日本の原風景の源流を探る
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日本の風景の変化

 

 今日のプレゼンテーションのなかで、ブータンがいかに素晴らしい国であるか、あるいは皆がいかに幸せそうに暮らしているかという指摘がたくさんありました。渡辺京二さんによれば、ちょうど150年くらい前、日本に来た外国人も同じようなことをたくさん言っていたということを、まず確認しておきたいと思います。


外国人が見た150年前の日本の風景

 ハリスが来たばかりの時に「疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福になるだろうか」(1856年)と言っていますし、その次の年ヒュースケンが、「おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしている」(1857年)と言っています。

 また、まだ江戸時代のうちですが、長崎にいたカッテンディーケという人は「私は心の中でどうか今一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希った。しかし同時に私はまた、日本は…今後どれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかった」(1859年)と言っています。

 あるいは日本アルプスを紹介したW.ウェストンが後に回想しているのですが「明日の日本が、…今日の日本よりははるかに富んだ、おそらくはある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい」(1925年)と言っていたわけです。

 つまり日本もちょうど150年ほど時間をずらすと同じようなことを言われていた国民であったことを、まず確認しておきたいと思います。その頃実際に「素朴で絵のように美しい国」というのが、日本人の手によっても描かれていたわけです。


素朴で絵のように美しい国

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東京尾張町之図 芳年 明治2年 部分(出典:小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977) 東京銀座煉化石聯家京橋ヨリ一覧之図一景 明治6年 部分(小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977)
 
 これは尾張町、後の銀座です。

 そこは焼けた後、写真右のような洋風の煉瓦街に建て替わります。

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東京名所 両国横山町通鉄道馬車往復之図 年恒 明治15年 部分(出典:小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977) 東京名所日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図 紅英斎 明治15年 部分(出典:小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977)
 
 明治15年になっても、江戸のまちは基本的には伝統的な町並でできていました(写真左)。

 日本橋もその頃には鉄道馬車等が開通していますが、町並み自体、建築的にはまったく伝統的です。むしろより伝統的な町並みが完成に近づいたと言っている人がいるくらいです(写真右)。


電柱電線が目立つ町並み

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東京第壱名所 日本橋之真景 延一 明治25年(出典:小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977)
 
 明治25年になってもまだ日本橋の近辺はこんな風景ですが、一つだけ変わっているのが、電柱と電線がかなり目立って描かれるようになっていることです。それ以前も実はあったのですが、一本か二本でした。20年代になるとそれがかなり目障りになってきます。

 実は日本の都市の風景は、建物より先に電柱や電線で変ってきます。その経緯を見てみます。

     
  • M2 電信線 東京横浜間開通
  • M4 「東海道の松並木ー電信線の犠牲になる」新聞記事
  • M7 九州から北海道まで電信線連絡
  • M15・11 銀座の街路上で電灯点灯
  • M20・11 東京電灯会社本格営業開始
  • M23・12 逓信省電話交換業務開始
  • M23・2・28 東京日日新聞「東京名所絵には景色の一に描きし電線も、今日の如く普通電信線、軍用電信線、非常報知線、電話線、電灯線と言う如く左右縦横に引張られては景色どころには非ず、東京市民は蜘蛛の巣の中に居るかと怪しまるる程なり。殊に街路の真ん中に武骨極まる大木を押し立つるが如きは不用慎も亦甚し…」
 
 最初に入ってきたのが電信線です。そして明治4年にはすでに東海道の松並木が電信線の犠牲になるというような新聞記事が登場します。たぶん文明開化に伴う風景破壊を指摘した最初の記事ではないかと思います。小田原近辺の東海道の松並木がやられたというものです。

 電信線は明治7年には九州から北海道まで連絡するようになります。電灯や電話線は少し遅れます。明治15年に銀座の街路上で初めて電灯が点灯します。これは線が引かれているわけではなくて、その場に発電機を持って行って灯すわけですが、明治20年から営業が開始されます。ちょっと遅れて電話交換業務も始まります。

 そして明治23年には「東京名所絵には景色の一に描きし電線も、今日の如く普通電信線、軍用電信線、非常報知線、電話線、電灯線と言う如く左右縦横に引張られては景色どころには非ず、東京市民は蜘蛛の巣の中に居るかと怪しまるる程なり。殊に街路の真ん中に武骨極まる大木を押し立つるが如きは不用慎も亦甚し…」という新聞記事が登場します。

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東京銀座通電気燈建設之図 定吉 明治16年(出典:小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977) 日本橋白木屋開帳の図 明治30年代(出典:宮尾しげを監修「新選東京名所図会」睦書房、1969)
 
 左は銀座で最初に電灯が点灯した時の絵です。

 右は日本橋の風景ですが、電線が強く描かれています。町並み自身、建物自身は変っていません。

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神田小川町通りの図 明治30年代 部分(出典:宮尾しげを監修「新選東京名所図会」睦書房、1969) 麹町永田町の図 明治30年代(出典:宮尾しげを監修「新選東京名所図会」睦書房、1969)
 
 左は神田小川町です。中央大学のあたりです。やはりかなり電線が目立っています。

 右は永田町です。電話線が右側、電力線が左側です。分けるようなルールになっていました。電話線が当時の技術の限界で本数が非常に多くなっています。支えるために電柱が二本立てられています。


建築家による景観批判

 先ほどのブータンの市街地の写真では、電線電柱が見えなかったので、かなりきちんとやっているという印象を受けました(会場から「地中化していました」との声)。明治30年代くらいまでは、建物はあまり変らないのだけれども、電柱や電線で風景が相当変り始めました。そのあと建物が変り始めることによる風景の変化を問題にするような発言が出てきます。

 建築関係の人が言い始めるのが、明治41年、42年です。この頃の話が、我々が今日本の都市の景観について感じているようなことを建築家が言い始めた最初だと思います。

 一つは「建築家が見たる東京市区改正」を三橋四郎が日本建築学会の『建築雑誌』に明治41年に書いています。また「東京市区改正建築の状態と建築常識」を田邊淳吉が同誌に明治42年に書いています。

 三橋は「不体裁極まる道路に不体裁なる家屋を乱造して平気で居る。出来上がった処を見ると不規則千万にして、何らの統一もない事は実に見られたものではない」と書かれています。ご承知のように明治30年代の後半くらいから、それまでお金がなくてあまり進まなかった東京の市区改正が、市街電車が通る時の負担金や外債を発行したりしながら急速に進み始めるわけです。

 それに伴って道を広げますから建物が建て替わる、そのことを問題にしているわけです。

 田邊は「市区改正も宜いが出来上がった家と言ったら不体裁極るではないか。隣に土蔵があると思うと、その隣には怪しげな西洋建築があり、高いのもあれば低いのもある、実に百鬼夜行、或は粗雑なる博覧会の売店其のままである…」。あるいは同じ論文の中で「…改正になりました側を見ますと、雑然たる有様は筆紙に尽くし難き有様で、どう言う風に述べて宜しいか捉えようが無くて当惑したのであります、…乃ち伊東博士の述べられた通、過渡時代に伴う暗黒時代、暗黒時代の好標本で…」という書き方で批判しています。

 その頃道を拡幅して、曳き家をして土蔵がそのまま残る場合もあるし、建替えて怪しげな洋風建築が入ってきたわけです。日本の都市の風景を語る時、「雑然たる有様は筆紙に尽くし難き有様で、どう言う風に述べて宜しいか捉えようが無く」という感覚は今と同じ感覚だと思います。


変化する町並みの風景

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日本橋通り 白木屋(明治44.10完成)(出典:村松貞次郎監修「街 明治 大正 昭和─絵葉書にみる日本近代都市の歩み1902〜1941)─」都市研究会刊、1980) 日本橋通り 大正初期(出典:村松貞次郎監修「街 明治 大正 昭和─絵葉書にみる日本近代都市の歩み1902〜1941)─」都市研究会刊、1980)
 
 左はその論文が出た2年後の日本橋の洋風建築です。

 右は大正初期ですから、ほぼ同じ時期です。土蔵づくりもあるし洋風もあるし、相変わらず電線はいっぱいです。先ほどのティンプーの風景とはまるきり違います。

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新橋より銀座街を望む 大正6・7年(出典:村松貞次郎監修「街 明治 大正 昭和─絵葉書にみる日本近代都市の歩み1902〜1941)─」都市研究会刊、1980) 神田区・神保町通り 大正中期(出典:村松貞次郎監修「街 明治 大正 昭和─絵葉書にみる日本近代都市の歩み1902〜1941)─」都市研究会刊、1980)
 
 左は銀座です。銀座はかなり日本橋のほうよりも良かったらしいですが、それでも色々変化しています。

 一方、銀座にしても日本橋にしても、都心の一角です。ちょっと外れると写真右のように大正の中期には電線は目立ちますが、まだ町並みはそれほど洋風化していません。だから日本橋なり銀座からスタートした「なんと形容していいかわからない」という町並みの風景が、時間をかけて、戦前戦後と東京のなかで広がり、地方の都市へと広がっていったのだろうと思います。

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