最後に、 私自身調査に行き、 そこで地車を引いている様子を見たり、 引いている方々にお話を伺ったりして、 「地車がつくる地域」ということで三つのポイントが挙げられるかと思いました。
1つ目は「高度成長期の衰退と岸和田地車テレビ放映による復活」です。 ご紹介した三つの村のどの地車も、 昭和35年頃に一度地車を引くのをやめています。 それまではずっと引いていましたが、 高度成長期で「地車など引く暇はない」「村はどうでもいいから働きに行こう」ということだったと思います。
そのまま放られていましたが、 20年くらい経った昭和50年頃、 多分岸和田の地車のテレビ放映が大きく影響したのではないかと思いますが、 「うちの村にも地車があるのになぜ引かないのだ」「お祭りがやりたい」という声があり、 昭和50年代に各地で復活してきています。 東成区の地車7台のうち6台がこの時期に復活しており、 平野区六反での地車の購入も昭和53年でした。 岸和田地車のテレビ放映だけではないと思いますが、 それがひとつの引き金にはなっているのではないかと考えられます。 また、 地車をやっている人には地車好きが多いので、 自分の地区の地車だけでなく、 色々なところの地車を見て歩いています。 お互い地車を見に行ったりしていることもあって、 「あそこでは復活するらしい、 じゃあうちも」というようなネットワークもあるようです。
二つ目は「地車にまつわる決まりごと」です。 地車を引くという目的のもとに老若男女様々な人が集まっています。 年配の方は「茶髪は嫌いだ」と言われますが、 若い子は「茶髪にしたい」というように、 価値観が全く違う人が集まっています。
長原ではあまり見られませんでしたが、 地車一つをみんなで一生懸命引いている今里や六反では色々な決まりごとを決めていました。 村々で違うのですが、 例えば「地車を引くときは危ないからアルコールを一滴も飲んではいけない」「女の子は上に乗ってはいけない」などです。
鳴海先生から参加の制限という話がありましたが、 入ることは簡単にできるけれども続けていくことは難しく、 皆とうまくやっていけなければやめさせられるというような決まりごともあります。 他にも、 学校での勉強よりも地車をやりたいといっても「勉強しないと地車をさせない」、 また、 地車の前に立って踊りたいといっても「定期的な掃除などの修行を積まなければ躍らせてもらえない」などで、 地域での教育という効果もあるといえます。
「まちでうろうろしている茶髪の男の子は怖いが、 地車保存会に入っている若者であれば、 まちでたばこをふかして歩いていたら怒れる」というような、 多世代の交流、 言いたいことを言えるような仲になる、 というようなことがあるようです。
もう一つ決まりごととしては、 役員の決め方があります。 各地車保存会で考え方は異なりますが、 様々な立場でものを見なければ皆のことが考えられないという考えで、 順番に役員をやらせていくというところもあれば、 核になる人が引っ張っており、 長期間役員をやっているというところもあります。
三つ目は「わがまちの地車」です。 三つの村の地車をご紹介しましたが、 それぞれ地車の形、 由来、 所有や日ごろの管理など多くの点で違いが見られました。 しかし、 「地車を引いてやっていこう」という地域の共有のイメージ、 目標があるのです。 それに向かって様々な人が考え発言しているという状況があり、 それぞれの方法で工夫していました。 地車というひとつのものがあることによって、 まちが生き生きしていることを体感することができました。
地車がつくる地域
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
学芸出版社ホームページへ