第1世代が明治30年代までの西洋様式建築の習熟の時期で、京都の国立博物館ができた頃には日本人は完全にヨーロッパの建築を我が物にしたと言われています。
さらに第2世代がそれを建築理論として構築します。これは伊東忠太などが言いだして、それを反芻しながら第3世代に引き継ぎます。
第2世代と第3世代はほとんど繋がっていますが、ここで歴史建築の進化、産業革命を取り入れた後の日本の建築、歴史建築とは何かという問いかけが出てきました。モダニズムがどんどん進んできて優勢になっていましたが、確かに歴史建築の進化、さきほどブータンのティンプーで見たようなものが、この当時の日本にもあったということを改めて思いだしたわけです。
奈良県庁舎、奈良ホテル、日本勧業銀行などがそれにあたります。これらは2階建て、屋根裏を入れても3階建てですから、規模的にはこれで日本が洋風を完全に消化して日本の歴史建築を進化させたとは言い切れないにしても、一応そう言われています。確かに日本風の洋風建築が真剣に検討されたということがわかります。一つの到達点だといわれているのも納得のいくところだと思います。
それがつづけばよかったのでしょうが、僕にとっては歴史建築は大東亜共栄圏の時の帝冠様式で終わったという理解でした。歴史建築の行きついた先は帝冠様式という固定観念のようなものがあって、この系譜はダメだったのだと思い込んでいました。そして戦後は今我々が目にしていますように、モダニズム一辺倒できているわけです。歴史主義というのは殆ど教育の中でもなかったと思います。
今振りかれば、1960年代までは、白井成一や堀口捨巳、浦辺鎮太郎、大江宏、村野藤吾など、それから香川県庁舎においては丹下健三も、歴史主義を真剣に検討していました。しかし70年代以降はまずゼロだったのではないかと思います。また僕自身は完全に忘れていたように思います。
実は地域主義であるとか、場所を読むということ、あるいは地方分権、町並み保存などはもちろんそうなのですが、今僕が言っていることと密接に関係があることで、本気で勉強しなければならないことではないかと思います。しかし、そうは思いましたが、本当に自分がそういう気になって、歴史主義の建築なり都市をデザインすることが、いまさらできるかなと考えると、自信が無い。これからの若い人たちにそういう可能性があるのかというと、もっと在りそうにない。まあ混沌としてきてしまったわけです。
これが以前だったら「またイージーなデザインをやりやがって。屋根をつけて格子をつけて塀でもつければいいというものでもないだろう」と、半分軽蔑しながら見過ごしていたものでしたが、妙にリアリティがあって、「いやあ、これかなあ」と(笑)。しみじみ思いました。これを笑えなくなって、これをやらねばならないのではないかと本気で思ったり、でも出来そうにないなあと、複雑な思いがいたしました。
日本の歴史主義の行方
日本の歴史主義の足跡
日本の歴史主義の進化は、第1世代、第2世代、第3世代と分けられるのだそうです。
忘れられた歴史主義
ではティンプーで見た歴史主義というものの可能性はもうなくなってしまったのか。日本は完全に国際主義になってしまったのか。明治から戦争までの80年間はヨーロッパに学ぶ時代から、奈良ホテルなどに結実した歴史主義の進化のあり方を求めてきたわけですが、戦後60年はほとんどそれを考えなかったのではないか。実は60年代までの先輩はそれでも考えていた。そうすると70年以降の我々の30数年、この高度経済成長の真っ只中は、我々は何か忘れていた。僕自身何かそういうものから遠ざかっていた。これはきちんと勉強しないといけないと思ったわけです。
歴史主義の可能性
瓦や格子をつけたマンション
先日、伏見区役所の前を歩きましたらこういうマンションがありました。
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
学芸出版社ホームページへ