った要素がそうでない要素を駆逐して行きながら変わってきているのであって、 それぞれ都市を構成している様々なモードごとに、 それぞれの進化があるはずだ、進化の方向は一つではない」という事が言えるのではないでしょ うか。
写真2右 佃(2000) |
つまり「都市」は“単体”ではなくて色々な要素が並存しており、 またそれぞれ異なるこれらの要素が、 例えば道路等のインフラという共通の要素によって支えられていることで都市が成り立っているのです。 要するに「共通する要素にそれぞれが支えられながら個別的な要素が生きている」というのが、 都市の姿ではないでしょうか。
そのように考えると、 都市を構成するに重要な要素としての共通要素、具体的には道や ライフラインなど色々なものが当てはまると思いますが、 こういった「都市骨格」のようなもののあり方と個別的要素との関係が、都市構造を考える上で強く意識されるべきだと
思います。
写真3左 細胞(人体の図詳図鑑、 学習研究社、 1997) |
写真3右 ARKADIA'97 |
左は人体の細胞内部です。 核があって、 そのまわりにミトコンドリアなどいろいろな働きを持った要素があります。 これらは、 最近の考え方では、 もともと個別の独立した生物であったものが、 ある限られた領域の中で共生体を作って、 一つの細胞という姿なったといわれています。
これを「細胞内共生」と呼ぶわけですが、 これと同様に、 都市も一種の「共生体」と考える事ができないでしょうか。 つまり様々な形態、 モードを持った生命体が、 一つの都市の中で共存し、 互いに補完関係を持っているというような姿で、 都市を捉えていく必要があるのではないでしょうか。
写真3右では、 そのような理解をもとに私なりの都市像を描いてみました。
これは例えば“高層ビルのカタマリ”“戸建住宅のカタマリ”“路線の街のカタマリ”といった様々なモードを持った集落が一つの都市の中に共存していて、 それらが、 例えば“ライフライン”のような共通要素に依存しているし、 あるいは“オープンスペース”のような外の世界(非都市)が貫入してきたものにも依存している、 というような姿です。
まとめますと、 「都市」は決してホモジーニアス(homogegeous)なものではないし、全体としてスタティック(static)な整合性を持っているわけではありません。 それぞれ構成要素が成長したり、 あるいはぶつかり合ったり、 あるいは侵食し合ったりすることで、 都市のダイナミズムが形成されて行くのです。
このように考えた時に、 このような「都市」の活動を支えるインフラや、 貫入している都市でないもの、 要するに多様な部分をささえている「都市の骨格」を形成しているもののあり方が、 都市を考えるうえで大事なのではないかという意識を持ったわけです。