ニュータウンを超えて
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学生時代=骨格へ

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写真4左 里見公園(1959)
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写真4右 PA-61 (1961)
 そのような意識がいつ頃から出てきたかと言いますと、 学生時代に遡ります。

 写真4左の作品は、 公園の計画でデッキに様々な構成要素がくっついて、 そのデッキが 公園の中から外の街に伸びていって街の骨格を造って行くというイメージです。 デッキという共通の構造体に支えられ、 街と公園が一つの構造になっていくというような事を考えていました。

 左側の絵は公園の中だけを扱っていますが、 この骨格となるデッキをさらに外に伸ばして行くと、どんな街の姿になるだろうかと描いてみたものが写真4右です。

 この絵を今見てみると、 住宅地などは当時のモダニズムの典型的な形になっているし、 延々とこのような空中回廊を造るというのも決して現実的とはいえません。 しかしとにかく、 建物で埋まった市街地があってその一方に建物のない、オープンスペースがあるとい う一般に考えられていた街の形ではなく、 デッキを介して住宅や色々な施設があり、 そうした施設の一つとして、 あるいは施設を受け入れる場として、 オープンスペースがあるという街のあり方、 都市空間構造のあり方に関心がありました。

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写真5左 新宿計画(1961)
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写真5右 池袋計画(1962)
 これも同じく学生時代の習作です。

 写真5左は、 1960年に建築家の槙さんと大高注1さんが「新宿計画」というプロジェクトを発表されたことに触発され、 「我々ならこうやる」ということで当時私の属していた研究室の習作として作ったものです。

 幹線道路に沿って街があり、 それが巨大な中庭みたいなオープンスペースを抱えているという構造で都市を考えてみました。 市街地の形態は一種の“デッキタウン”とも呼べる、 デッキで繋がれた空間になっています。 このような“メガストラクチャー”をもった市街地のあり方が、 当時の先端的都市像としてあり、当然その影響を受けています。

 写真5右は62年、 ちょうど卒業する年に池袋をモデルにして計画したものです。 実は私
が生まれたのが池袋の隣の大塚で、 土地勘があるという事もあってここを選びました。

 前年の学部祭のときに新宿の計画について、他の研究室の学生から「いくらなんでも都 心の駅前にこのオープンスペースは大き過ぎる」とスケールについて指摘されたり、 このオープンスペースが一種のリザベイション(reservation:保全地)として考えられてい たため、 「そういったものだけが街の中のオープンスペースのあり方なのか、 例えば新宿近くにある新宿御苑のような庭園的な空間もあっていいんじゃないか」といった意見がありました。 この計画ではそのような指摘に答える形でいろいろ修正していきました。

 新宿のプロジェクトと違うのは、 細かい既存の道路を残しながら、 構造的にかなり整理して、 幹線道路に沿った街区があって、その内側に歩行者デッキがあって、 オープンスペ ースを取り巻く内側の街区があるという形にしたことです。

 それから、 それぞれの街区を細かく切ってオープンスペースどうしを繋いで、 その緑色の所だけを見ていくと一つの構造体として見えてくるようにしておいて、 緑(オープンスペース)と黄色(ペデ)とグレー(道路)の各構造体がオーバーレイされて複合的な街の骨格を作っていく、 というイメージで計画しています。

 もう一つ違うのは、 オープンスペースの中に学校やお寺、 古い住宅地など既存の要素を取り込んでいる事です。

 この習作には、 それ以降の私の都市の空間構造に対する考え方のほとんどのエッセンスが表現されていると思います。

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