上田篤「日本人の心と建築の歴史」を語る
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はじめに

 

企画の経緯

鳴海

 今回は都市環境デザイン会議関西ブロックの第一回のセミナーです。建築学会近畿支部都市計画部会、JIA近畿支部の3つの協賛で企画しました。

 今回ご講演いただく上田篤先生は1930年に大阪に生まれられ、京都大学の建築学科を卒業後、建設省で働かれました。その後、京都大学建築学科の助教授、大阪大学環境工学科の教授、そして京都精華大学に移られ、これまで様々な研究・教育活動を続けてこられました。たくさんの著書がございますが、私が学生の頃はともに京町家の研究などを行いました。日本の住宅や都市の問題を考えてこられた訳でございます。

 先生は、このほど『日本人の心と建築の歴史』という本を鹿島出版会から出版されました。これまで考えてこられたことをもう一度とりまとめたいと、本の結びには書いておられます。本が出版された後、できるだけ若い人たちに伝えたいとお聞きし、早速その機会を設けようということで、今回の企画をさせていただきました。

 それでは ただ今から始めたいと思います。


私と大阪

上田

 ご紹介いただきました上田です。私は現在、京都の宇治に住んでおりますが大阪にも時々は参ります。こういった会合に呼んで頂き、若い方と話す機会を設けていただき有難うございます。私は建築も都市計画もやっているつもりですが、今回の本は主として建築に関するものです。ただ今日は町づくりに関する話もしたいと思います。

 ご紹介いただいたように、私は大阪に生まれ、小中高校も大阪でした。大学でも大阪で教えてきました。

 大阪について語るとき、「地盤沈下」あるいは「沈下、沈下」と言われ続けています。私は「沈下節」と呼んでいるのですが、40年前からずっと言われ続けています。ジェーン台風で大阪の市街の大半が水浸しになりました。地下水の汲み上げが大きな原因です。それになぞらえて、大阪の経済的な地盤沈下が問題とされ、多くの議論が行われてきました。

 大阪に関して私は思い入れがあります。大阪をどうするんだろうか、といつも思います。

 先ほど天満橋のOMMビルの20階の中華レストランでビールを飲みながら、久しぶりに暮れなずむ大阪の町を見ていました。本当に大阪はいい町だとおもいました。特に昔は良かったと思います。最近できた歴史博物館に登りますと、生駒から金剛葛城まで全部望めます。そして海も見えます。

 昔は茅渟(ちぬ)の海といわれて、一面が湖だったわけです。さらにその向こうに山があって、大阪は半円ないし四分の三円は山に取り囲まれていたのです。上町台地に立つとずっと周りに水があり、さらにその向こうに山が広がっていたのです。その水に太陽も月も、星も雲も映る。縄文人、弥生人、古墳人はこんな景色をずっと見続けていたのです。

 森の宮貝塚からは、日本のあちこちで作られた多くの土器が見つかっています。つまり、今から1万年から5千年という昔ですら、大阪の森の宮は日本列島の中核と言ってもよいぐらいの場所だったのです。茅渟の海と呼ばれる今の河内一帯が湖で、そこに突き出した町は、日本の中でも特に風光明媚な場所だったからでしょう。

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