路地からのまちづくり
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はじめに

DAN計画研究所 吉野国夫

 

路地論は21世紀を切り開く

 昨年(2006年)12月に学芸出版社から『路地からのまちづくり』という本が出版されました。出版記念パーティーが神楽坂で開催されたのですが、それなら関西でも関係者だけの簡単な集まりをしようと言っておりましたら、前田さんのいつものやり方で、このような沢山の方が来られる会になり、非常に喜んでおります。

 この本をお持ちでない方は是非買って読んで頂きたいのですが、参考までに本の内容をご紹介いたします。

 まず序論・序説として「今なぜ路地なのか」を東京大学の西村幸夫さんが書かれています。2005年の路地サミットで、西村さんがずっとご指導されている神楽坂のお話を中心に、都市計画と路地の関係についてお話されたことがあり、そのときの話がベースになっています。

 その主旨は、大げさに言うと、路地は20世紀型の都市計画に対して大きな問題提起をしているのではないかということです。

 西村さんは路地を評価するための一般的な項目を書かれています。そのうちいくつかを挙げますと、

 「計画的な道路システムの下位に位置付けられているサブシステムである」

 「道路法や道路構造令などの規定・規格に適合しない規格以下の道である」

 「路地は人間の歩くスピードを前提として形成されているので、当然ながらヒューマンスケールが貫徹している」

 「そのため仕掛けが細やかで、スローな暮らしによく適合している」

 「コミュニティの基礎ともなっている反面、自動車交通には全く対処できない道路である」

 云々とあります。その他、防災上の問題もあります。

 これらを見れば、現在の常識的な道路なり交通のあり方を、路地はことごとく破っているということがわかります。

 「路地的なもの」として、西村さんは、原広司さんの『集落の教え100』の中で指摘された有名な一節を引用されています。それは「あらゆる部分を計画せよ。あらゆる部分をデザインせよ。偶然に出来ていそうなスタイル、何気ない風情、自然発生的な見かけも計算しつくされたデザインの結果である」という言葉です。つまりデザインと自然発生的なロジックというものをとことん突き詰めていった中に何かあるんじゃないか、ということであろうと思われます。

 それゆえ路地論は21世紀文明に目鼻をつける先導役にならないだろうか、またそういった思想の上に構築される計画技法が現在生まれて来つつあるかもしれないとされています。まだ感覚的な話で理論とは言えないと思うのですが、そういった印象を書かれています。

 それから橋爪紳也さんは、2004年の路地サミットで法善寺の取組みについて発言されていますが、今回の本では「つなぎとめる場としての路地」ということで、劇場の問題、囲い地、メディアとしての路地といったことを書かれています。

 また今日来られている寺田弘さんは、第1部で「しつらえの路地の魅力」について書かれています。寺田さんが活躍されている神楽坂については、長く関わられているコンサルタントの山下さんが第2部で書かれています。

 また、 防災の観点から大御所の室崎益輝さん(消防研究センター所長)が路地の問題を真正面から捉え路地まちづくりの活動を前向きに評価されている点も本書の大きなポイントといえます。


長屋の所有のあり方と路地のコミュニティ

 私は、「コミュニティの原風景」について、空堀で経験したことを中心に書いています。今からもう30年くらい前の空堀に存在した濃密な路地のコミュニティを調査した事があるのですが、この数年前に同じような調査をした方(大手前大学の川窪助教授の元学生さん)が相談にこられたので、以前と比較してコミュニティがどう変化したか、路地に関する意識がいかに変わってきたかという調査をアドバイスした事を踏まえて書いております。

 ここで私の結論を申し上げますと、路地の中で形成されたコミュニティは、路地の中の長屋の所有形態によって大きく変わるということです。

 何十戸という単位で一体開発される路地は、それを路地単位ごとに、関東では「家守」、大阪では「差配(さはい)」といいますが、その差配さんが管理しています。住んでいる人は土地も建物も借りているので、そこは管理されたコミュニティだったわけです。

 戦後に家賃統制令等が出されたことにより、相続の問題もあって、こういった所有者が長屋の方に土地や建物を買ってもらった結果、8割ぐらいが地主さんの所有を離れました。そうすると、それまではアパートの借家人みたいなものであったのが、マンションの管理組合ではないですが、所有者になることによって、コミュニティの自主性が出てきました。

 その頃から各路地ごとに祠(ほこら)がどんどん出来たわけです。祠は、元々は井戸があったのが水道化されて余ったスペース、あるいは火災時の避難用に抜けていた細い抜け道みたいな所に置いてあります。

 空堀は、祠や地蔵さん、稲荷の密度がおそらく全国一じゃないかと思うくらい密集しているのですが、住民がそのお稲荷さんなり祠を管理する組織を作っており、日常の管理はもちろん、年に1回は地蔵さんであれば地蔵祭りを、お稲荷さんであれば初午(はつうま)の祭りを催しています。これはただの一例ですが、祭り以外にも日常生活の中に濃密なコミュニティが出来ていたのです。

 ところが、昭和40〜50年代までは濃密であったものが、どんどん高齢化し、人も出て行き、今ではその濃密なコミュニティが崩壊しつつあるわけです。これがいつまで続くのか分かりませんが、空堀の例だけ見ても、コミュニティはこのような条件によって変わっていくことがよく分かりました。

 寺田さんの関わられた神楽坂の場合は、空堀と違って完全に商業的な街です。

 空堀の場合は路地に入ったら怒られますが、神楽坂は歩いても怒られない。商業的な路地ということで、また違った、良いお話が聞けるんじゃないかと思います。

 なお、全国路地サミットの母胎である「全国路地のまち連絡協議会」は2004年8月に大阪の住まい情報センターで開催された第二回の全国路地サミットを契機に創立されました。これは入会金・会費が無料ですから、関心のある人は申し込んでいただければと思います。

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