上田篤「日本人の心と建築の歴史」を語る
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民の都市計画へ

 

 昨年8月7日に、日比谷公会堂で町づくり全国会議がありました。800人から1000人が集まる大きな会合です。

 私は、そこでコンペの審査をやりましたが、その発表のとき「この大会は一過的な集まりでしかない。今の町づくりは一過性のもの、打ち上げ花火のようなもので芯がない」と、冷や水をかけるようなことを言いました。

 後で色々反論があったようですが、現在の町づくりには哲学がないと思います。哲学どころか学問にもなっていないのです。

 「大阪学」のように何でも「学」を付けたら学問になるわけではありません。経済学については、アダムスミスが国富論で、歴史と理論を書いていますし、マルクスも、エンゲルスと共に弁証的唯物論と史的唯物論という理論と歴史観を書いています。このように、歴史と理論がないと学問とは言えないのです。現在の町づくりは歴史を見据える視点が欠けています。

 日本では歴史的に見て官製都市計画は何も残っていません。70もあった国府がどこにあったかもほとんどわかっていません。今日の日本の都市は、たとえば江戸は、浅草の門前町から始まり、太田道灌がそれに目を付けて人が集まるというところから城をつくったのです。

 大阪は難波の宮がありましたが、それがどこにあったか、ずっと分かりませんでした。その中で山根徳太郎という碩学の学者が、何の支援もうけないまま一人で難波の宮を発見したのです。

 大阪と言って思い出すのは大阪城です。大阪城は豊臣秀吉がつくったと思ったら大間違いです。大阪城という「都市センター」は蓮如が作ったのです。蓮如の石山本願寺をもとにしてつくったのが秀吉の大阪城で、ほとんどが石山本願寺の材料を使って、同じ場所につくられたのです。それが夏の陣、冬の陣で潰れたあと、松平忠明がいまの場所に大阪城をつくり、それは焼けて昭和10年に作られたのが現在の大阪城です。

 このように、大阪という町を最初につくったのは蓮如なのです。蓮如は大阪のことを「生玉庄大坂」と呼び、そこに石山本願寺をつくった。生玉とは生玉神社のことで、したがって大阪の中心は生玉神社なのです。653年に中大兄皇子(天智天皇)と孝徳天皇が遷都を巡って対立し、中大兄が飛鳥に移って以降、難波の宮が滅び、1520年頃に再び大阪が蓮如によって復興されるまでの約900年の間、大阪は「虎狼の住みか」と言われました。生玉神社と四天王寺以外には何もなく、渡辺の悪党が荒らしまわっていた無人の地だったのです。そのような場所に蓮如が目をつけて、本願寺をつくったのです。

 これは官製都市計画ではなく、民の都市計画です。もっと民の都市計画の歴史を研究して欲しいものです。

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