現在の地域と祭りとの関係を考えると、 (1)現時点で伝統的な祭りに巻き込まれる可能性のある地域に居住する人が3500万人くらいおり、 (2)その周辺に居住する人が1500万人、 合計5000万人の人々が祭りに近い場所にいる。 そして、 (3)かつては伝統的な祭りに巻き込まれる可能性のある地域に住んでいたが、 今はそのような地域に居住していない人、 つまり、 実家は祭りに巻き込まれているが自分はそうでないという人が1500万人くらいいる。 それから、 (4)伝統的な祭りに巻き込まれる可能性のない地域に居住している人々が6500万人くらいと、 日本の人口の半分近くがこれにあたる、 というのが私の仮説です。
私は三つ目の類型の一人で、 実家はねぷたに巻き込まれているのですが、 私は巻き込まれていません。 また、 近所に祭りがあるのですが、 あまり参加していません。 私の息子たちは四つ目の類型にあたります。
近代に住宅だけで形成された町には、 祭りが存在しない傾向があります。 郊外住宅地です。 しかし、 戦前に形成された郊外住宅地には神社などが作られ、 祭りが生まれる契機になっていたとも考えられますが、 戦後は新憲法のもとでそのようなことは困難になりました。
住宅だけで形成される町に居住する人々の中には、 かつて祭りが行なわれていた地域で生まれ育った人もいると思いますが、 その二世以降は祭りに巻き込まれる契機をほとんど失っている可能性が高いと考えられます。
20世紀が生み出した「サラリーマン都市」とでも呼べる住宅だけで構成された広大な町が、 もっとも祭りのようなものを必要としているにもかかわらず、 祭りが存在していないかもしれません。 今回の発表では、 サラリーマン都市とは違う場所だけを紹介しますが、 このような「サラリーマン都市」をわれわれは21世紀にどのようにしていくのだろうかということも問題であるといえます。
『無秩序の活用』という本で1970年頃にデビューした社会学者のR・セネットは面白い発想をしています。 最近日本語に訳された『公共性の喪失』(1974年)という本の中で、 彼は次のようなことを述べています。
「郊外が「真の」コミュニティかどうかについてはアメリカの都市計画者の間でこの20年間、 長く、 本質的には実りのない議論が続けられてきた。 大事なことは、 ともかく問題が提起されたこと、 コミュニティが人々の考える問題になったことである。 なぜなら、 現代の都市開発のあり方は、 コミュニティの触れ合いそのものが都市の社会的な死に対する解答であるように思わせているからである」。
またセネットは、 アメリカで、 最近の建築家や都市計画家は「コミュニティ」という言葉を多用し、 都市全体を論じなくなったと述べています。 例えば、 アメリカのニューアーバニストという最新の都市デザインの考え方を共有しているグループがありますが、 彼らの関心はコミュニティなのです。 R・セネットは、 都市全体を論じなくなったという背景を問題視しています。 このことは、 我々としても考えさせられることであります。