上田篤「日本人の心と建築の歴史」を語る
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なぜ書いたか〜大学の学問への絶望

 

民間の学者が面白い

上田

 今回、私は今までの研究のまとめとして、『日本人の心と建築の歴史』という本を出しました。何故こういう本を書いたのか、ですが、私は大学を定年退職してもう5年になります。講義もないし、ゼミもない、会議も、委員会もない、そのうえ建築設計も止めてしまって本当に暇になりました。そこで私は久しぶりにたくさんの本を読みました。そして読んでいるうちにたくさんの疑問が沸いてきました。しかしその疑問に答えてくれる本がなかなか見つかりません。そこで自分で考えて書いてみようと思い、この5年間に共著も含めて8冊ほど書きましたが、今回が9冊目になります。

 この5年間につくづく感じたことがあります。私は大学に36年、教師として勤めましたが、大学が日本の知識・文化の中心にあるのだろうか、ということです。実はこの5年間で読んだ本などは、大学の先生が書かれたものよりも、大学以外の人が書かれたものの方がおもしろかったからです。こんなことは今まで経験したことがなかったことで本当に驚きました。

 一つだけ例を挙げますと、私は大学を辞めた後に「社叢学会」という鎮守の杜を守る学会を作りました。そして森に関して、森林学や造園学の先生と様々な話をしたのですがいまひとつピンとこない。しかし、予備校の先生である神部四郎次さんという方の『森は一体の巨大な生き物―ホームズ流で熱帯雨林の謎を推理する』を読んで、日本の森のことが本当によくわかりました。目からうろこが落ちたという感じです。

 例えば、竹薮は一本一本をみると何百本もあるようにみえますが、地下茎は全部つながっていて、何十年かして、ある時一斉に花が咲くと翌年には一斉に死滅する、と言われます。同じことが水蓮にも見られます。蓮の美しい花は一斉に咲くのです。なぜなら地下茎で全て繋がっているからです。だから死滅するときも一斉に死滅します。1個の生物なのです。

 神部さんがおっしゃるには、東南アジアの熱帯の森も一つに繋がっている、というのです。日本では春に多くの花が咲きます。では一年中夏の熱帯ではいつ花が咲くのでしょうか。熱帯では5、6年か7、8年おきに一斉に咲くのです。しかも種類を問わず咲くそうです。この熱帯雨林の一斉開花現象は、世界の森林学者が研究していますが、未だに明らかになっていない。だから学問なんて、だめなのです。何にもわかっていないのです。

 それで神部さんがいろいろ考えられました。彼は、熱帯雨林は竹や蓮のように根は繋がっていないが、土壌は共有しており、菌根菌という菌が違った種類の根と根の間の栄養のバランスをとっている、と言うのです。結局熱帯雨林では、花が咲くときには違った木の花も一斉に咲く、という現象から、熱帯雨林全体が一つの生き物と言えるのではないかと言っているのです。

 同じことが日本でも言える、という人も出てきました。ソメイヨシノは一つの山の花が一斉に咲きますが、その仕組みは植物学者の間でもまだわかっていません。その他、椎の木も椎山があれば一斉に開花するそうです。一斉開花現象は日本でも存在しているのです。

 その謎解きに挑戦し、森にはたくさんの木が生えているけれども、土壌という共通項がある、土壌は単に木の根を支えているだけではなく、菌類、アメーバなどを含めた原生動物・植物などを含めて見たとき、お互いに栄養を交換しているのではないか、という可能性があり、森は一つの生き物ではないのか、と述べています。私はこれが認められればノーベル賞をもらってもよいのではないか、と思っています。

 昔、京大の植物学者と議論したときに思ったのですが、最近になって日本の植物学者は日本の土壌というものをやっと考え始めたのではないでしょうか。これまでは西洋の土壌学中心だったのです。西洋の土壌学は、日本のものと全く異なるのにです。日本の山の土壌は動いており、木も動いている。山に生えている木は100年で1m程度動くのは常識だそうです。速いところでは1年に1mも2mも動く。

 山には岩盤があってこれは動きませんが、その上に土砂や岩があって、さらにその上に土壌があります。それらは岩盤以外は重力で少しずつ動いています。したがってその上に乗っている木は、基本的に動くのです。動かないのは頂上の三角点だけだそうです。

 こういうように山が動くという考えは、西洋には全くありません。何故ならヨーロッパには基本的に山がないからです。あるのはアルプスぐらいですが、そこには岩と氷しかありません。ピレネーとアペニン山脈の一部を除いてはヨーロッパ人は木の生えている山の土壌について考えてみたこともないのです。

 地震はプレートテクトニクスによるものです。しかし、これは爪の伸びるくらいの速さといわれる。爪は一年にせいぜい1センチか2センチしか伸びません。そう考えると日本の山の木が動くスピードとプレートが動くスピードは似たようなものなのです。しかしプレートが動くといって大騒ぎしている。山の方は騒がない。西洋にないからです。それぐらい、日本のものは全てダイナミックです。このダイナミックという表現をしたのは江戸初期の学者の伊藤仁斎です。彼は「万物は生きている」という事を言いました。本来この考えが日本の学問の中心になるべきでした。しかし西洋のスタティックな考えが取り入れられてしまいました。


江戸時代から続く官学の不毛

 『日本人の心と建築の歴史』を何故書くようになったのか、というと、私が36年間勤めた大学には、全く学問的に意味がなかったと感じたからです。大学と学会を離れて広く世間を見渡したら、おもしろい学問をしている民間の方々がたくさんいることに気づきました。そして、私も遅まきながら民間の学者になろう、と思いましてこの本を書きました。

 こうした現象は現在に限ったことではありません。江戸時代も同じです。江戸時代は為政者が学問を奨励していた時代です。そして、たくさんの学者が出ました。岩波の『日本思想体系』で調べてみると、江戸時代には、伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠、山崎闇斎、林羅山、中江藤樹、安藤昌益、大塩中斎、新井白石、石田梅岩、本居宣長、三浦梅園、佐藤一斎、本多利明、富永仲基、山片蟠桃、吉田松陰、木下順庵、熊沢蕃山、三宅石庵、緒方洪庵などの多くの学者が出ました。

 江戸時代には、今日の大学や高校に当たる藩校が250から300校もあり、何千人もの先生がいたのです。しかし先ほど挙げた学者の中で藩校の先生だったのは林羅山のみです。残りは全て私塾の先生でした。吉田松陰の松下村塾などが良い例です。そして林羅山を除いて、藩校の先生の思想は何も残っていない。日本の学問はどうなっているのでしょうか。このこともこの本を書いたきっかけです。

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