淡路景観園芸学校の現在と未来
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

(1)私と景観園芸学校

特定非営利活動法人・アルファグリーンネット理事 安尾昌子

 

 私は、 淡路景観園芸学校の景観園芸専門課程を修了した1期生の安尾昌子です。 現在はこの学校のティーチングアシスタントとして、 働いています。 これから私が入学するまでの個人的な経緯も含め、 この学校がどんなところであったかをイメージしていただこうと思います。 どうぞ気楽に聞いて下さい。

 1999年、 私たち23名の一期生は、 東は福島県、 西は熊本県から開校したばかりの淡路景観園芸学校に入学しました。 海のものとも山のものとも分からないような学校に来るのはどんな人かと、 興味津々で入学しました。 成績で採ると女性のほうが優秀ということで、 23人のうち19人は若くてきゃしゃなお嬢さんばかりで、 男性は風貌も体格的にも頼りない若者2人と、 ちょっと疲れた30代の男性2人で、 こりゃどうなるのかと、 とても心配でした。 年齢的にも大学を卒業したばかりの人が多く、 私自身の子どもと同年輩の人が級友という中で、 初めての全寮制の寄宿生活が始まったのです。


なぜこの学校を選んだのか

 この学校に入学するまで、 私は明石市の消費生活センターに勤めていました。 95年に皆様もご存知の阪神淡路大震災があり、 明石市も罹災都市だったので数ヶ月間というものは被災者の対応に夜も昼もない状態が続きました。 私も毎日の生活が確保できない市民からの相談に明け暮れ、 本当に心身共に疲れました。

 行政が地震を起こしたかのように責め立てる行き場のない市民のエネルギーは、 すごいものがありました。 また当時はバブル経済が崩壊し始めたときでもあり、 金融商品で損した、 だまされたなど楽しくない相談ばかりが増えた時代でもありました。 人間好きと自称していた私ですが、 「いい加減にしてよ」と言いたくなるくらい神経をすり減らしてしまい、 この頃は人里離れた自然に囲まれ情報など入ってこないところで暮らしたいとずっと考えていました。

 ちょうどこの頃、 テレビや新聞でも自然の中で暮らすとか、 農業に従事する、 田舎に移住することなどがしょっちゅう取り上げられていましたので、 私だけでなく経済の効率や生産性を追及してきたそれまでの暮らしに、 みんな疑問をもったり、 疲れたりして、 本物の豊かさって何かなということを真剣に考え始めた時期だったのかも知れません。

 景観園芸学校の設立構想も、 高度成長期の反省に立ち、 自然回帰、 帰農、 真の豊かさを追求する時代の波にのって作られたものだと思います。 日本で行政が最初に行うトレンディな、 すごい実験校だと思っています。 この学校の設立には、 阪神・淡路の被災地ということもあり、 賛否の議論の末に誕生した涙涙の誕生物語があったことでしょう。 その辺のことは鳴海先生や、 中瀬先生がよくご存知のことと思います。

 私と景観園芸学校との出会いは、 98年に淡路島に仕事で来たときに、 偶然乗り合わせた連絡船の乗客からこの学校のことを聞いたのがきっかけです。 自分で居場所を求めてアンテナを張っていたからでしょうか、 「これや」と瞬時に感じました。

 しかし、 実際に受験を決意するまでには随分迷いました。 というのも景観園芸という耳慣れない言葉、 辞書を引いても景観と園芸が引っ付いた熟語としては載っていません。 取り寄せたパンフレットには、 住所の番地はないし電話番号も県庁のものしかなく、 本当に存在する学校だろうか、 まさか、 兵庫県が実態のない学校で人を騙す訳はないと思いながらも、 悪徳商法と対決していた商売柄、 とても不安でした。 知り合いの県の職員に聞きに行ったほどです。

 また、 入学にいたるまでに家族の説得、 家族の健康、 入試勉強など難問は山ほどありました。 何しろ長年入試勉強というものはしたことがありません。 未知の学校でどんな問題が出るのか、 どんな人を採りたいのかも全くわかりません。 でも、 窮すれば通じる、 どんなことをしてでも入りたい、 こんな気持ちが通じたのでしょうか、 7倍の倍率の中、 合格できたのです。 兵庫県政が財政的に大変な中、 大枚を投じて作られた、 高い理念に支えられた景観園芸学校に入れたのです。 私の人生の中で本当に久々の大ホームラン、 しかし、 家族、 特に夫にとっては不幸のどん底だったことでしょう。

 縁というものはあるもので、 小耳に挟んだ、 不確かな情報で私の運命は大きく変わりました。 こうして仕事を辞めて、 淡路と明石は近いと言うものの、 家族を残し、 私の単身赴任が始まりました。


ハード、 でも生きている実感を感じる生活

 入学してからの毎日は、 私にとっても学校にとっても一からのスタートで、 新しいことの連続です。 なにしろ先生19人に学生が23人のほぼマンツーマンの教育です。 授業は月曜日から金曜日の朝9時から夕方5時50分まで。 全ての科目が必修で講義3、 演習7のカリキュラムの中、 いろいろな面白いことを体験しました。

 土を耕し、 種を蒔き植物を育てたり、 日本庭園を造るため大きな石をクレーンで運んだり、 私自身がユンボーを使って穴を掘ったりなど、 何もかも手探りで何でもできるパイオニアの学校だと思いました。 みんな希望に胸を膨らませ、 目をキラキラ輝かせていたものです。 これには、 今どきの若い者もそう捨てたものではないなと感じる日々でした。

 また朝から晩までの勉強はしんどかったものの、 終わって先生方の研究室や、 お家にまで押しかけたり、 夜を徹して飲み明かし昇る朝日を拝んだりするなど、 いろんな楽しみがありました。 裏のやぶから竹を切ってきてそうめん流し大会をしたり、 炭焼きをしたり、 山採りの木を移植したり、 しし座流星群を一晩中観察したりなど、 人里離れた何にもない、 携帯電話さえ通じない山の中の全寮生活ゆえの楽しみ方があったように思います。 日常では味わえない生活、 自分だけのための2年間を自分の能力だけで乗り切る、 どれだけ頑張れるか、 正に自分との闘いであったと思います。

 特に私にとって辛かったのはパソコンとの闘いです。 今まで簡単な入力やワープロ代わりには使っていたものの、 画像の取り込み、 表計算、 統計処理、 ホームページの作成、 CADなど何もかもチンプンカンプンでした。 パワーポイントの作品を見せられたときのカルチャーショック、 難しげなソフトを使いこなすクラスメイトや先生方は異邦人を超えた、 異星人のように思えたものです。

 パソコンに悪戦苦闘をする私を見て、 私と同年代の先生方からは、 「安尾さんはそんなことをしなくてもいいんだよ」とよく言われましたが、 生来負けず嫌いの私は「先生は先生だからしなくていいけれど、 私は学生だからせんとしょうないんです」と答えると、 「君は健気だね」と笑いながら言われました。 私の年齢から見るとしなくていい苦労を自ら買って必至の形相でしている姿は、 端からはどのように見えたのでしょうか。 夜になると字が見えない、 遠くも近くも見づらい、 しかも入った限りは、 性別、 年齢の考慮などない、 みんな平等な学校で、 週末は主婦に戻らなければならない二重生活の中で甘えは許されない、 また自分自身でも許したくないところがあり、 私にとってはハードな、 でも生きているという実感が持てた2年間でした。


学んだこと

 実際ここの2年間で学んだことで、 景観園芸を自分なりに定義すると、 景観園芸とは、 人にとって心地よい環境を植物や様々なエンジニヤリングを用いて実現すること、 また、 その状況が植物や他の自然にとっても良い条件で、 人と自然が共存し合える関係を作ることだと考えています。 単なるデザインと異なるところは、 植物などを構成要素の道具としてみなすのではなく、 人のパートナーとしてなくてはならぬ存在として生かすということです。

 また、 ほぼ24時間一緒の日々の暮らしの中で、 コミュニケーションが能力であることに気がつきました。 コミュニケーション能力を高めることは、 人が心地よい環境を作るために最も重要なことです。 この学校がまちづくりは人づくりといっていることが実感できたのです。 どんな素晴らしい施設や建物があっても、 そこに信頼できる良い人間関係がないと、 心地よい空間にはなりません。 私がこの学校で学ぶものは、 ハード組織とソフト組織を融合し、 機能させるコーディネーターの役割を身につけることと感じたのです。

 景観園芸学校に入学してよかったことは一杯ありますが、 取り分けて言えば、 人との出会いです。 先生方が素晴らしいのはいうまでもありませんが、 それに加え学生の多様性です。 他の分野で師と仰がれるような方が入学されていて、 その方々との会話からも多くのものをいただきました。

 これからの景観園芸学校に様々な可能性が秘められていると思います。 前例のない実験校として、 新しい価値観、 文化を創造していけばいいのではないでしょうか。 今日、 参加されている方々もリカレントとして入学することが可能ですので、 一度試されてはいかがでしょうか。

 私自身今は修行の身の上ですが、 自信はないもののそろそろ船出のときが来たと思っています。 ご静聴ありがとうございました。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ