上田篤「日本人の心と建築の歴史」を語る
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町づくりの問題点

 

いまだにモダン建築に憧れる建築界

 現在、日本では多くの問題が山積しています。町づくりを例に話します。

 戦後多くの日本人がヨーロッパ・ツアーに出かけています。ヨーロッパの町に行って感じるのは、古い町が多いということです。パリではモダン建築はラ・デファンスのように離れたところにしか建っていません。ポンピドー・センターやユネスコの建物などの一部を除いてパリの中には新しい建物はほとんどないのです。

 ヨーロッパでは、基本的に新しい建物は建てられず、伝統的な様式の建物しか建てられない。新しい建築が建てられるのは、都市計画で新しい建築が建てられるように決められた場所だけです。極端に言えば、グロピウスのバウハウスなどの実験建築だけがモダン建築でした。

 明治以降、ヨーロッパに行った日本人建築家が帰ってきて、歴史的な石造りの建築や、レンガ造りの建築、アールヌーボーや表現主義・構成主義などのモダン建築、機能主義建築など様々な建築を建てました。日本の建築家が、ヨーロッパの最新建築を競って建てたおかげで一般の人々もヨーロッパ中がバウハウスのようになっていると思ったため、モダン建築が日本中に蔓延しました。

 しかし、現在ヨーロッパに自由に行けるようになり、行ってみたら古い街並みばかりが残されています。しかし建築家は不思議に思っていない。日本では逆にごくわずかな古いものが伝統的建造物群保存地区などとして限定的に残されているだけで、あとは何でも建てられるのです。このような違いの意味を未だに日本の建築家は分かっていないのです。

 それぞれの国にそれぞれの建築の文化がある、ということを現代の一流の建築家は認めたがらない。風土も歴史も伝統も文化も全ては古くてダメなものである、という意識がある。建築は世界の建築、グローバルな建築であるべきで、ニューヨークでも、バンコクでも、上海でも、ドバイでも、東京でも、どこに建っても同じであり、普遍的な建築価値があると思ってそれを追い求めているのです。そして、『新建築』をはじめとする雑誌が多く出版され、外国に新しい実験的な建築が建てられると喧伝され、同じようなものが日本でも建てられるのです。

 たしかに、外国でも一握りの建築家はそのように考えていますが、一般の庶民は必ずしもそうは思っていません。フランス人もイギリス人も自分のところの伝統的な形を残したい、と思っているのです。

 ヒットラーがシュペアーという建築家を使ってベルリン計画をつくりました。ヒットラーは元々建築家であり、建築に対する思い入れが強い人でした。このベルリン計画は実現しませんでしたが、その計画は古代ローマを模したものでした。つまりゲルマン人の故郷として、古代ローマをもってきたのです。そしてヒットラーは、グロピウスやミース・ファンデル・ローエなどのモダン建築を作った建築家を追い出したのです。

 おかげでグロピウスもミースもニューヨークやシカゴに行き、アメリカのモダン建築が発達しました。確かにヒットラーは悪いし、私はヒットラーを賛美する気は毛頭ありません。しかし、ヒットラーは民主的にドイツ国民に支持されて政権についたのです。ヒットラーとシュペアーのベルリン計画は国民の圧倒的支持を得ており、ドイツ国民はモダン建築を望まず、伝統的な建築をつくることを望んだ、という事実は見逃してはならないと思います。

 同じ頃、日本は軍国主義の時代でした。昭和15年に建築学会が大東亜記念館のコンペを行ないました。当時の軍中枢部はモダン建築志向だったために多くの人がモダン建築の案を出しました。しかし一等は、若き丹下健三が作った高さ30mの瓦葺きの「大屋根建築」でした。丹下の師である前川が審査委員長でしたが、前川が敢えてそれを選んだのです。伝統的な文化を守りたくない、という軍部の意識にたいし前川と丹下は抵抗したのです。


文化と伝統を否定した明治維新

 どの国でも文化がなければ国家は成り立ちません。フランスはフランス文化の国であって、フランス文化を守るのがフランスという国なのです。頻繁に変わる国境などは関係ないのです。国は文化でできているのです。しかし、日本は島国だから文化を守らない国が危うくなる、という意識はあまりなく、日本文化は明治以降、否定され続けてきました。

 明治維新後の銀座での大火事で銀座にレンガ街ができました。これを推進したのは伊藤博文、大隈重信、井上馨の3人です。藤森照信さんによれば、彼らが密議をして、東京中の町を全てレンガの町にして不燃化することを決めたのです。

 しかし、縄文から考えると1万4000年の日本建築史の中で、日本建築には石やレンガを使わなかったのです。例えば空海が中国に行ったときに、北京にはすでに大雁塔、小雁塔というレンガ造の建物がありました。しかし空海は日本でレンガ造の建物をつくりませんでした。空海がつくったのは相変わらず木造の五重の塔でした。また日本の城郭建築は、戦争のための建物であるにもかかわらず木造建築なのです。日本では伝統的に石造は死者の建物、お棺以外には使われませんでした。そこには、建築は生きており、生きた材料でなければならない、という日本人の意識がありました。それを破ってしまったのが明治のレンガ街であり、その首謀者は伊藤博文、大隈重信、井上馨の3人です。

 この3人は、本来、大した人間ではないのです。吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通という偉い人達が全て殺されたために、二流の人物が明治維新をやらざるを得なかったのです。そして二流の人物が考えることは、日本文化などを省みず、日本を欧米に近づけることだけしかなかったのです。西郷隆盛は「皆さんは欧米の後を追え、とおっしゃるが、欧米はアジアを全部奴隷化しているではないか。こんな国がモデルか」と言っています。それを聞き入れず、欧米化の道を歩んだのです。

 私は司馬遼太郎さんと生前親しくしていただき、色々なアドバイスをいただきました。司馬さんは偉い人だと思っていますし、大好きな人です。しかし残念なことに明治維新をあまりにも評価しすぎた。明治維新の半分は問題なのです。司馬さんは、西南戦争を取り扱った長編小説『翔ぶがごとく』の最後でも「この本を書いてみたけれども、西郷隆盛が何を考えたか分かりませんでした」と正直に書いています。結局、その辺りが明治維新の問題だったと思います。日本文化をどうするのか、が分からず仕舞いだったのです。


消えた「気配の文化」

 ヨーロッパは大平原の中に色々な国があって民族がいます。民族によって、言葉や習慣、信仰、価値観が違うため色々な意味で摩擦が絶えない。したがっていつも他民族から侵されるのではないか、という心配があります。中国でもヨーロッパでも、都市は基本的に城壁をもっていました。ヨーロッパでは、他民族に打ち勝った人達が司令官になって王朝を築いているのです。

 しかし日本は島国で、そのようなことはありませんでした。では日本は何が問題だったかというと、それは自然です。日本列島は地球上の12の地殻プレートのうちの4つのプレートにのっており、きわめて不安定なのです。フォッサマグナは糸魚川、天竜川のラインだと習いましたが、これは間違いで、フォッサマグナの西側がその線であり、東側はどこだかいまだ学者の間で意見が分かれているのです。富士火山脈あたりが東側だという説や千葉県までいっているという説もあります。西日本はユーラシアプレートにのっており、東日本は北米プレートにのっており、伊豆半島はフィリピン・プレートにのっている。その間がフォッサマグナであって、そこから地球のマグマが吹きあがっているのです。

 したがって、日本列島は昔から、地震、火山、山崩れ、津波の絶えない国だったのです。そのうえ大雪や台風もあります。そのため、日本の歴史を読んでいると、災害のことばかり書いてあります。

 私は漁民に興味があり、漁村調査に何度か行ったことがあります。ある島の漁村で、夜遅くまで漁民と呑んでいて色々質問したとき「朝、浜に出たら分かるよ」と言われました。翌朝、早くに浜に出ると、夕べ酒を呑んだ人達が思い思いの格好で集まり、お互いに挨拶もしないで焚き火をしながら煙草を吸っているのです。それが30分から1時間ほど続き、そのうちにぽつりぽつりと帰って行く。「何をしているのか」と質問しましたが何も答えてくれませんでした。最後に皆がいなくなってから一人の漁師が「これが毎朝の日課なのだ」と答えてくれました。

 毎朝、漁民はここに来て、海、波、沖合の雲、風を見て、今日船を出すかどうかを1人1人が決めているのです。漁民は天気予報などを信じない。今年の冬は大雪でしたが、去年の秋の天気予報では暖冬と言っていました。天気予報もあてにならないのです。しかも気象庁は、漁村の前の海のような局地的な天気などは言ってくれません。したがって、漁民は人の言うことなどは聞かず、自分の目で見、身体で確かめて船を出すのです。

 羅針盤のない時代には、嵐にあって陸地を見失ったら最後です。だから、必ず自分の目で見、身体で感じて決めるのです。「早く帰った連中は船を出す連中で、最後まで残って煙草を吸っていたのは今日は船を出さない人だよ」と言われましたが、その通りでした。

 しかし漁民は連帯意識が強く、誰か一人が海で遭難したら皆で助けに行きます。でも、自分が船を出すかどうかは自分の判断にしかよらないのです。先輩も、親も、友人の意見も、ましてや学者の意見などは絶対に聞かないのです。

 船を出すかどうかを決めることは命がけであり、そこで全身で自然の気配を感じるのです。現在日本中で多くの貝塚が発掘されているように、日本人は古くから漁民で、これを縄文時代からずっとやり続けてきたのです。

 稲作が入ってきた後も同様です。南方の水生植物である稲を北方の日本で生育させることは大変なのです。雨が降らなかったら、天気が続かなかったらそれで終わりです。田植えや稲刈りの時期を決めるにも、天気を予見することが絶対条件だったのです。

 そして、それを予見できた人が巫女だったのです。フランスの哲学者アランは「ヨーロッパのシビラつまり巫女は皆おどおどしている受身の女、弱い女だ」と言っています。これは、弱い女ほど環境の変化に敏感だ、ということです。ある女性は「私は小さいときいじめられっ子だったけど、いじめられっ子はいつも周りの人達が何を考えているのかを考え、人の心ばかり見ている」と言っていました。また、小さな女の子はものすごい環境観察力を持っています。私の孫は、一度訪れた町を私よりよく覚えていますし、道を歩いていても蟻一匹を見落とさないのです。ただしこれは3歳から5歳までだけで、5歳を過ぎるとだめなのです。動物でも、シマウマや鹿などは絶えず周りを見まわしているように、弱い動物ほど周りの環境を見ることは当然のことなのです。

 日本で天候や変化を予見できたのが沖縄の神女のノロです。男が船で漁に出て、女は男が採ってきた魚を売るわけですが、それと同時に、漁に夢中になって天候を忘れてしまう男達に、火を焚くことによって陸上から危険を知らせたりするのです。そのような形で日本の巫女、そしてそれが発展して天皇が生まれ日本のリーダーシップが生まれ、日本の文化が生まれてきたのです。つまり、自然や人間社会も含めて気配を感じる、ということが日本の文化なのです。

 一方、ヨーロッパは文字文化です。アメリカにいる日本の商社マンに聞いた話ですが、アメリカ人はよくホームパーティーをします。そこで自分もパーティーを開こうと思って数人の友人に電話をして誘ったそうです。そして土曜日に料理を作って待っていたら誰も来ない。そこで電話をしてみると、皆「招待状がない」という。だから来ない。これは、例えば女性が着て行ったドレスにワインがこぼれても、保険会社は招待状がないとお金を払ってくれないのです。全てが文字で書かれていなければならない契約社会です。個人のパーティーにも招待状が必要なのです。

 このように日本人は気配を感じます。それが日本文化なのです。それがなくなった結果、欧米流の契約社会のようなルールのあり方もないままに、とりわけ高度成長以降、経済力と技術力を手に入れたことで、町がぐちゃぐちゃになってしまいました。日本中が「リトル・アメリカ」と呼ばれるようになってしまったのです。

 町づくりの問題点はその辺りにあるのだと思います。

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