「際立たずおさまる」美しさか、「目立つ破調」の美しさか
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デザイン教育の姿勢を問い質す

 

デザインの目標

 デザインの目標にも、芭蕉が闘って求めようとした「軽み」の世界と同じことが言えると思います。

 冒頭に言いましたように、今デザインは時流に乗っている、分かりやすい、話題になる、施主にとって評価できるといった評価されやすいものに仕事が来ています。公共的な仕事でもそんなふうになっていて、どんどん分かりやすいデザインになっています。

 しかし、そればっかりやっていると、お二方がお話の中で述べているように「おさまらない」デザインばかりになってしまう。エントロピーが大きくなっていく方向ですから。そういう状況では「いい都市景観、いい都市環境」と言っても、誰もそちらを向いて働いていないんだからできるわけないじゃないですか。

 今回のフォーラムに向けて、我々デザイナーはどうすべきかを論じるとき、こういった状況に目を向けることも避けては通れない重要な課題だと思います。ただ、これは語り口が難しい。「そうしないと仕事が来ないんだから仕方ないでしょ」と言われたら、そこで話が終わってしまうんです。

 しかし、それじゃそれこそ芸がないじゃないですか。芭蕉のように「ジレンマなんだけど私はこういう風にやろうとしている」「仕掛けをして数年後には現れてくる」といったたくらみがないと、デザインの話にはならないと思っています。「長い間に仕組む」のもデザインの一種だから、そんなこともやっていかなければと思うのです。


社会的な常識、拡散する評価軸

 今は社会的な常識が必要とされていながら、一方ではその評価軸が拡散しています。例えば、「こんなふうにしよう」という社会的な枠組みがあって、それに沿って頑張れば仕事になるということがあれば、とてもいいわけです。一定の幅を決めてデザインの力を競うことが出来ればいいと思うのですが、残念ながら多くの場合、枠組みそのものが出来ないのです。そういうときは、施主とデザインをする立場の人の共同関係が必要なのに、その力関係もちゃんと出来上がってはいないのです。

 そういうとき、我々のような都市環境に携わる人たちがいろいろと仕組まなければいけないと思います。できれば、フォーラムではそのことについても議論できればと思います。特に発注者の概念でデザインについて議論してもらうと、若い人には刺激があっていいように思います。

 そういう話はあまり学校の教育の中には出てきません。人を呼ぶデザインが価値が高いのだ、ということばかり強調される教育を受け、それしか知らずに社会に出てしまうと大変なことになります。現にコンペをやると「それが実現したら大変だ」というような作品しか入賞しなくなっています。

 もちろん、そんな作品をつくる尖がった人も世の中には必要なのですが、全員が尖がる必要はない。しかし、今の若い人に「尖がらないデザイン」を教えるのは大変難しいことです。今は「競いなさい」と教えるから、みんなが尖がりデザイナーを目指してしまうわけで、「デザインを競わなくてもいいんだよ」と教え方の方向を変えると状況を変えられそうにも思います。そんなふうに思って、こんな問題提起をしました。

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